2020年6月18日木曜日

新無意識 3


フロイトと脳科学、無意識

 ここでフロイトに戻る。彼は中枢神経の単位としての神経細胞を発見したが、その意味ではフロイトは根っからの脳科学者であった。脳科学者としてのフロイト、といわれても読者の方はぴんと来ないかもしれないが、彼は純粋な理科系の研究者から出発していたのだ。ニューロン(神経細胞)という単位を発見した彼は、さっそく壮大な仮説を立て始めた。そして φψという2種類の神経細胞があって、φの場合にはそこで信号の流れがせき止められ、ψの場合にはここを通過するという理論を立てた。この2種類の神経細胞があるという仮定をもとに、そこから心の在り方を一生懸命組み立てようとしたのだが、さすがにこれだけでは全然無理だった。まるでコンピューターの原理を知らずにCPUを分解して、ミクロレベルでの二種類の部品を取り出して、そこからCPUの仕組みを説明するようなものである。当時の心の脳の仕組みを説明する学問的な素地はとてつもなく荒っぽいものだった。このころフロイトがいたウィーンを中心に発展していたのは、いわゆるヘルムホルツ学派の考えである。その信奉者であったフロイトが依拠していたのはいわゆる水力モデル hydraulic modelであり、そこで「流れる」「せき止める」という概念が出てくる。つまり抑圧、あるいは抑制によってリビドーという一種の流体の圧力が鬱積すると不快になり、それが解放されると快につながるという非常にシンプルな理解の仕方をしている。フロイトの脳の在り方を絵にするとこんなふうになると思う。パイプがこのように並んでいる。この絵はルイス・タルディという人の作品だが、おそらくフロイトの打ち立てた心の理論はどちらかというとこれに近かったのではないかと思うが、こんなことを言ったらフロイトは怒るかもしれない。

Lewis Tardy “Introspection”(2001)の図(省略)

 ともかくも脳の研究が可能になる前は、脳の組織を顕微鏡で見ても細かすぎて一見アモルファスで何も細部の構図が見えなかった。しかし、まだ解明されていないものの、ある種の規則性を持った構造やメカニズムが存在し、そこで心が生じていると考えられていた。おそらくその複雑さの程度が分からなかったからこそ、ある種の単純で決定論的な動きを想定することもできたのだ。ところが一見均一に見える脳の実質を顕微鏡で拡大してみると、すでにそこにぎっしりと脳細胞や神経繊維が詰まっていることが分かったのである。そして脳全体に1千億個という膨大な神経細胞が存在していて、その一つひとつの細胞から別の神経細胞にどれほどのつながりがあるかというと、10とか100どころか、100010000のオーダーであることが分かったのである。この数は大変なものだ。1千億の結び目があって、それぞれが10000の他の神経細胞と連絡を取っていることになる。この複雑さをおそらく私たちは想像することすらできないのである。脳とはそういう宇宙みたいな存在だということがわかってきた。
さて脳のどこの部位とどこの部位が実際に結びついているのか、ということについては、まさに研究が始まったところという印象を持つが、最近ではその問題を扱うconnectivity (脳内結合関係)という学問分野が成立し、学会も存在する。その研究成果の画像を紹介しよう。これは脳を2000ぐらいの部位に分けて、どの部位とどの部位がつながっているのかということをコンピューターで図示したものである。他の部位とつながっている数が多い部位は、より大きなドットが描かれている。これを見る限りは後頭葉や角回あたりに大きなドットが集中していることがわかる。
 私がここで主張したいのは、脳というのは巨大な編み目構造、ネットワークからなる情報処理装置であるということだ。とんでもない膨大なネットワークから成立する脳。そこから心はどういうふうに生まれてくるのか、皆さん不思議に思わないだろうか。私にとってはこの問題について、何人か導き手になる注目すべき先達がいて、その一人がGiulio Tononiというイタリア出身の脳科学者である。以下に彼の理論を少し紹介しよう。彼は数年前に京都大学にも招かれて講演を行ない、評判となったが、彼の唱える説というのは非常に興味深い。彼は心は巨大なネットワークの産物だと考え、それをΦ(ファイ)と呼んでいる。そしてそこに貯めることの出来る情報の多さが、意識のレベルを決めると考える。その単位もまたΦなのだ。すなわちあるネットワークがあった時にそこにどれほど情報を貯めることができるかということが、意識がどの程度複雑で込み入ったものになるかを決定するということだ。[kn1] 情報が貯められて、それを伝達することができるような処があったら、それは意識を成立させるのだというわけである。そして勿論、これは人間の脳でもAIでも同じだと考えられる。

 [kn1]ここは「ものになるかを決定する」ということでしょうか?