このように考えると、従来は当たり前のように思われていたこと、すなわち若い女性(一応男性についても当てはまるものとしよう)は美しいという概念、「美人」「美女」などの表現もPC(politically correct) ではなくなってくる可能性がある。それもあってか美人コンテストなるものは増々行われなくなっている。以下はネットの記事から(「斎藤薫のBody Concierge」 から、キーワードには下線を施した。https://www.diana.co.jp/column/bodyconcierge/vol10/
ミスコン廃止論は一体どこから生まれたのか
日本における美人コンテストの始まりは、1907年に開催された「全国美人写真審査」、別名“良家の淑女写真コンクール”であったという。文字通りの肖像画のような写真から、“ミス” =麗しき独身女性を選ぶものだったわけで、入賞者はみな10代であった。やがてアメリカのコンテストで初めて水着による審査が行われて以来、ミスコンは水着審査が常識となる。顔立ちから、体型までへと審査の基準が広がっていったのだ。
今、ルッキズム(外見至上主義)やセクシズム(性差別)への批判から、美人コンテストが槍玉にあげられ、廃止論が本気で語られるようになってきたが、じつは始まった当初から、ミスコンにはずっと反対論が付きまとってきた。容姿だけで人を選ぶことはもちろん、特に批判を浴びてきたのは”若い女性だけ” 、 “水着姿を男性が選ぶ”、”そもそもなぜ独身女性だけ?“という、その3点だったと言う。
そうしたものを受けて、もっと内面の魅力や才能に焦点を当てるという流れが生まれ、スピーチが重視されるようになったりもしたけれど、アンチの考え方がなくなることはなかったのだ。
そう、決め手はやはりルッキズム (外見至上主義) やセクシズム (性差別) ということになる。さすがに水着審査となると私も違和感があるが、それにしてもも少し変だ。ルッキズムがいけないことになれば、例えば男性のボディビルディング(しかもかなり全裸に近い状態で行われる)だって駄目だということにならないだろうか。しかしこちらの方はおとがめなしだ。
結局言いたいのは以下のことだ。妙齢の女性の持つ「美」は事実上明らかに存在し、それは社会のあらゆる場面において前提とされているようであり、これをことさら認めないことは逆に問題になる可能性がある。週刊誌の表紙も、ニュースキャスターも、映画俳優もそれを前提にして成り立っている。それは身も蓋もない言い方になるが「商品価値」があるために、それらに効果的に採用されて売り上げを伸ばすことに貢献する。それにもっとシンプルな例を出せば、化粧をすることをおそらく女性は(最近は男性も?)おそらくやめないからだ。女性自らが自分の持つ「美」的な価値を高めようとする。こうなると男性が女性を興味本位に眺めることは、ある意味ではごく自然なことといえる。そして同時に悩ましいのは、それがしばしば加害性をはらんでいるということなのだ。