2020年6月30日火曜日

解離と他者性 書き直し 2



■■ EPは本来保護的である、という主張
EPは本人を保護しているのだ」という主張しばしば誤謬を含んでいるために注意するべきである。解離性障害の専門家がしばしば唱えるのは以下の主張である。「攻撃的な人格は当人を保護してくれているのだ」という言い方である。Howell 先生の主張を引用してみよう。
「最初のうちはこれは明らかではないが、ほとんどの時、怒っている人格や攻撃者をモデルとした人格は、最も深いレベルでは保護的な役割を果たしている。これらの人格部分は過去に生きており、そこ過去においては危険となるような行為から身を守ってくれているのである。(P.62).
おそらくこれを読んだ当事者の多くが、Howell の主張のとおり、そんなことはない、という印象を持つだろう。なぜなら黒幕さんの多くが主人格に敵対し、その人生を損ねるような振る舞いを繰り返すからだ。そこでHowell はあるそして彼女はある例を出す。ある人はEという怒りの人格を持っていて、自分は全能で主人格のことを生きる価値がないと考える、という。そこでHowell はこういう。「あなたは主人格が家で完璧にふるまえるようにできるでしょうね。彼女はあなたに感謝しなくてはね。」それに対して怒りの人格は言う。「そうよ、でも彼女はその様に扱われるだけのダメ人間だわ」しかしやがて主人格はピンチな場面で黒幕さんに助けられ、そのうち黒幕さんがいなくても怒りを体験できるようになる。
 しかしこれは黒幕さんをおだてて主人格を助けるようにそそのかしたというニュアンスがある。
このロジックが誤解を招く上に危険なのは、同様の理論が実際の虐待者にも当てはまってしまう可能性があるからだ。いわく「虐待者の多くは本当は当人に対して保護的なのだ。深いレベルでは。」そして治療者は実際の虐待的な親に対してこういう。「あなたもこの子の親なら、この子の人生を変える力を持っていますね。」それを言われて、彼(女)自身もつらい過去を背負っている親は多少なりとも自己価値観を高めることができ、本来の親らしい振る舞いをより見せることになる・・・・。しかしこれは虐待的な親の免責になるのだろうか。少なくとも「本当は(深いレベルでは)子供を護っている」という言い方がそのために用いられるべきではないであろう。多くの場合攻撃的な人格は得体のしれない、時にはその正体を隠した顔のない「他者」存在なのに、どうして自分を保護してくれると思いこまされなくてはならないのだろうか。
Howell 先生はもちろん懸命な治療者なので、重要な点を付け加えることを忘れない。「しかし黒幕は全然保護的でない場合もある(Blizard, 1997; Bryant, Kessler, & Shirar, 1996; Rosenfeld, 1971)。」Howell 先生はその様な場合もしっかりあることを認めて、犯罪行為を働いた黒幕さんがいる患者さんに自首することを勧めたと書かれている。
 Howell さんは、「黒幕さんたちは結局は主人格の味方である」という一方的な見解に陥っていないという点は頼もしい。しかしやはり力動的、防衛的な考え方がその基礎にあるようだ。