7.統合の代わりに見られる共意識状態 co-consciousness
統合についての議論との関連でぜひ述べておきたいのが、いわゆる共意識状態である。こちらの方は臨床的にも非常に頻繁に見られるのだ。二人(あるいはそれ以上)の意識状態(人格)が存在し、目の前で「掛け合い」をする。 これこそ「どうせなら統合すればいいのではないか(どうしてしないのだろうか?)」という疑問を抱かせる現象である。
私の患者さんにも共意識状態が普通になっている方がいる。その方に、それぞれ別々の7桁の数字を覚えてもらったことがあったが、その方は出来なかった。「混乱してしまう」というので、それ以上はもちろんお願いしなかった。しかしこれには随分考えさせられた。二つの心が本当に別々に共存しているのであればこの作業をできるであろうが、どうも二人の違う人間が目の前にいる、という状態とも違うようだとわかった。
この共意識の話で思い出すのはやはり分離脳状態の話だ。左右脳を分離した状態ではある種の掛け合い、ないしは言い合いが成立する。それぞれが独立して作業を行なうことも出来る。マイケル・ガザ―ニカの作成した動画で分離脳の患者さんに左右で別々の絵、例えば四角と星などを同時に描いてもらうというシーンがあったが、特に問題なく描けていた。それぞれに7桁を覚えてもらう、というのはその様な作業に相当する。しかしDIDの方にこれが苦手であるとすれば、分離脳ともまた異なる現象が生じているのであろうか。
しかし考えてみれば、私たちの左右脳は、脳梁で結ばれているから一つと感じるだけで、この場合は「心は一つ」がむしろ錯覚と言えないであろうか。
DIDの方の体験で時々聞くのは、体の一部が自分のものではないという感じである。たとえば自分の手を触っても、誰かの手を触っている感じがして気持ち悪い、ということを聞く。通常自分で自分の手を触る時は、その触覚が自分が触っているという意識による干渉を受けるのだ。だから自分で自分をくすぐることが出来ないのだ。ところがその種の干渉が起きない(起きにくい)状態が共意識状態である。
このような共意識状態が自然な統合に向かわないということの方が不思議と言えないだろうか?それほど心は統合に抵抗しているのかもしれない。
ところでこれまで一度も考えたことはなかったが、私は右脳と左脳が統合した状態であるということを自覚できるかについて自問してみた。私の右脳と左脳は別々に考えることが出来る。これまでそうしたことはなかったが、もし脳梁を切断したらそうなるはずだ。ということは「私」は左右の心の統合状態と考えるしかない。私が抵抗を感じている統合という現象を、実は実践していることになる。それはどういうことか。
例えば目の前のスイーツに手を出すかを迷う時、「糖質制限中だよね」と「ちょっとくらいいいじゃん」という二つの心があることを私は知っている。何時もこられのせめぎあいで結局スイーツに手を出すかどうかを決めている。その時私は二つの心があると思うのだろうか。
もう少し具体的な問い。もし私がスイーツに手を伸ばしそうになった時、「ダメだよ!」というこころの声を聞いた時、私はなぜそれを他人の声と思わないのだろうか? おそらくそこには例の「側方抑制の抑制」が働いているために「他者性」が減じられたり、消失したりしているのだろうか?
このように考えると、統合状態での「自分が一つ」という感覚こそ錯覚の産物という気がしてくる。