今回は埼玉連続幼女誘拐殺人事件、別名宮崎勤事件について整理する。日本で多重人格について論じる際に必ず顔を出すからだ。そこでWIKIの記事を自分なりに要約してみる。
今回は前半部分。
1988年8月 - 1988年12月にかけ、埼玉県西部で女児3人が相次いで行方不明になり、Cは行方不明になってから数日後に山中で他殺体となって発見され、1989年2月にはAの遺族に遺骨が送りつけられ、同年8月に一連の事件の犯人である宮崎勤がD事件の被疑者として警視庁に逮捕され、彼の自供により行方不明のままだったBも遺体で発見された。宮崎は2006年(平成18年)2月2日に死刑判決が確定、2008年(平成20年)執行されている。
この事件では被害者の遺骨を遺族に送りつける、犯行声明を新聞社に送りつけるなど、不可解な行動を犯人がとったことで、マスメディアによる報道が過熱。犯人逮捕後も、犯人の趣味嗜好などが大きく取り上げられ、「おたく」という呼称・言葉が広く周知されるきっかけとなった。当時としては異例の2度の正式な精神鑑定が行われた事件でもある。
A事件:1988年8月春日町で幼稚園児の女児A(当時4歳)が行方不明になり、両親が「娘が帰ってこない」と埼玉県警察に通報した。狭山署はAが友人宅へ向かう途中で誰かに声をかけられた可能性を強めて捜査した。実際にはAは犯人である宮﨑勤によって誘拐された直後に殺害されていた。宮崎は殺害後しばらく経ち、死後硬直したAの遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。
A事件から2か月後の10月にはB事件が、さらに同事件から2か月後にはC事件がそれぞれ発生した。1989年2月6日、Aの自宅玄関前に段ボール箱が置かれており、中には焼かれた十数個の骨片、犯行を匂わすメモなどが入っていた同月10日と11日に「今田勇子」の名で犯行声明とAの顔が写ったインスタント写真が郵送された。3月11日「今田勇子」名での第2の書簡『告白文』が朝日新聞東京本社とB宅に届く。両書簡とも極端に角張った利き手と反対の手で書かれたとも思える筆跡が特徴であり、筆跡鑑定が行われた。
「遺骨入りの段ボールを置いたのは、この私です。この、A一件に関しては、最初から最後まで私一人でしたことです。その証かしを立てます。まず、どうやって連れ去ったか述べましょう。・・・
Aを泳がせ、Aを見守るのではなく、私達二人を誰かが見ていないかどウカを見守ります。居る様子はなく、来る様子さえありませんでした。すると、誰も来そウにないという気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このままAを家に帰しては……」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高なりガ一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は、Aの髪の毛をつかみ、顔を川に沈め、決して自分ガ、いいといウまで、頭を水面から上げさせませんでした。
B事件:その後、同年10月3日に小学校1年生の女児B(当時7歳)が行方不明になったC事件:同年12月9日には同県川越市古谷上で、幼稚園児の女児C(当時4歳)が行方不明になった。同月20日、C宅に「C」「かぜ」「せき」「のど」「楽」「死」とそれぞれ行を改めて新聞記事の文字を拡大コピーして切り貼りした葉書が届いていた。
D事件:翌1989年6月6日、東京都江東区東雲二丁目で保育園児の女児D(当時5歳)が行方不明になった。同月11日、飯能市宮沢170-1にある宮沢湖霊園の駐車場北西側にあった簡易トイレ裏で、頭部と両手足首が切断された女児の遺体が発見され、同月12日に埼玉県警は発見された遺体が女児Dのものと断定した。なお宮﨑は「Dの両手を焼いて食べた」という旨を述べた。
1989年7月23日、宮﨑は幼い姉妹を標的として妹の方の全裸写真を撮るというわいせつ事件を起こしているところを被害女児の父親に見つかり私人逮捕。宮崎が自室に所有していた5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープを押収。