続いて山崎氏は藤山氏の業績について触れ、藤山氏が「週一回が有用であることは前提である」と述べていることを強調する。しかしこの藤山氏の言葉はある種のリップサービスにも聞こえる。そこには「「週一回」は役に立つよ。でも分析ではないね」というメッセージが聞こえるようだが、それは「週一回」の臨床家には一番言ってほしくないことなのだ。
山崎氏は岩倉氏の業績を語る上で【分析的】心理療法と、分析的【心理療法】との違いについて論じる。とても便利な使い分けの仕方だが少しややこしいので、私はここで前者を「分析的」後者を「心理療法」としよう。この後者はあえて分析的なやり方をしない(無意識、転移を扱わない)という意味で、支持療法的であり、これがいわゆるPOSTというわけだ。しかし支持療法は歴史的にみて「あえて分析的なやり方を外す」というようなところがあり、最初から敗北宣言をしているようなところがある。それに比べて「分析的」は分析的であることをと捨てない週1ということになり、これがどの程度可能か、ということがこの「週一回」の議論の中で一番の問題となる。
山崎氏が自分の仕事をまとめている部分では、自分自身の言葉であることもあり、とてもわかりやすい議論を展開している。平たく言えば、「私たちは『週一回』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきたのだ」と指摘したのである。
この主張が興味深いのは、「週一回」はほとんど精神分析的ではないと認める点で藤山の立場を受け入れつつ、でもそれでも・・・・というアンビバレンスがよく出ているところだ。そのうえで山崎氏は自らの立場を明確にする。それをわかりやすく表現するならば、「週一回は精神分析的ではない。それは分かった。もう精神分析と比べるのはやめよう。「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えよう。」とでもいうべきか。ただしここは私自身の言葉である。
この主張自体はよくわかるが、一つの疑問が浮かぶ。「週一回」が独り立ちするためには、精神分析的であること以外の根拠を見つけるということだろうか?もしそうだとしたら、本当にそれでいいのか。そうではないのではないか。しかしやはり分析的であることにこだわるとしたら、結局は「精神分析と比べる」ことになってしまうのではないか。
これらの疑問を持ちつつ山崎氏の論文のⅢの結論に向かう。
この結論で述べられていることは少し驚く。「週一回は分析的にするのは難しい」はもうコンセンサスであるというのだ。そしてそのうえで週一回が分析的にではなく有益であるためには、平行移動仮説の成否ではなく、近似仮説の詳細であるという。しかし私はあきらめないぞ。