ネットフリックスで見ることのできるミリガンについてのドキュメンタリーは、結局4本あり、合計4時間の特集だが、その全部に目を通して改めてこのケースの不思議さに気が付いた。そしていろいろ考えさせられることが多かった。またなぜミリガンが罪を問われることなく釈放されたかという事情もそれなりに分かってきた。
何しろ裁判で原告の人格が変わるという例がそれまでになく、裁判ではビリーが統合 fuse されるまでは証言台に立てないという雰囲気があったらしい。さもないとどのように扱ったらいいかわからなかったのだ。そして裁判官も検事も、このような前代未聞のケースに対応する心構えもなく、まさに想像もつかない狂気そのものという扱いを受け、当然通常の様には裁けないという雰囲気があったようだ。 主治医のデービッド・コール医師も、ミリガンがちゃんと証言台にたって普通に(つまりバラバラではなく一人の人間として)立てるか気が気ではなかったようだ。そしてそれで裁判が成立しても、それほどの狂気を抱えている人間に罪を問うことなどできるはずがないというコンセンサスが成立したのである。1978年、つまり3つの事件の翌年のことだ。ただしこのような判決の後には、当然ながら「たとえ狂気ではあっても罪を償うべきだ」という意見が噴出し、またミリガンの様子はどうも怪しい、狂気にしては普通に応答しすぎる、演技ではないか、という声も大きかった。結局ミリガンが無罪となったことが一つの契機となり、「多重人格とはいえ、このように処遇されるべきではない」という考えが一般的となったというべきだろう。その意味でもビリー・ミリガンの裁判は特殊だったのである。
さて印象としては1981年の本書の出版以降に起きたことがやはり一番興味深い。特に1986年に彼がアセンズの病院から疾走し、4か月の間アメリカ各地を点々とし、いくつかの事件を起こしたことが問題視されるべきであろう。この間に一人の人間を殺害した可能性が非常に高く(結局証拠不十分で罪に問われなかったが)、さらにさかのぼって1979年にもう一人を殺害していたことを自身がほのめかし、人を「殺すぞ」と脅し、女性に暴力をふるい、ということが起き、サイコパス的な振る舞いが顕著になった。遺体を巧妙に湖に沈めたらしいが、その計画性も含めて、である。しかしやはり単なるサイコパスとも違っていた。彼は人格が変わると感情が不安定になり、時には取り乱すということが起き、一緒に行動を共にした兄も扱いに困るということが起きたのだ。そこにはおそらく、逃亡の期間に抗精神病薬を飲んでいなかったことも大きいだろう。そして最後はオハイオ州で親戚にトレイラーハウスを与えられ、絵を描いて生活し、最後は癌で2014年に死去したのだ。