2.晩年におけるウィニコットのトラウマ理論
本日の発表で私が主としてお話したいのは、ウィニコットが晩年に展開したトラウマ理論である。この点に関してJ.アブラムは次のように述べている。「ウィニコットの最晩年の非公開の手記には、彼の解離、憎しみ、男性と女性の要素、対象の使用、退行などについての最終的な考えが示されている」。 (Abram, 2013, p.312)
そしてその意味で重要となるのは次の二つの論文である。これらはいずれもウィニコットの死後に発表されたものだが、そこで彼は「尖った」部分を目いっぱいに発揮しているのである。
◦ ブレイクダウンへの恐れ Fear of Breakdown (1974)
◦ 未公開ノート(1971)
これらについて一つずつ以下に論じよう。
Abram, J (2013) Donald Winnicott Today. Routledge.
Winnicott, Donald W., 'Fear of Breakdown', in Lesley Caldwell, and Helen Taylor Robinson (eds), The Collected Works of D. W. Winnicott: Volume 6, 1960-1963.
ブレイクダウンへの恐れ
この論文はウィニコットが死の直前に書き、奥さんのクララの仲介で、 International Review of psychoanalysis の創刊号に掲載された。この学術誌は生前ウィニコットがその発刊に思いを寄せていたという。そしてこの論文はウィニコットが晩年に考えていた内容を濃縮した形で著した論文と言える。
この論文の冒頭でウィニコットは言う。
「最近になり、ブレイクダウンへの恐れへについての新たな理解に至った。それは私にとっては、そして他の療法家にとっても、新しい考えであろうが、それをここに出来る限りシンプルに伝えたい。」(p.103)
ここでウィニコットはこのブレイクダウンの意味として、それが防衛組織defence organizationの破綻であり、その背景には「およそ考えることのできないような状況 unthinkable state of affairs 」があるとする。そしてそれはつまるところ自我組織 ego organization に対する脅威であると表現している。
この論文でウィニコットが述べていることを幾つか取り上げてみよう。
「発達は促進的な環境により提供され、それは抱えること holding、取り扱うこと handling、そして対象を提供すること object-presenting へと進む」(p.104)。そしてこの中でも彼が最も注目するのが、最初の「抱えること」により成立する「絶対的な依存」についてである。ここにおいては、母親は補助的な自我機能を提供するが、そこでは赤ん坊においては me と not-me は区別されない。その区別は me の確立なしにはできないのだ。」 (p.104)
ここでウィニコットが描いている世界は実はきわめて深遠で、そしてまさに「言葉では表現が出来ない」世界なのであろう。そこでは乳児は母親に抱えられていながら、自分と母親の境目を知らない。つまり本当の意味で母子一体となっていることになる。そしてその母親との絆が断たれた状態は、おそらく乳児にとっては何が起きているのか考えられないもの unthinkable (p.104)である。それをウィニコットは原初的な苦悩 primitive agonyと呼び、「不安どころではないもの anxiety is not a strong word」と言い換え、さらに原初的な苦悩は以下の点により特徴づけられるとするのだ。