5.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる
これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。個人の中ではそれを超えるか超えないかの葛藤(ホフマンの言う「弁証法」)が生じている。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、それをめぐって両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして名目上のバウンダリーは常にその破壊や修復が生じるとも言える。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。
このような性質を持つバウンダリーは、一方ではそこで遊びや創造性が発揮され、その意味で極めて豊饒で生産的な場となる。しかしそこはまた、予測できずに唐突に踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかを駆け足で触れておこう。
先ずはバウンダリー上での遊びや創造的な発見について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の庭から一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。彼はまだ自宅の庭のバウンダリーである垣根を超え出たことのない。彼はいつもは「一人で外に出てはいけませんよ」という母親の教えを守っているが、しかしその日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている庭のほんのちょっと外を見てみたいと思う。母親はたまたま家事に忙しく、こちらに注意を払っていないようだ。
そこで幼児は門の隙間から足を踏み出してみる。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに外に踏み出すだろう。彼の好奇心や探求心は、多少の不安や恐怖に抗われつつも、ジワジワと彼の行動範囲を広げて行く。この段階では、幼児はこのスリルを明らかに楽しんでいると言えるだろう。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してさらに何歩か進んでみる。すると何軒か先の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼は新たな世界を発見したのである。
しかしこのバウンダリーを踏み越えるワクワク体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほど遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知り、突然不安に襲われる。思わず「ママ―!」と叫んでみるだろう。しかしこれまでは何があってもすぐに飛んできてくれる母親の姿はそこにはない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。その時の幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型といってもいいだろう。