2020年7月1日水曜日

解離と他者性 書き直し 3


ところでDID研究の大家であるパットナム先生はどんなことを言っているのであろうか、と気になりだした。かなり古い文献、例えば1989年の多重人格に関する著書Diagnosis and Treatment of Multiple Personality Disorderを読み返すと、彼の偏見ぶりに改めて驚かされる。(P103 あたり)

「交代人格とは何か。最初に申し上げなくてはならないのは、どのような交代人格であっても、個別の人間ではないということだ。個別の人として出会うことは、治療上の深刻な誤りである。彼らは自分たちは別々だと強調するが、この自分は個別だという妄想に乗せられてはならない。The therapist must not buy into this delusion of separateness.もちろん治療者は彼らの個別であるという感覚に共感しなくてはならない。しかし治療者が発するメッセージはおおむね、すべての交代人格によって一人の人格が構成されているということである all of the alters constitute a whole person.」
うーん、しかし「この自分は個別だという妄想に乗せられてはならない。」というのは問題発言ではないだろうか。私の体験では、人格たちは実際に個別なのだ。あるいはあまり個別でないものから個別なものまで幅がある、という言い方のほうが無難かもしれない。解離で問題となるのは、各個人が持つ、「自分は演技をしているのではないか」、という懸念なのである。そしてそれは「妄想に惑わされてはならない」という疑い深い治療者の目に呼応している。解離の問題はこんなところにも再現されてしまうのだ。
パットナムさんは例の「離散的行動モデル」を持ち出し、それが極端になったのがMPDだという理屈を展開する(P103)。でもこれは人格の多面性の話であり、多重性とは全く異なる議論だ。意識とはなにか、ということでジュリオ・トノーニが定義しているが、それは統合されているという特徴を持つ。Aさんの「自分はAだ」という体験は統合されて単一である。それに比べて自分は学生だ、男だ、日本人だ、という体験はそれぞれの側面についての体験である。それぞれが単一であるのは、それが多面体の一面であるという自覚があるからだろう。いわば条件付きの統一だ。自分はAだよ、そして同時に男だよ、という風に。しかし人格さんは違う。自分はAであるということは、それ以外ではないということだ。それが統合されているということで、単一であるという感覚だ。自分はAであり、Bであり、Cでもあるという統一感を持てる主体がDIDによって体験されるだろうか。もうその体験はそれ自体が統合されていることになり、ある意味ではDIDではない。ところがパットナムさんはDIDはそのような体験も持っていると考えるのだ。しかしそれはあまりに当事者の体験と異なるのである。
なんだ、パットナム先生、全然わかってないじゃん!学問の世界ではそれまで常識と考えられていたり、大家が言ったことだというだけで守られてきたことがある。でもそれが次々と覆されるのが面白い。