さて少し順不同となったが、そもそもこの議論の発端となった藤山直樹氏の主張に立ち戻ってみる。藤山氏はいわばこの「週一回」の議論の火付け役である。藤山はこれまで2012年、2015年、2016年、2019年とこのテーマについての論考を行っている。
藤山直樹(2012)精神分析的実践における頻度一「生活療法としての精神分析」の視点.精神分析研究,56(1);15-23.
藤山直樹・妙木浩之(2012)セッションの頻度から見た日本の精神分析.精神分析研究,56(1);7.
藤山直樹(2015)週1回の精神分析的セラピー再考.精神分析研究,59(3);261-268.
藤山直樹(2016)精神分析らしさをめぐって.精神分析研究,60(3)i301-307.藤山直樹(2019)関係性以前の接触のインパクト:週1回セラピーにおける重要性.精神分析的心理療法フォーラム,7;4-9
ここで山崎氏のまとめ(2023「週一回」とは何か)を参照しつつ藤山の論点を要約したい。
藤山氏の主張は、精神分析と「週一回」には決定的な違いがあること、ただし「週一回」が有用であることが前提であるとのことだ。彼は2014年に精神分析学会の会長を退く際の「会長講演」で、彼の有名な「平行移動仮説」を提唱した。それは週4回以上の精神分析の実践により意味を持つ「関係性の扱い」、すなわち変容惹起的な転移解釈(ストレイチー)などは、そのまま(平行移動的に)週一回の分析的治療で扱うことはできないという議論だ。2023年の論文でも彼は「よく誤解されるのだが・・・・週一回の価値を軽く考えているわけではない」(2023,p.60)という。しかし論旨としてはやはり平行移動仮説への批判を展開することになる。
彼の説をわかりやすく言うならば、週4回以上ではスムーズに、ないしは精神分析理論に沿って展開する治療が、週一回では大きな困難にぶつかる、というものである。それは端的に言えば週に1度治療者と会っただけで残りの6日間は治療を受けないという構造が非常に外傷的であり、治療においては冒頭部分においてそれを扱うことに多大な労力が割かれてしまうということだ。週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになる。「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性がある」(2023, p.67). 治療者としてはこの問題を扱うことが先決であり、それを扱わないことは分離のトラウマを治療者自らが否認していることにある。つまり転移解釈をしているどころではないというわけだ。その意味で「平行移動仮説」は棄却される。
一つ興味深い点は、藤山氏のこの一連の主張は2012年の「精神分析的実践における頻度」という論文だが、その中で彼は週2回は、週一回より週4回の精神分析に近い、と述べていることだ。「ある意味で週2回は、週一回より精神分析の方に近いように感じられる。単に量的な面で言えば、圧倒的に週一回に近いと感じられるだろうが、私の実感ではそうではない。」(p.20)。この主張はそれ以後はあまり聞かれないようだが、彼によれば質的な変化がすでに週2回で起きるとしたら、週4回の精神分析は無理な場合にでもそれに「質的に近い」実践なら可能だということになり、少し希望が見えてくるようである。ただしここで彼の言う週2回は、週のうち連続した二日ということになる。それは彼が「供給と剥奪のバランス」として2014年の会長講演で述べていることと同様である(その意味で彼の4つの論文での主張は同じであるとみていい。)これはどういうことかというと、「精神分析とは人生の一時期、覚醒時と睡眠時を丸ごと巻き込む」「ある意味『生活療法』なのである」(2012, p.18)とし、「患者のこころの乳幼児的な要素は供給と剥奪のリズムに反応して独特の心的生活を送る」(2015,p.265)とある。ここで精神分析のプロセスを幼児期への退行の様に捉えている点が興味深い。藤山氏が分析的なかかわりについて論じる解釈を中心とした介入から受けるイメージとは異なる。