2020年6月28日日曜日

解離と他者性 書き直し 1

 解離性の人格の形成は、おそらく心を理解するうえで一番その機序が不明なものとされている。その端緒さえつかめていないようだ。そもそも解離性の病理ないしは現象については、まだ手付かずに近いものもある。一つの例を挙げるならば、いわゆる文化結合症候群に属する「ラター」である。これは突然人(多くは男性、しかし中年以降の女性も報告されている)が誰かに憑りつかれたように凶行に走るという病態だが、ICD-11でもDSM-5でもこれらを解離性障害として扱うことに二の足を踏んでいるようである。下手な説明や分類が出来ないからだ。トラウマなどにより別人格が作られるというプロセスは、精神分析的な概念、たとえば取り入れや投影といった概念により説明されることが多い。ところがこれらの概念はいずれもメタファーとしてのそれである。例えば取り入れ、という概念を考えよう。理想化している人の動作をいつの間にか取り入れているという場合、それは誰にとっても追体験できるようなものであるが、実際にその理想化対象が心の中に入り込んだというわけではない。あるいは母親像の投影、などという時も、頭の中の母親のイメージがテレパシーのように相手の心の中に飛び込んでいく、ということなどだれも想定してはいない。すべては「あたかも~である」という話の延長線上にある。
 ところが解離においては実際にそれが起きるかのようである。それをこれらの理論によりかなり牽強付会に意味づけているというニュアンスがある。これが憑依現象となると、まさに文字通りの、「実際の取入れ」が生じるようで、一種の超常現象のニュアンスがある。
 この問題は心理的な問題と脳科学的な問題を提起する。前者に関しては、この交代人格は自分自身、ないしは自分の一部と言えるのだろうか、という問題が生じる。メタファーとしての取入れならそれは自分の一部となる。しかし「実際の取入れ」なら、これはむしろよそ者、全き他者という事になる。Janet が用いた 「寄生者 
parasite」 という強い表現は、この他者性を表しているのだ(Howell, P43)。ところが精神療法家はこれを他者として扱えきれていないところがあり、それは力動精神医学の持つ問題からくるというのが私の主張である。
 もう一つは脳科学的な問題だ。いったいなぜ、どうして「実際の取入れ」などという事が可能だろうか?ここにミラーニューロンの関与が考えられる。これはまさに文字通りの取入れが脳のレベルで生じているという現象を表しているのだ。皆さんはどうして私たちが母国語を普通に話すということができるかを考えたことがあるだろうか? 模倣でない、それ以上の何かが子供の脳のミラーニューロンシステムに起きて、子供は母国語を話すようになる。訛りもそっくりそのままに。それは言葉を話す周囲の人(の脳の機能)が子供の脳に実際に入り込む(より正しくは「コピーされる」と言うべきか)からである。解離についても同様のことが生じると考えられるのだ。しかしそれはあくまでも正常なプロセスとしてではなく、ある種の異常なプロセスとして、である。