2024年2月21日水曜日

ウィニコットとトラウマ 1

こちらも原稿に起こす必要あり。さほど加筆とするところがなく、サクサク行きそうだ。

 2023年11月23日 ウィニコットフォーラム特別講演より 

 「解離とトラウマに関してウィニコットが提起したこと」


はじめに-トラウマ論者、またはチャレンジャーとしてのウィニコット


今回の「ウィニコットフォーラム2023」のテーマは「外傷について」である。そしてウィニコットがトラウマについてどの様なことを主張していたのかについて論じて欲しいというのが、企画者の加茂聡子先生から私へのリクエストであった。私はもちろん喜んでお受けした。というのもこのテーマについては論じるべきことが沢山あると感じたからだ。私は従来ウィニコットはトラウマに関してたくさんのことを示唆し、また論じていたと感じていた。しかし今回の発表を通じて改めて知ったのは、彼はれっきとしたトラウマ論者だったということである。

 まずこの見取り図を見ていただきたい。精神分析では葛藤モデルと欠損モデルに分かれるという議論(Gabbard, )であるが、後者は正統派のフロイト流の精神分析理論の代替案というニュアンスを持つ。しかしこちらに属する論者は少なくない。フロイトと同時代人のサンドール・フェレンチがトラウマについて強調したことはよく知られている。またマイケル・バリントは彼が提唱した「基底欠損basic fault」のことをトラウマと言い換えてさえいる。今日お話するウィニコットもトラウマについて論じていることは、弟子であるマスッド・カーンの累積外傷の概念などでよく知られている。

 ちなみにこの葛藤モデルと欠損モデルの二つは一応精神分析の中では平和的に棲み分けられていると一般的に考えられている。例えばエディプス期以降の問題はフロイトの提示した葛藤理論でうまく説明されるが、エディプス期以前の問題については、愛着理論や対象関係理論において論じられ、その意味で両者は相互補完的であるという考え方である。

 しかし実は両者は対立的であって、共存し得ないという立場をとるという立場もある。ミッチェルとグリンバーグにより発表され、大きな話題を呼んだ「精神分析理論の展開」(Mitchell, Greenberg ) はまさにその点を主題にした画期的な著作であった。

 さて以上を前置きとして私のこの発表の要旨をまず述べておきたい。

 ウィニコットの関心はフロイトの無意識、抑圧、死の欲動などの概念から離れ、幼少時における養育者との間に生じるトラウマ(「愛着トラウマ」、A.ショア)や解離の問題へと向けられていった。ウィニコット理論は基本的にトラウマ理論として読むことが出来るであろう。そしてそれは彼の晩年にさらに先鋭な形で表現されているのである。

 しかしこのような見方は私にとってはごく自然なのであるが、みなさんにとってはあまり馴染みがないかも知れない。あるいは反発の念を抱くかもしれない。というのもこの見方はウィニコットがかなりフロイトに挑戦的な態度をとっていたことを意味するからだ。

 しかしウィニコットの文章をこの文脈で読めば読むほど、彼が様々な表現の仕方を用いて、フロイトの向こうを張ってる、特にフロイトのリビドー論に対するアンチテーゼを唱えているように読め、その傾向は晩年に向かってさらに顕著になったのだ。一言でいえば、ウィニコットは、それを様々なレトリックで覆い隠してはいるものの、かなり尖った、反抗心に満ちたものであったのである。

  さてウィニコットのトラウマ理論については以下に大きく二つの時期に分けて論じることにする。まずはウィニコットの弟子のマスッド・カーン(1963)により概念化された累積外傷 Cumulative Trauma 理論に表されるものである。これはすなわち乳児の絶対的依存の段階において「母親の防護障壁としての役割が侵害されること」という事とされている。

 そしてさらには晩年のウィニコットが深化させたトラウマ理論が極めて興味深く、本発表の主たるテーマとなる。