2024年2月24日土曜日

ウィニコットとトラウマ 2

 1.鏡の役割の破綻としてのトラウマ

 ウィニコットは母親の役割を鏡にたとえたことが知られている。彼の作品の集大成である「遊ぶことと現実 Playing and Reality」(1971)に収められている「子供の発達における母親の鏡の機能 Mirror-role of Mother and Family in Child Development にその要旨が書かれている。ただしその意図はあまりわかりやすいとは言えないだろう。

Winnicott, D.W.(1971) Mirror-role of Mother and Family in Child Development. in Playing and Reality. Basic Books.

「(乳児が自分を見出す)鏡の前駆体は母親の顔である。(中略)しかしラカンの「鏡像段階(1936)」は母親の顔との関係を考慮していなかった。」(p.111) 

これは比較的わかりやすいだろう。そして彼が同時代人であるジャック・ラカンを意識していることが興味深い。

「最初は乳児は母親に抱えられて全能感を体験するが、対象はまだ自分から分かれていない。」(p.111) これも雰囲気でわかるだろう。ところが次の文章はどうだろうか?

「乳児は母親の顔に何を見出すのか?それは乳児自身なのである。母親が乳児を見つめている時、母親がどの様に見えるかは、彼女がそこに何を見ているかに関係するのだ。」(p.112)

この引用に私たちは戸惑うかもしれない。母親が乳児の顔を映し出す、というのは分かるが、その乳児にとっては対象は存在していないと言っている。という事は目の前の顔が母親(自分とは異なる他者)としては認識されないという事になる。つまり母親の顔は自分と区別がついていないことになる。そしてその役割を果たす母親と言えば、恐らく原初的な没頭により、自然と乳児の顔を映し出しているのだ。 おそらく現代的な知見を得ている私達なら、ミラーニューロンの関与をそこに見出すかもしれない。

 そしてウィニコットは言う。「私の症例では、母親は自分の気分を、さらには自分の硬直した防衛をその顔に反映させる。」「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ないのだ。」(p.112)

 つまりそこに自分の感情を提示する母親はその愛着関係の成立を阻害する可能性があるのだろう。これは精神分析の文脈に引き付けるのであれば、逆転移の表現、ないしはウィニコットの言う「報復」の表れと言えるかもしれない。治療者は患者を照らし出す存在であるにもかかわらず、いつの間にか治療者自身の個人的な感情や思考を、患者自身のものとしてそこに提示するかもしれないのだ。

 ちなみにこのウィニコットの提起した「母親の鏡の役割」は愛着理論における情動同調 affect attunement やメンタライゼーション理論に継承されていると言えるだろう。養育者によるミラーリング(乳児の情緒をまねること)は子供の自己発達において鍵と考えられている(フォナギー、ベイトマン、2008)。 (Meltzoff, Schneider-Rosen, Mitchell など)

 メンタライゼーションを提唱するフォナギーにとってもこの文脈は非常に重要な意味を持つ。鏡の役割の不全は乳児に深刻な問題を起こすからだ(偽りの自己、よそ者自己などの概念により理論化されている。)


ベイトマン、フォナギー メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害」Aベイトマン/P.フォナギー 狩野力八郎、白波瀬丈一郎監訳 岩崎学術出版社 2008年 Bateman, Fonagy (2004) Psychotherapy for Borderline Personality Disorder: Mentalization-based Treatment. Oxford University Press.


 例えばこの図はベイトマンとフォナギー(2008,p.111)の著書に出てくるが、 左側の円の中の楕円の部分に本来は乳児が映し出されるはずなのに、母親由来のもの(斜線を施されている)が映されている状態と考えられる。これが「ミラーリングの部分的失敗」として図中で説明されているが、このミラーという言葉はまさに、先ほど紹介したウィニコットの論文に出てくる「母親の鏡の機能」という表現に由来する。