2020年6月29日月曜日

新無意識 書き直し 7


昨日のモートンの議論だと、抑圧は思い出されているが、解離はそうではない、というニュアンスだったので、ヒルガードの図式とは微妙に食い違う。ヒルガードの図式だと、抑圧は永遠に思い出されず、解離は思い出される、と言っているわけで、これはフロイトの主張に準している。まあ、この種の抽象的な議論に正解はなく、論者が別々のことを言っているわけだが、学問の世界ではよくあることだ。第一「解離内容は思い出すことが出来るか」とひとことで言っても、人格Aにとっては決して思い出されず、人格Bは普通に思い出している、ということがあるのだから、誰(どの人格)にとって思い出せないのかという議論がないとこの種の議論には意味がないことになるのだ。
ここで改めて問うてみよう。フロイトの「無意識は直接は思い出せない」という主張はアリなのか。これは「結局は知りえないのが無意識だ」ということになり、無意識にもう何も残っていない(すべて思い出されてしまった)ということなど証明しようがない以上、終わらない議論なのだ。
さて現代のこの解離と抑圧をめぐる議論は、キールストロームの言うとおりトラウマに関する視点がクローズアップされたからだが、最近のトラウマをめぐる考え方によれば、これは概ねジャネの方に軍配が上がるといっていいだろう。解離を認めなかったフロイトにはあまり勝ち目はなかったのである。しかしこのフロイトの「無意識は直接は思い出せない」という議論までが否定されてしまったわけではない。少しややこしいが、説明しよう。
最近の記憶の研究は、記憶を明白な記憶と明白でない記憶に分けて議論することが多い。前者はいつどこで何があったか、といういわゆるエピソード記憶に相当する。後者はその時の感情や感覚部分だ。記憶とは大体この二つの部分から出来上がっていると考えるのである。そして通常の記憶なら両方はくっ付いて一緒になって動く。昔のあるエピソードは意図的に想起され、その時空間的な特徴(いつ、どこであったのか。など)とその時の感情部分は一緒に思い出される。ところがトラウマ的な出来事の記憶は、エピソード記憶の部分が海馬の抑制によって記憶されていない可能性がある。つまり後者のみが残ることになる。するとどういうことが起きるのか。トラウマ記憶は身体の痛みや断片的な映像という形で蘇ってくるものの、それが何に由来するかがわからないという事になる。いつ、何が起きたのかがわからない。するとこの記憶はフロイトが「無意識は直接は思い出せない」という話に符合することになる。つまりフロイトのいう無意識は、実はトラウマ記憶についてなら妥当であるという事が分かる。フロイトは無意識内容として想定したのは、図に描き込んだように「欲動と葛藤」だったにもかかわらず、である。いったいどうなっていることやら・・・・。
ここで私自身が説明したくなってきた。自分で納得するために説明するのである。結局次のように理解するべきだ。
   トラウマが主人格Aの中で体験され、その記憶が解離された場合。トラウマ記憶のうち明白でない部分は通常は残っているが、明白な部分は解離されているか、ないしはトラウマ時の海馬の抑制によりそれ自身が成立していないという可能性がある。前者の場合はEMDR、催眠、フラッシュバックその他により蘇る可能性がある。つまり「無意識内容は直接到達できない」(フロイト)かどうかはケースバイケースということになる。
   トラウマが別人格Bにより体験された場合。Aは通常それを明白な部分も明白でない部分も含めて想起できない可能性がある。Aさん自身は寝てしまっていたからだ。他方Bの人格状態では両方を想起できることになる。と言うよりは、Bさんにとってはその記憶はちゃんと明白な部分、明白でない部分がつながっていて、その意味ではトラウマ記憶でさえないかも知れないのだ。「無意識内容は直接到達できない」は、Aにとっては当てはまり、Bにとっては当てはまらないことになる。
以上によりこの記憶をめぐる論点は整理されるが、ここでミソなのは、もはや抑圧という概念がどこにも必要とされていない可能性すらあるという事である。