2024年2月26日月曜日

ウィニコットとトラウマ 4

 ①「未統合の状態への回帰(防衛としての解体 disintegration)」 

 ここでこの「解体」が具体的に何を意味しているかを知るためには、未統合から統合に至るプロセスに関するウィニコットの考えを理解することが必要である。それを簡素に表現するならば以下のようになる。絶対的依存期においてはそれまでバラバラであった自己が統合していくプロセスが生じる。そしてそれが逆戻りしてしまうという事態が解体という事なのであろう。ただそれは防衛として生じる事であり、単なる逆戻りというよりは積極的にバラバラになるプロセスである可能性がある。つまりA+B+CがDに統合されかけていた際に、それがAとBとCに逆戻りするというよりは、Dがd1、d2、d3、という風にバラバラになるという事を意味するのかもしれない。

②「永遠に墜ちること(その防衛としての、自分で自分を抱えること)」 これはまさに母親に抱えられていないことに直接的に由来していると言えるだろう。この頃の乳児は本来ならば母親と一体となった先述の「大洋感情」に似た体験を有し、それを外から支えているのが、抱えている母親の手ということになる。そしてその存在がなくなることで乳児はバラバラになる危険にさらされ、それこそ自分を抱える事により防衛する。(これは一種の自己刺激を意味する可能性があるというのが筆者の見解である。)

③「心身的な共謀を失うこと」原文では psychosomatic collusion であるが、この意味は今一つ定かではない。 

④「現実感覚がないこと」(p.104)。そして結果として乳児は現実感覚が得られない、いわば離人症的な体験を持つことになるとされる。


フロイト的ではない無意識


 続いて本論文のより本質的な部分について検討したい。すでに示したウィニコットの記述「ブレイクダウンへの恐れとは、すでに起きてしまったそれへの恐れである。」(p.104)は、もっとも重要でかつ謎めいたテーゼであるが、それに続けて彼は言う。「それが隠されているのは無意識にであるが、それは『抑圧された無意識』という意味ではない。」(p.104)

 これもまた挑戦的な文章だ。つまり自分が考えている無意識は、フロイトの考えた抑圧の概念に結びついたそれとは異なると明言しているのである。このようにウィニコットはフロイトの用語を用いながらも、そこに別の意味を付与するという、換骨奪胎とも言える手法を用いることがしばしばある。精神分析というフロイトが敷いた路線を重んじつつ、いかに独創性を維持するかについての彼の工夫と見ることが出来るだろう。

 上記のテーゼについて、ウィニコットはさらに次のように説明する。
「原初的な苦悩という最初の体験は、自我がそれをまとめて現在形で取り入れ、全能的なコントロール下におくことでしか、過去形になって行かない。つまり患者はまだ体験されていない過去の詳細を、将来において探索し続けなくてはならない。」(p.105)

 そしてその探索には治療者の側のある種の能動性が必要となるという。
「治療者はその[ブレイクダウンの]詳細が事実である事を前提にしてうまく扱わない限り、患者はそうすることを恐れ続ける。」(p.105)
 こうして治療者は患者の通常の記憶には含まれていない、解離されているブレイクダウンの記憶を知り、それを前提として治療を進めるが、それは転移関係の中で扱われるという。「もしこの奇妙な類の真実(まだ経験していないそのことがすでに過去において起きたということ)を、患者が受け入れる用意があるなら、治療者との転移関係の中でそれを体験する道が開ける。」(p.105)

 しかしその転移関係とは、治療者の側からもたらされる一種のブレイクダウンに対する反応であるという事を、ウィニコットらしい皮肉交じりの文章で以下のように述べる。

「それ[原初的な苦悩]は分析家の失敗や間違いに対する反応としての転移の中で体験される。それは過剰ではない分量で扱うことが出来、患者は分析家のそれ等の技法的な誤りを逆転移として納得するのだ。」(p.105)

 この一文はさらっと読み過ごしかねない。しかしここで語られていることは通常理解される精神分析的な治療論とは異質であり、逆説的とも言える。普通は転移はブランクスクリーン的な治療者に対して患者が抱くものとされる。ところがウィニコットの言い方によると、転移は治療者の側の逆転移のアクティングアウトに対する反応、という事になり、まさにそのことを治療者の側が自覚し、扱うことが重要となる。ブレイクダウンが母親の側の失敗であるとしたら、それが治療場面で、図らずも治療者側の要因で部分的に再現されかけた時に、それを自らの逆転移として受け入れ、それを治療的に活用するという治療者の能動性こそが重要になるとウィニコットは主張しているのである。

 ここでのウィニコットの主張は、彼のよく知られるいくつかの提言、すなわち「解釈の重要な機能は、分析家の理解には限界がある事を示すことである」(1963)、あるいは「私は自分の理解の限界を患者に知ってもらうために解釈を行っていると考えている」(Winnicott, 1968、などとも重なるものと見ることが出来よう。

Winnicott, DW(「交流することとしないことから導かれるある対立点の検討、1963年)

Winnicott, DW 対象の使用と同一化を通して関係すること」((1968)


 この分析家と被分析者が主客転倒したような関係性については、現代的な精神分析理論、例えば「分析家の経験の解釈者としての患者」(Hoffman,  )を先取りするような、革新的でかつ挑戦的な提言を含んでいるといえるだろう。

(Hoffman, IZ (2005??)Ritual and Spontaneity in Psychoanalytic Process.「精神分析過程における儀式と自発性」(岡野、小林稜訳、金剛出版、2017年)