2025年2月21日金曜日

関係論とサイコセラピー 6

次のような文章も興味深い。「分析家が6日間の社会生活を送る患者を見る視線は、一人の大人を見る視線であり、それは明日会う患者を見るときの子供を見る視線とは違う。」(2012,p.20)藤山氏の2023年の論文は2019年の「精神分析的心理療法フォーラム」での発表をもとにしたものであるが、そこに次のような文章もある。「乳児的部分が十分に抱えられている設定においては、患者のこころの中の関係性と今ここでの患者と分析家の間の関係性はスムーズに交流しやすい。同じ関係性が連想内容と「今、ここで」と同型の反復を持つ。それは相当に病理が重い患者でも部分的には起きる。

私は基本的にこの記述に好印象を持つ。精神分析が生活療法、というのもわかる。そこで一つ疑問があるとすれば、実際に週4回でも週1回でも、それほど「供給と剥奪のリズム」を感じることはあまりないような印象があることだろうか。例えば患者は「週一回」の場合、一週間後にしか次のセッションがないことについてどのように思うだろうか。もちろん「次のセッションが待ち遠しい」、「それまで6日間待たなくてはならずにつらい、寂しい」という気持ちを抱く患者もいるだろう。しかし週一回といえども時間をかけてセッションを訪れ、しかもセッションそのものは楽しいことばかりではなく、またそれなりの出費がかかるのが普通だ。もしこれが週一回だけ恋人と会えるという場合には、この「あと6日間は会えない」とか「会ったばかりでまた長い別れが待っている」という気持ちは非常にわかる話だ。しかしセラピーの場合はそうなるかはケースバイケースだろう。

 週4回会っている精神分析の場合、「ああ、明日も明後日も、その次も4日間連続して治療者と会える。なんと満ち足りた気分だろう」となる場合ももちろんあるが、なかなかならないことも多い。仕事の合間を縫って、一回にかなりの出費をしながら通う身としては、「ああ、あと4日間大変だな」、と思うことの方が多いかもしれない。ちょうど学生が月曜日に登校する際、そこから何日か連続して登校しなくてはならないことにストレスを感じる気持ちに近いのかもしれない。

 勿論そのように感じるということはまだ治療者と患者の間の十分な(陽性の)転移関係が成立していないから、と言えなくもないだろう。経済的に余裕があり、他に時間的な拘束がない場合にはそれに近いことが起きるかもしれない。例えば英国や米国に留学しながら分析を受けていた人は、他にあまりやることがないので、毎日の分析はとても重要な予定として意味を持っていることが多かったようである。

 実際に週4回の治療と週1回の治療を行った身としては、週一回でも4回でもそれなりに患者は義務感やアンビバレントな気持ちを持ちつつ治療を継続するものである。

もう一つの問題はこの「供給と剥奪のリズム」という考え方は、乳幼児の心をモデルにしているという点である。乳幼児と違って私たちは相手のイメージを心に留めておける。目の前の対象が消える事は、そのまま剥奪とは必ずしも感じられない。それは例えばボーダーライン心性にある人や、それこそ熱烈な恋愛関係にある人の場合にはそれが起こりうるが、ふつうは目のまえから誰かが消える事でその内的対象像に移行してくれるのだ。勿論目の前の人物とこれから二度と会えないという状態ではその限りではない。しかし通常は現実の他者は心の中のその人の対象像にスムーズに移行するものである。