この部分はかなり修正をした。
3.バウンダリーの概念の深化と「治療的柔構造」
渡米してからの臨床経験を通じて知ったことは、それまで持っていた「治療においてバウンダリーは守るべきものである」という考えと現実との大きなギャップであった。臨床においてバウンダリーはしばしば、それも当たり前のように破られるのである。そしてどのような場合に患者の抵抗の表れで、どのようなときに偶発的なものかをかぎ分ける嗅覚も、さほど鍛えられなかった様に思う。その代わりに学んだのは、精神分析に関わるバウンダリーの問題は、実は開始時間に留まらず、ありとあらゆるものに及んでいるということだった。
分析的な治療に際しては、それこそ分析家に必要な態度としての受け身性や匿名性に留まらず、分析家の声の抑揚、挨拶の仕方、頷く調子などもそれぞれの治療関係により概ね定まっている。そればかりか面接室の冷房の効き具合、枕の柔らかさなどもほぼ一定に保たれることで安全で安心な環境を提供する。そしてこれらは一定のレベルや範囲を超えないという意味ではことごとくバウンダリーの問題としてとらえることができる。
小此木先生自身も、治療構造を分類し、眼に見えないものの治療者と患者により体験されているものを内的な治療構造とし、それ以外の眼に見える外的な治療構造と分けて論じていたのである。つまり私のそれまでの治療構造の概念の理解が浅過ぎたのだ。
そしてむしろ次のように考えるようになった。
「バウンダリーはそれ自体が定まっていることで、それをめぐる微妙なやり取りが患者と治療者の間に繰り広げられる。そしてその駆け引きには患者だけでなく、治療者もまた参加しているのである。つまりバウンダリーは実際には固定されていず、柔らかく変動するのだ。これが後に私が「治療的柔構造」と呼ぶ考え方となったわけであるが、このような考え方も小此木先生の論文にはその原型が記載されていたのである。この柔構造的な考え方を説明するために、ある例を示そう。
(以下略)