2024年2月28日水曜日

脳科学と臨床心理学 第5章 意識とクオリア 加筆部分

 5.意識とクオリア

「わかる」ことと意識


では「意識」というテーマを扱う。「意識」は哲学や心理学、精神医学などにとっての中心テーマであることは言うまでもないが、これこそ脳科学にとってど真ん中のテーマと言えるのではないだろうか? 意識とはいかに生まれてくるのか,そこに脳科学はどのように関係しているのか,などこの問題に関する疑問は尽きない。

このテーマについて論じることは,ある意味では気が楽で,別の意味では荷が重い。気が楽だというのは,今のところ誰も一つの正解に至っていないからである。というか,正解があるのかすらもわからない。だから私自身が勝手な仮説を立てても,おそらく真っ向から否定されることはないであろう。また荷が重いというのはそもそも,このテーマが「難問中の難問/hard problem(ハードプロブレム;チャーマーズ)」と称されているからである。

ところでこのテーマで書くにあたり,現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて最初に触れないわけにはいかない(と言っても前章であまりAIに触れないようにしようと言った手前,手短にしたい)。
 意識や心について考える際,それが生成AIにおいてもすでに成立しているのではないかという疑問や関心は,私たちの間でこれまで以上に高まっている。私が第3章で定義した【心】、すなわちAIによる心の話だ。そこで折に触れて生成AIが示している【心】の能力を,人間の心と比較検討することには大きな意義があると思われる。

私自身の話だが,ある事柄を「わかる」ことは,人間の心にしかできない芸当だと考えてきた。まだ子供の頃にそう考え始めていた。たとえば小学校の高学年の算数で,長い文章題が出てくるようになった。一回さっと読んだだけでは意味が通じないことが多い。そこで何度か一文字一文字を読むことを繰り返す。しかし何度目かで「わかった!」という感覚を持つと,もうそれらの文章に立ち戻る必要はなくなる。長い文章は溶けて形がなくなって頭に入り,その内容を要約したり言い換えたりが自在にできる。つまり意味を頭の中でいかようにも「転がす」ことができるようになる。「人間の心の力ってすごいな」と思ったものだ。

ところが現在生成AIがなしえていることはどうだろうか? あるテーマについて,内容を要約したり,子どもに分かるようにかみ砕いて説明したり,それについての試験問題を作成することさえできるのだ!しかも同じ問いを再び投げると,少しずつ違った答えを送ってくる。「コイツわかっているな!」と思わざるをえない。
 AIの示すこのような能力は,いわゆる「チューリングテスト」にパスすることを示唆している。このテストについては第3章で紹介したが、少し復習しよう。

1950年に天才アラン・チューリングは有名な思考実験、いわゆる『チューリングテスト』を発表した。ある隔離された部屋に「誰か」がいると想定する。それに向かって文章でいくつかの質問を繰り返す。それがたとえ機械であっても,人間のような回答と区別できないなら、それは人の心を有するとチューリングは考えたのだ。

ところでこの私の説明は若干不正確であった。正確にはチューリングは、そのような場合は「人工の知能 artificial intelligence」を有するという言い方をしていた。つまり心(すなわち本書で言う所の【心】)とは必ずしも言っていない。

生成AIが【心】を有しているためには,もう一つの重要な条件を満たさなくてはならないのだ。それは主観性を備えているということである。要するにクオリアを体験しているかということである。 クオリアについては本書の読者ならよくご存じだろう。たとえばヴィンテージものの赤ワインを飲んで「おいしい!」と感じたり,吉野の桜を見て「何と見事な!」と感じるような主観的な体験のことである。そして私の示した算数の文章題の例では,この「わかった」という感覚ということになる。

現時点では,生成AIに知性はあっても主観性は有さない,というのが一つの常識的な見解である。少なくとも私はそう認識している。チャットGPTには私はこれまで個人的に、しつこいくらい「あなたは心や主観性があるのですか?」と尋ねてみた。しかし常に「私には心はありません」というゼロ回答ばかりである。チャットGPTは私の質問を当然「わかって」いるはずだし,それに対して嘘を言う根拠もないだろう。要するに生成AIはいかに知性を発揮しても,「わかった」という感覚を持っているという形跡はないことを自分でも認めているのだ。

このことを改めて考えていると,本書で用いている【心】と心の違いということがもう少し明らかになってくる。AIも脳も、ともに知能(知性 intelligence)を有するのだ。ただ【心】は今のところ主観を持っている形跡はない。それは十分文章の内容を理解しているようにふるまうが、「わかった」という感覚は持っていない。そこが違うのだ。

実は私は本書(詳しくはその元となる連載)を書きながら常に新しい発想を得ているが、この件についてもそれが言えるのだ。生成AIと脳とであるとに限らず、ある知性が何かについて理解している際に,「わかった」というクオリアを伴う必然性はない、ということだ。すでに生成AIはそれなしで十分に役に立っているのである。

私がこのように考えるのは,以下に述べるように,主観性やクオリアは,人間(もちろんそれ以下の動物のかなりの部分に当てはまるのであろうが)が進化上の必然性のためにたまたま備えた幻想であるという考えを深めているからだ。私がそう主張する理由をもう少し説明したい。


意識を特徴づけるクオリア体験


ここでクオリアの議論について少し振り返ってみたい。クオリア(qualia)とは要するに物事の体験の「質感」ということだ。日本語では「体験質」などと訳されることもあるが,最近では「クオリア」というそのものの表現より一般的だ。
 最近のクオリア論について少し調べてみると,かなり「脳科学的」であることに改めて驚く。クオリアは物理的,生理学的な現象,たとえば神経細胞の興奮の結果として生じるという捉え方が,今は主流となっているようだ。本書の第4章では,個々の体験を神経細胞によるネットワークの興奮の結晶として論じたが,それと同類の発想である。このように私たちが主観的に体験するあらゆる心的表象は,脳の物理的な状態に伴って生じているもの(いわゆる「随伴現象epiphenomenon」と呼ばれる)だとしてとらえるのが,「物理主義的」な立場と呼ばれる。

そのような立場の代表者としてダニエル・デネットをあげよう(Dennett, 1991)。有名な『解明される意識』という分厚い本を書いたアメリカの哲学者,認知科学者である。彼は,意識やクオリアは一種の錯覚であるという立場を示した。彼は意識は脳内のさまざまな演算から生まれてくるものだとし,それは多数の著者により論文が書かれていくプロセスのようなものだと考えた。いわゆる「複数の草稿説」である。そして彼が主張したのは,意識の生じるような一つの場所(いわゆる「デカルト的な劇場」)などは存在せず,脳のいたるところで半ば独立した能動体(agency)が活動して内容を決定する作業が行われるということだ。私にとってはその細部は別として,その主張はおおむね納得がいくものである。私のこれまでの主張もほぼ同じような内容である。しかしデネットの主張が必要以上の反論を呼んだとすれば,彼がクオリア論を非科学的なものとして棄却したためのようである。

このデネットに代表されるような視点に異を唱えているのがオーストラリアの哲学者デイビッド・チャーマーズである(Chalmers, 1994, 1996)。彼は1995年から始める一連の著作活動の中で次のような主張を行う。「意識体験は,この世界の基本的な性質であり,クオリアを現在の物理学の中に還元することは不可能である」。そして意識の問題を解決するには現在の自然科学を超えた理論的な枠組みが必要であると考え,これを意識のハードプロブレムと称したのだ。しかしこれは物質的な基盤を超えた霊魂のようなものを想定することを思わせ,言わばデカルト的実体二元論の復活であると批判されることとなった。

このクオリアをめぐる論争は極めて錯綜していて多くの哲学者や脳科学者がそれに加わっているが,私自身その詳細にはついて行けていないことを告白する。(上の説明も、十分に理解している人間の記述とは言えないだろう。)そこで私自身が心についての本質的な議論と考える点に限定して論じることとする。そこで決め手となるのが,今述べた「随伴現象」を問い直すことだ。心は果たしてほんとうに脳の「随伴現象」だろうか?


随伴現象とは何か?


「随伴現象説(epiphenomenalism)」という立場がある。すなわち心は脳の随伴現象であるという人の取っている立場のことだ。この立場によれば、心は脳における現象の結果として生じることになる。改めて考えるならば、私が本書でこれまで論じてきた内容は,かなり明確にこの立場に近いことになる。私は随伴現象説者だったのだ!

例えば私は第4章で、一つの体験には神経細胞のネットワークの発火の一つのパターンが対応し,それはN次元上の一点に相当すると述べた(ただしNは神経細胞の総数で,何百億のオーダーである)。それがクオリアを生むと主張するわけであるから,これはまさに「随伴現象説」に属することになる。このN次元上の点、という表現はわかりにくいかも知れないので、具体的な例、例えば色彩について考えよう。私達は黄色と橙(だいだい)色を異なるクオリアとして体験する。そして黄色というクオリアは,目の網膜に到達する光の波長が570 nmの場合に生じるのに対し,橙色の場合は590 nmの際に生じるということが分かっている。つまり網膜から送られる光の信号という次元で言うと、色はその次元上の一点で表されるという事になる。

もう少し違った見方をすれば、色彩は網膜上の3種類の錐体細胞のそれぞれが刺激される度合いの組み合わせで決定されることになり、その意味では3次元上の一点という事になる。このように色合いというそれ自身は主観的な体験、クオリアであるにも関わらず、異なる神経細胞の刺激の結果として生じてくると理解するという点で、これは随伴現象の好例のように思える。しかしここで次のような反論に出会うとしよう。

(以下略)