昨日の考えをもう少し進める。私たちはどういう時、なぜ「統合されている」と感じるのだろうか。一応の結論は出している。それは脳全体の一種の同期化であり、それがフロイトのいう identification (同一視、同一化)の感覚に結びついているはずだ。人格Aが「これは甲だ!」という体験を持った時に人格Bの「いや乙だろう」という声が聞こえたとする。おそらく脳のあるネットワークに生じた同期化と別のネットワークに生じた同期化がそうさせているのだ。「スイーツを食べよう」と思った直後に「ダメだよ」という考えが浮かぶ時、それは私の心に起きた同期化だ。つまり両方の同期化が私の中で順番に起きたことである。それに比べてDIDにおける同期化は、「向こう側」に起きたそれなのだ。そして同期化が起きている以上、何らかの主体(人格)がそれを自分のものと体験しているのである。とすると脳梁が繋がるということは、どちら側の同一化も「自分に属するもの」として体験することになるのであろう。
8.解離能の問題について
これまでの考察をひとことで言えば、「治療目的=統合」という考えはもう古いということだ。そしてそれはそもそもは解離=悪い事、病理と決めつける考えとも結びついていることになる。そもそも人格の統合を目指す臨床家の心のうちには解離(=病理)をなくすべきだという発想があるのだろう。しかしそうであろうか?
これとの関係で触れなくてはならないのがいわゆる「解離能」の問題である。
Judith Herman (1992)はトラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてその上でトラウマの体験時にこの能力を使えるか否かでDIDとBPDを分けている。違いをもう一度示そう。
DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。
BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。
どこまでこのように決めつけられるかは別として、一つの重要な見識である。
しかしこのように解離を一つの能力と見なすという立場は文献でも意外と少ない。中島幸子氏(「解離は障害であり、力でもある」精神医学 現代における解離 2024, 66:1085-1089.)は「解離は障害であり、力でもある」という論考で語っている。「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」
これは大いに注目すべき議論だ。どの様な心的機制についても何が payoffs (それによる利得)で何が pitfalls(落とし穴)かを考えるべきなのだ。そして解離にもそれがある。