4.治療におけるバウンダリーの本質
上の精神分析の例は何を示しているのか? それは2時という治療開始時間が明確にバウンダリーとして存在することで、それをめぐる患者と治療者の間のやり取りやダイナミズムが生じるということだ。これは「2時ぐらい」という大雑把な開始時間の場合にはなかなか生じ難いことだ。そしてそれは治療の開始という作業が実際には人間により行われるために、そこに偶発的、ないしは心理的な様々な要素が入り込む余地が生まれる。
もし治療者も患者もロボットの様に毎回2時きっかりにドアがノックされ、治療者が間発入れずにドアを開けるというような「剛構造的」な仕組みが存在するならば、そこには何の力動も生じようがない。それはちょうど時間に厳密なテレビ放送で、2時の前後の二つの番組のディレクターどうしにはもめごとが起きないのと同じだ。しかしそこに生身の人間が関与している以上、両者の綱引きが生じ、実際の開始時間は名目上のバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、毎回が一種の妥協の産物として「柔軟に」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。
そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーの実態はもっとしっかりとした、太くかつしなやかなものとなって行くのだ。そのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自らを示す。理想的に言えば心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、いざとなったら自己防衛のできる人間としてそこに存在し続けるのだ。
このように描かれたバウンダリーの在り方を私は柔構造的、と言い表しているが、もしそうでなく、剛構造的なバウンダリーの在り方はどのようなものになるだろうか?実は私が日本を発つときに考えていた治療者のイメージがそれに相当するのだ。治療者がバウンダリーを定め、それを患者が守るかを観察する番人としての役目を果たすのだ。その考え方は、実際の治療開始時刻などのバウンダリーが治療者と患者の様々な思惑でぐらぐら揺れるという現実をあまり考慮しない場合の考え方ということが出来るだろう。
よくよく考えると治療構造にはこのように硬いバウンダリと柔らかいバウンダリーの二種類があることになる。たとえば料金(一回1万円としよう)は普通は揺らぎようのないバウンダリーだ。患者は「今日の分析家は少し眠たそうであまり聞いてもらった気がしないので、9500円だけ振り込んでおこう(銀行振り込みによる支払いの場合)とはならない。あるいは今日は疲れたからちょっと近場で分析を受けようとはならない(そんなところにオフィスが移動するわけはない)。
さらに言えば、分析的な治療には、いつもだいたい決まっていて明文化されてはいないが「内的な」構造というのはいくらでもある。分析家の声の調子、頷きの頻度、オフィスの暖房の効き具合、カウチの枕の柔らかさ等ことごとくがだいたい定まっていて、見えないバウンダリーとして機能しているおかげで分析のセッションに安全な環境となっている。そしてそこにあらゆる力動が入り込んでいる余地があるのである。
ところで柔構造においてバウンダリーを前後に押す力は何に由来するのか。これについて論じている分析家がいるのでその考えを引用しよう。トピックとしては少しマニアックだが面白いテーマだ。
例えば開始時刻2時の10秒前に患者がブザーを押した時、治療者の反応として二種類を示した。一つは「ちょっと早いな。でもいいか。多めに見よう!」という反応であり、そこには治療者の鷹揚さや大雑把さが反映されるであろう。しかし他方では「治療開始時間は厳守しなくては。しばらくはドアを開けずに定刻まで待とう」という超自我的な抑制も働く。このようにして私たちの行動はバウンダリーをめぐって自由で規則に捉われない自発的な方向性と、それをかたくなに守るという厳密に規則を守ろうとする強迫的な方向性を有する。いつもこの両方がせめぎ合って最終的な行動が決められていく。
ちなみにこれは個人の心の中ではほとんど常に起きていることだ。起床する時は目覚まし時計の鳴る音に触発されて自らを律して寝床を飛び出そうとする力と、それを無視してもうひと眠りしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。
この種のせめぎあいについて、アメリカの精神分析家アーウィン・ホフマンは前者を「自発性spontaneity」,後者を「儀式 ritual」 としたのだ。そしてこの二つがいわば弁証法的にせめぎ合うものとして人間の行動を大胆に描いたのである。
しかしこの種のせめぎ合いは、治療開始時間の様に二者が関係している場合には一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」され、いくつもの要素が絡む。そこでは患者の「開始時間に少しぐらい遅れたっていいだろう!」という方向性には、自身の「いや、きちんと時間を守らなければ」という儀式性が拮抗するであろうが、それはまた治療者の側の「開始時間を厳守すべし!」という儀式性も加勢するだろう。患者はそれを当然感じ取っているはずだ。しかし他方では「遅刻してしまえ!」は治療者の側の「自発性」によって後押しされている可能性もある。治療者にも遅刻を大目に見てあげようという気持もあり、それは彼が昔子供の頃に遅刻をしても咎められずに済んだ時の安堵感が反映されているかもしれない。あるいは時間厳守を強要された過去への反動が関係している可能性もあるだろう。こうして患者の遅刻は数え上げただけでも4つの異なる力のせめぎ合いにより実際の遅刻という行動としてあらわされるのである。