ここで歴史的なことにも少しだけ触れよう。200年前は脳の中というのは、亡くなった人を解剖して見るということでしかわからなかった。ポール・ブローカというフランスの医者が、失語症の人の死後脳を集めて剖検した結果、前頭葉の後ろのほうに欠損があった。そこでその部位をブローカ野と名付けることとなった。ここが梗塞、あるいは事故などで破壊された時に失語が起きる。だからここに運動性の言語中枢が局在しているということがやっとわかったのである。実は1800年までこういうことすらわからなかったのだ。そして過去200年、特に過去数十年で実に多くの知見を我々は得たのだ。
気脳写像 |
本書の読者の中には、「気脳写」という言葉をご存じの方はおそらく非常に少ないと思うが、私が精神科医になった1982年に、精神科のテキストを見ると、気脳写像というのが掲載されていた。脊髄から空気を入れると脳脊髄液の中を上がって行き、側脳室に空気が入っていき、それがレントゲンに映る。この一部が押しつぶされたり形がゆがんでいたりしたらそこに何かの病変があるのだろう、ということがぼんやり分かるというわけである。その技術がいつまで用いられていたかはわからないが、私が精神科医になった1982年にはまだ精神科の教科書にそれが載っていた。それほどまでに苦労して脳を可視化しようとしたわけである。また同じ精神科のテキストに載っている初期のCT画像はとてもぼんやりしている。出血している部分がようやく分かる、といった程度だ。ところが最近はMRIで非常に鮮明に見え、しかもfMRI(機能的MRI)などになると、まるで動画を見るように、脳で起きていることを刻一刻示すことができるようになっている。この間のテクノロジーの進歩は、そこまですさまじいのである。ただし、どことどこがどのようにつながっていて、どういう機能分化をしているかということになるとほとんどわからないのである。
この事情をもう少し具体的に示そう。ここに示したfMRIの画像(図20-1)は、被検者が幸せに感じている時と悲しい時は脳のどの部位が興奮しているかを示している(Vergano, 2013)。異なる感情状態のときは、興奮の場所が全然違うだろうということは理解できるが、感情をつかさどる辺縁系以外にも、脳のいたるところに点々と興奮している部位というのは一体何を意味するのだろうか。つまり、脳の中ではある一部がある機能を担っているのではなく、ある一つの感情、行動を成立させるために、脳にはいろんな部分の情報網やインプットがあるのだということを示しているのである。脳の機能がいかに複雑で込み入っているかということを示す一つの例と言えるだろう。
脳の可視化が進んだ結果として、こんなことが分かり、それが臨床的に役に立ったといういくつかの例を挙げよう。例えば患者さんの訴える幻聴がある。幻聴というのは一種の幻であって、「気のせい」だと考える人さえいる。つまり聞こえていると信じ込んでいるから聞こえるのであり、本当は聞こえていない、という考え方である。ところが幻聴のある患者さんがまさに幻聴を訴えている時に、 後頭葉の一次聴覚野の活動が検出されているということが研究ではわかっている。一次聴覚野には普通耳から入った信号が入ってくるのだから、そこに興奮が見られるということは、本当に声として体験されていたのだ、ということが分かったことになる。
あるいはプラセボ効果やノセボ効果についてである。プラセボ、すなわち偽の薬を飲んでも痛みが軽くなるとはどういうことなのか? では実際に何が軽減したり低下したりするのか。例えば乳糖の錠剤、つまり薬効のない薬の粒を飲んでもらって痛みが軽減した被験者がいるとする。その患者さんはプラセボ効果を示しており、この患者さんは気のせいで痛みが軽減しているだけだろうと思う人がいてもおかしくない。ところがfMRIで見ると皮質の様々な部位であたかも実際に鎮痛剤を飲んでいた時と同じような変化が起きていることがわかったのである。さらに私が個人的に興味深いと思うのは、被検者に安いワインを飲ませて、これは高いワインですと伝えると、美味しさを感じた際に興奮する部位である眼窩前頭皮質の活動がやはり同様に増すという類の実験である。つまり本当に美味しいワインとして、脳が体験しているということになるのだ。
プラセボの話に戻るならば、それが実際に痛みを鎮める効果を持つときは、本物の鎮痛剤と同じ効果を持つということになる。決して「気のせい」ではないのだ。プラセボが痛み止めとして効く場合には、決して「気のせい」ではないということが、脳の活動の可視化によってはじめてわかるというわけである。ちなみにこのプラセボ効果は、脳内麻薬物質の拮抗薬であるナロキソンで低下することが分かっているという。これなどもますます「気のせい」ではなかった証拠ということになるだろう。
脳の可視化によって我々がひとつ教えられたことがある。それは患者さんの話をもうちょっと素直に聞かなくてはいけないということである。プラセボの問題に限らず、その他の様々な身体症状についても、内科や専門診療科で何も異常な検査所見が見つからないと、その後は「症状は精神的な問題で引き起こされます。うちでは治療の仕様がありません。精神科に行ってください。」となることが少なからずある。その「精神的な問題」からは、あたかもそこにないもの、気のせいで生じているものというニュアンスが伝わるだろう。しかし今やこれらには明らかに脳科学的な基盤が与えられている。患者さんの心のせいではないのだ。脳の可視化によってわかってきていることは、患者さんの言っていることは大概は本当だったのだということである。
最後がお説教口調になったのは、自分でも少し嫌だ。脳が可視化されることで、それまでのブラックボックス的な心、特にその深奥の無意識が垣間見られるようになって、その実態はといえば巨大ネットワークであり、そこでは心の現象の対応物 correlate が見いだされるという経験が積み上げられてきた、ということを言いたいのだが。コンピューターの心臓部といえばCPUだが、そこにあるのは巨大な回路でしかない、というのと似ている。でもその巨大な回路の中で様々なことが実際に起き(電子の貯留、放出、など)、それがディスプレイ上の画像の変化に対応しているというところは、神経ネットワークの集積としての脳と同じである。