鈴木智美氏の論文「無意識の思考をたどること」(週一回(2014)第14章)は週4でも週1でも無意識に焦点付けるのは変わらないという主張である。ただし週1回はより慎重に、という警句も見られる。私は信条としてはやはりこの路線で行くことになる。鈴木氏は週一回は分析的であることをあきらめていないからだ。
「週一回」の特徴と限界
さてこれまで見た新しい潮流と限界について論じよう。これまでの我が国の議論は、ある一定のレベルに至っているものの、その前提は比較的限定された考えに基づくものということが出来る。そこでは基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈を最重要とみなす。これはその文脈としては正確で緻密な議論と言えるが、そこで転移を扱うことが週4回でなければ十分でないという議論はどの程度妥当性があるのだろうか。
一つ言えるのは、週4回は供給が十分であり、週1回ではむしろ剥奪が大きいという議論には問題がある可能性があるということだ。藤山は「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性」(2023, p.67)があり「週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになる」という。しかしこれはあくまでも相対的なものと言えるだろう。もちろん一般的には、週に4,5回会っている治療者のことを患者はより多く考えるであろう。そこにはより大きな親密さが生まれるかもしれず、それは週一回の比ではないかもしれない。
しかしだからと言って週4回では容易に転移の収集が出来、週一では不可能とは言い切れない。週4回でも漫然と行われる治療過程は十分あり得、週1回でも非常に大きな思い入れや意味づけが生まれることもある。これは論文には載せられない例だが、熱烈に愛し合う恋人の週一回の逢瀬と、毎日顔を合わせているが倦怠期に差し掛かったカップルと比べた場合は、どちらがより大きな「転移」が生まれるかは想像に難くないだろう。週4回なら転移が扱え、週1では無理、という問題ではないのである。ただ前者ではより多くのチャンスが生まれる(それを生かすかどうかは別として)という議論なのである。
その意味で週4回と週1回の差は、質的、ではなく量的、と考えるのが妥当であるというのが私の立場である。(むしろカウチを用いるか否か、ということで質的な差が生まれる、という方がよりピンとくるのだ。)だから「週4は転移を扱え、週1は転移を観察するのみ」をプロトコールのように唱えることは非常に危うい問題を生む可能性がある。それよりも、転移という問題に集中してそれを扱う、という前提の治療であれば、むしろ週一回でもそれなりに意味を持つ可能性がある。それがTFT(転移に焦点づけた治療)である。