2019年4月30日火曜日

こころの基本形 ①


心の基本形とホフマンの理論

関係性のパラダイムが問い直しているのは、従来の精神分析理論に見られる本質主義であり、解釈主義である。それは精神分析をある種の探求と見なすことで失われるものを問い直すことある。
ただしこの姿勢は私たちがある悩ましいジレンマに直面していることを意味する。精神分析家の役割を無意識に潜む本質的な内容の解釈として捉えることは、フロイトの創始した精神分析理論の中核にありながら、その将来の発展を阻みかねないというジレンマである。そして関係精神分析が解釈主義の代わりに提案するのは何なのであろうか? それはある種の心のやり取りを患者とともに体験することである。そのやり取りが含む関係性に関する理論は、愛着理論や間主観性理論、一部の対象関係論、フェミニズムなどと共鳴しあいながら大きな理論的な渦を形成しつつあり、もはやその動きを止めることはできない。
関係性をめぐる議論は様々な文脈を含み、とても俯瞰することは困難に思える。しかしその中でアーウィン・ホフマンの提示した理論は、様々な理論を理解するためのメタ理論としての意味合いを持つ。それは心が必然的にある種の弁証法的な動きをすることに、その健康度や創造性が存在するという見方である。
私はホフマンの提唱する、いわば心のあり方の基本形としての「弁証法的構成主義」の理論から多くを学んだが、心のあり方を公式で示すような試みはもちろん多くの反発を招きかねない。しかし同様の試みはウォーコップ・安永理論、ドイツ精神病理学の流れを汲んだ森山公夫や内沼幸雄の理論にも見られた。そもそもフロイトも数多くの心の図式化、公式化を試みたことは私たちがよく知るとおりである。
ホフマンの「弁証法的構成主義」は、実は現在の自然科学でメジャーとなりつつある複雑性理論とも深いつながりを有する。そのなかでも「揺らぎ」の概念は心の本来のあり方を巧みに捉えるとともに、ホフマンの主張を理解するうえでの助けとなるだろう。
 ホフマンの理論の精神分析への貢献は、対人関係のあり方を、よりリアリティを伴った形で描写する方法を与えてくれたことである。患者と治療者は互いに相手を計り知れない他者であると同時に、自分と同じ人間すなわち内的対象として体験するという弁証法が存在する。また分析家は畏怖すべき権威者である一方で、患者と同様に弱さと死すべき運命を担った存在として弁証法的に患者に体験される運命にある。それらの弁証法の一方の極がいかに否認され、捨象されているかを知ることは、心の病理を知る上でのひとつの重要な決め手となるのである。

二重性を帯びた心の在り方 - 同一化の不思議
 私たちの心の理解が示しているのは、ある種の心の二重の在り方である。たとえば目の前の患者の話を聞く私たちの心の動きを考えよう。たとえば子供が病に伏した母親の話である。男性の治療者はその母親の不安な気持ちをどの程度共感できるだろうか? 母親に同一化して悲しい気持ちになるだろうか? しかし同時にそこから「それは自分に起きているわけではない」と切り離す部分を持つことで治療者としての機能を続けることが出来る。
あるいはパートナーに同一化し、一緒になりたいという気持ちはどうだろうか? 自分はこの人と一緒、と思うかもしれないが、同時に私は私、一人でやって行ける、と思う部分があって大人同士の付き合いが成立するだろう。
ところでここで同一化という問題を持ち出したが、フロイトが論じたこの概念は精神分析の世界では極めて重要な意味を持つようになっている。しかしこれはどのような仕組みで生じるのだろうか? そもそも動物界で、この種の心の働きは至る所で見られている。子供を生んだ後は身を挺して守るという様子ははるかに下等な生物でも見られる。そこには見た目が自分と同様だから、という必要性すらない。産卵した後に卵を守り、酸素を含んだ海水を送り、天敵を近づけないための涙ぐましい努力を払うのはメスばかりではない。自分の子孫に対しては、それを自分の身体の延長のように感じてそれを全力で守るという振る舞いは、極めて不思議でかつ精巧にプログラムされているように思えるが、そもそもそうでもしない限り子孫を残すということは不可能であろう。この子孫を残す際の同一化とは、まさに自分の身体の延長の感覚、子孫の痛みは自分の痛みとして感じられる(喜びも同様)ということに特徴があるのだろう。
ところがそれとは少し赴きの異なる同一化があり、それははるかに客観的な性質を有する。こちらを「同一化」とカッコつきで表現するならば、それは一瞬相手の身になり、その味見foretasting を行うものの、その痛みを自分の傷みとするには至らないであろう。心の針は相手の世界に触れて一瞬振れるだけで元に戻る。「同一化」においては、他者の体験の探索しではあっても、針が振り切れた状態になる同一化とは異なる。英語ではこれはconcern (思いやり)と呼ばれる状態である。これは一見同一化とは違って薄情なようでいて、おそらく他者を守り,種を保存する上では最も効果的である可能性がある。同一化により他者の命を守るために自らの命を絶ってしまいかねない行為よりは、他者も自分も助かるための冷静な振る舞いをするのに役に立つのはこの「同一化」なのである。そしてそこで働くのは、「自分は相手である」という一瞬の体験(foretasting)と「自分は自分である」という体験の両立なのである。

2019年4月29日月曜日

アトラクター 5


悲しいアトラクター
ここで少し心理の本らしく(ナンのことだ?)、人間が持つ悲しい運命をたどるアトラクターを紹介しよう。それは人と人との、あるいは国と国との争いが起きる際に見られるアトラクターである。
当たり障りのないように (逆に当たり障りがありすぎかもしれないが架空の二国間の争いを想定しよう。
A国:貴国(B国)の振る舞いについて非常に遺憾に思う。貴国の船は明らかに我が領海を侵犯している。
B国:貴国(A国)の主張を非常に遺憾に思う。もともと我が国は貴国の領海の侵犯などしていない。レーダーのデータの誤りではないか?
A国:これは何ということだ。貴国は最初に領海を侵犯しておいて、こちらが嘘の話を作り上げたと主張するとは、盗人猛々しいにもほどがある。
B国:あり得ない話である!ではいうが、今貴国が自分の領海と主張している海域は、歴史的には明らかに我が国が長く治めていた地域である。これについては歴史的な証拠もたくさんあるのだ。
A国:笑止千万である。貴国こそがあり得ない話をでっち上げ言いがかりをつけているのだ。貴国の歴史的な証拠も、どうせ捏造に決まっている。
B国:明らかに我が国に対する挑発行為であり、黙っているわけにはいかない。このような挑発を続けるなら、貴国の領土が焦土化するような事態を招かないとも限らない。
(続く)
という感じで、両者が非難合戦を続け、そのうち国境での小競り合いが生じると、それを口実に互いの軍隊が出動し・・・・。
この種のアトラクターはおそらく人間の知能の産物であろう。ここには言葉による歪曲や挑発の相互的な増幅が明確に関与している。ニホンザルの群れ同志が森で出会ってけんかになっても、おそらくこの種の応酬のエスカレーションといったアトラクターは見られないだろう。いきなりガチンコの争いが起き、おそらくあっという間に決着がつき、終息する。互いが胸の内に恨みを抱きあいながら休戦状態になるという別の種類のアトラクターが成立することもないだろう。

2019年4月28日日曜日

アトラクター 4

一番のストレンジアトラクターとしての恋愛体験
恋愛対象ほど典型的なアトラクターは考えられないであろう。そしてもちろんこれは人に限ったことではない。生殖活動を営む動物一般に言えることだ。しかしなぜ生物はこのようなアトラクターを有するのか、という疑問を持つことにはあまり意味がない。そのようなアトラクターを有する個体が種を保存してきて現在に至っているのだ。そのような意味では現在存在している生命体はことごとく「色好み」の遺伝子を有しているのである。私たち(と言っても動物代表として、である)はおそらく異性をアトラクターとして選択し、一定の行動を取るようなプログラムを備えていて、それにしたがって生殖活動を行っていく。ただし異性がアトラクター(惹きつける人)というだけでなく、その行動そのものがアトラクターなのだ。一連の生殖行動を行うとき、動物は普段とはまったく異なる振る舞いをする。普段は近づかない異性に接近し、普段は取らない行動を起こし、それが最終的に遂行されるまでは一心不乱にそれを行い続ける。いったい何がそのような特定の、普段とはかけ離れた行動へと誘うのだろうか?
 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者 Semir Zeki 先生は、人が好きになった相手のことを考えているとき、脳でどのようなことが生じているかを調べたが、その研究結果が興味深い。大脳皮質の前頭葉は人間が判断(行動選択)を行う重要な部分だが、MRIスキャンの結果、人は夢中になっている相手の写真を見せられた時、前頭葉が抑制され、批判や疑いといった心の機能がストップすると伝えている。また恐れを感じる扁桃核も抑制され、その代わりに快感を生み出す報酬系が活性化される。つまり生殖行動というアトラクターにハマっている最中は、それが心地よさを与え、それが危険であるという可能性を考えないような脳のメカニズムがはたらいているのだ。そしてその間実に巧妙にプログラムをされた行動に従った行為が行われる。それは誰に教わることもなく身についている行動なのだ。
ところでこの見事なアトラクターの例を紹介したい。ナタリー・アンジェ著、相原真理子訳「嫌われものほど美しい-ゴキブリから寄生虫まで―」草思社、1998)から引用しよう。
 オスは櫛状突起によって、求愛ダンスの重要な小道具、つまり精子の入った袋である精包を置くための棒を見つける。ダンスをしながらオスはメスを棒のところまで引きずっていき、精包を排出し、メスの体を棒の上に置く。やがてメスは自分の櫛状突起の間にある生殖口を開き、精包を体内に取り込む。
交尾を終えたメスはクライマックスのあとのスナックを求めてオスを攻撃しようとする。オスは櫛状突起が出す科学的なシグナルによってそのことを察知し、すばやくメスから離れて逃げ出す。だた10~20パーセントのオスは逃げ送れてメスに食べられてしまう。

何と手の込んだアトラクターなのだろう。

2019年4月27日土曜日

ある発表に向けてのサマリー


...................................... in Psychoanalysis

In this paper I discussed the issue of transience in relation to mortality in psychoanalysis. Today, human beings live in a world full of turmoil and catastrophe, without a clear idea of what the future will bring. Even the rapid development of technology can be a source of unpredictability and anxiety. While nothing seems to be certain in our future, what is certain is that nothing remains unchanged, and all of us are mortal. What can psychoanalytic knowledge give us to grapple with this reality? Freud explored what resides in the unconscious and attempted to understand the symbolic meanings of its content. However, many modern analysts show a keen interest in what is not articulated. W. Bion (1970) noted the capacity to work in the present moment “without memory, desire, or understanding,” and his notion of “O” captured the imagination of many modern analysts. From our standpoint, 
Freud… 

... Dynamism of mind can be both an old and a new idea. This dynamic nature of the mind is the basis and a prerequisite for our experiences of beauty, joy, sadness, and so on. Some steady states, such as the “oceanic feeling,” or Freud’s primary and secondary narcissism, can also be static conditions devoid of emotionality and liveliness. I also noted that this dynamic way of understanding of the mind is informed by the modern complex theory, where the fluctuation and oscillation of mental activities are a healthy and natural way of being.

2019年4月26日金曜日

アトラクター 3


アトラクタ:心の現象としての面白さ

心理学的に見たアトラクターの問題とは何か? 実は心とか意識という現象自身が一つの大きなストレンジアトラクターとさえいえる。しかしいきなりそんなことを言っても読者を混乱させるだけなので、もう少しわかりやすい話から入る。
あることに注意を集中し、そのためにすべてをささげようとする人がいる。あるいは私たちの中にもそのような傾向を持つ人がいるかもしれない。要するに何事かにハマってしまうことであるが、それがなぜ面白いかと言えば、人によりこれほどまでにハマる対象が異なるという事である。大抵は他人がなぜそれに嵌まるのが理解できない。
ある番組で、東南アジアの某国の河川に住む淡水魚を探し求めることに命を懸けている男性(Aさん、と呼ぼう)について報じていた。もちろんそこに住み着いて、仕事以外は川に入り、魚を探す。見たところ彼は非常に情熱的で、心優しい男性のようである。日本から家族を呼び寄せ、現地で仕事も持っている。それほど情熱的に淡水魚を追いかけながらも、彼に野心のようなものは特に見られない。あえて言うならば、これまでの十何年にわたる彼の活動を写真集として発表することだという。しかしその写真集のためにAさんが10年以上、日本の家族を呼び寄せて移住して、週末ごとに川に入って草むらから魚を追い出して捕獲するわけではない。彼には「この国の淡水魚をすべて見つけ、できることならば新種も見つけ、征服したい」という強い願望があり、それに突き動かされているのだ。ふつう私たちが考えるような、社会的な名声や富と言ったものとはかけ離れている。
Aさんは変人だろうか? おそらくそう呼べるであろうが、特に人に迷惑をかけているわけではない。おそらくほかの大部分の人はそんなことに興味がないという意識は自分にもあるだろう。その意味ではAさんはきわめて正常な人だ。仕事もしているし家族も養っている。しかし彼の興味関心はまさにある一事、某国の淡水魚を網で捕まえることだ。
これは心理学的なアトラクタの一つの典型例と言えるだろう。追いかける、と言っても本来その対象は沢山あっていいはずだ。海の魚だっていいだろうし、蝶だって、昆虫だっていいはずだ。でもAさんの場合、淡水魚に特化しているのだ。通常ならあらゆるものにまんべんなく向かってもおかしくない人間の興味関心が、ひとつのものに集中するという出来事、これが起きているわけだ。
ただしAさんが特に変わっているかと言えばそうではないことは明らかである。健常人(Aさんがそうでない、と言っているわけではないが)にも大抵このアトラクタが備わっている。というよりはそれがない日常生活はあり得ないといってもいい。たとえば洗濯をする時も、面倒くさいなと思いつつはじめても、一定の時間それに関心を奪われ、それにより仕事は片付く。いわば意図的にある事柄に、無理やり自分を「ハマ」らせて仕事をこなすわけだ。しかしよほどいやな事でない限りは、たいていは自然と自分からハマっているものとそれが自分の生活にとって必要な事とは重なっている。それにより私たちの生活は回っているわけだ。

2019年4月25日木曜日

アトラクター 2



ちなみに昨日のローレンツの図、一晩放置しておいたらこうなった。すっかり中が埋まってしまった。
さてこの図を見せられても、面白そうではあっても結局何のことか分からないだろうし、自然現象はアトラクターにあふれているといってもその意味が分からないだろう。そこでローレンツの方程式三本を思い出す。

この式は複雑だが、元もと彼はこれを気象の観測に考えた。そしてかなり簡素化した流体力学の式として立てたのだ。たとえばxは水平速度、yは垂直速度、zは温度などと仮定しよう。そして水平の速度は、垂直速度の差に従って変化している、という観察結果が得られて、それが第一の式となる。第2、第3の式もこの変数のあいだの関係から得られたとしよう。つまりそれぞれのファクター同士の相互関係が実験から予想される場合に、それらを組み合わせて変化を見ているのだ。これは数学的には説けないので、コンピューターでシミュレーションをしていく。そしてある時の風の水平、垂直速度と温度の変化を三次元で表すと、例のバタフライの図が描けるという事だ。勿論このバタフライは空のどこを見ても見えない。もし誰かがある場所で風の水平、垂直速度と温度の変化をご丁寧にも3次元のグラフに描いたら初めてわかることだろう。しかし体験としていえることは何となくそこでの風の向きがしばらくは揺らぎつつも一定方向を保っていたのが、途中で急に反対方向に変化するという事を感じるかもしれない。それが蝶の一方の翼からもう一方に急に移るときだ。
あるいは土星の一つの衛星を考えよう。おそらくその衛星はたくさんの恒星、惑星の間の力を受けているから、その速度をX(太陽からの距離)Y(土星からの距離)Z(すぐ近くの衛星からの距離)・・・などの微分係数で表すことが出来る。その結果として得られたのが、何千万年もの間土星を回っていくうちに他の星との関係からはじき出されて行ってしまった衛星の動きを表していたという事になろう。その場合その衛星の動きの面白いところは、それこそ何百万回となく土星の周りを回転していながら、つまりそれが一定の期間アトラクターとしての役割を持ちながら、最後にはどこかに消えてしまったという事だ。長い間連れ添いながら熟年離婚したカップルのようなものだろう。この場合、蝶々の羽の一つからもう一つに移ろうとして失敗してアトラクターを飛び出してしまった例と考えることが出来るだろう。


2019年4月24日水曜日

アトラクター 1


アトラクター:学問としての面白さ
複雑系の理論のアトラクタの概念にハマってしまっている。純粋に学問的に見て面白い。
ただし理論的な定義は分かりにくいし、第一面白くない。たとえばWikiの定義を見てみよう。アトラクター(: attractor)は、ある力学系がそこに向かって時間発展をする集合のことである。
「力学系において、アトラクターに十分近い点から運動するとき、そのアトラクターに十分近いままであり続ける。アトラクターの形状は曲線多様体、さらにフラクタル構造を持った複雑な集合であるストレンジアトラクターなどをとりうる。カオスな力学系に対してアトラクターを描写することは、現在においてもカオス理論における一つの研究課題である。」
よくわからないではないか。そこでアトラクターの不思議さを知るためにはやはり視覚的な説明が一番である。


例えば上はよく出てくるローレンツのアトラクター。xyzの三軸の座標に広がる奇妙な蝶ネクタイのような図をよく見かけるだろう。しかしおそらくほとんどの人はこれが意味するものが分からない。これは数学の苦手な私ががんばって説明するならば、ある空間上の一点が時間経過とともにたどる軌跡が描く図である。三つの式は、xyzの三つの変数が時間tの変化によりどのように変化するかを三本の微分方程式により表わしたものだ。すると時間が経つとこの点がしばらくは片側の円周を回り、途中からもう片方にぴょんと移り、また元の円に戻り、という事を延々と繰り返していく様子が見られる。つまり時間が経つと蝶ネクタイの奇跡の線がどんどん濃くなって最後には真っ黒になるわけだが、どの軌跡も一致していないという現象が起きる。それはそうだ。もしある軌跡が以前の軌跡とまったく一致していたら、それ以降の軌跡は以前のものをなぞるだけだから、最終的にはこの蝶ネクタイには隙間がたくさんあくはずだ。ところが実際の軌跡は少しずつずれるという形で限りなくこの蝶ネクタイを濃くしていく。このような振る舞いをするアトラクターをストレンジ(変な、変わった)アトラクターと呼ぶわけである。ネットでちょうどローレンツのアトラクターを描くプログラムがあったので、ダウンロードしてみた。何分か走ってもらう。
開始して30秒
5分後
10分後
もちろんこんなヤヤコシイアトラクターではなく、シンプルで何度も以前の軌跡をなぞるアトラクターもある。たとえば振り子に横向きの力を加えて放っておくと、振子は円運動を延々と繰り返すであろう。勿論空気との摩擦を省略した場合である。その場合のアトラクターは一つの、なんの厚みもない環になる。しかしストレンジアトラクターは延々と、少しずつ前の軌跡とは異なる軌跡を描き続ける。
さてなぜこちらの方が断然面白いかと言えば、自然現象は圧倒的にこちらの方が多いからだ。たとえば有名な話だが、土星の輪がどうしてトビトビなのか、という問題がある。そのうち抜けている部分には、土星の周回軌道を回っていた衛星があり、それが少しずつ軌道がずれていって、ローレンツアトラクターのようにピョンとその円周から外れて、もう一つの円に行かずにどこかに飛んで行ってしまったからだという。すると衛星の軌跡というのはまさにこのストレンジアトラクターのような振る舞いをし、決して以前と同じ軌跡をなぞっているわけではないという事がわかる。
どうして自然界では結局はストレンジアトラクターが圧倒的に多い(というよりはシンプルなアトラクターは存在しえない)のは、たとえば衛星が回る際にそこに加わっている力が数限りないからだ。土星の衛星は、土星自身の引力だけでなく、太陽からも、地球からも、火星からも力が加わっている。そして太陽系そのものが銀河の中心を回っている。すべてが実は動いているのだ。三つ以上の物体が引力を及ぼし合っている状況では、すでにカオス(のちの章で説明)が生じるという事を考えると、木星の衛星がストレンジアトラクターを示さないほうがおかしいという事だろう。
20分後。すっかり出来上がった。


2019年4月23日火曜日

いい加減さ 3


 実は揺らぎについて調べていて、吉田たかよし著の「世界は『ゆらぎ』でできている」(光文社新書)を読んでいるのだが、彼の揺らぎの記述は大変なことになっている。この本の副題は「宇宙、素粒子、人体の本質」とあるので、ある程度覚悟はできていたが、結局は揺らぎの問題は量子力学にまでさかのぼっていくようだ。この本の前半はそんな話ばかりである。結局揺らぎは量子レベルでの物質が持つ、粒子としての性質と波動としての性質に行き着くという事だろうか? 物質をミクロレベルで探求していくと、長さにも時間にも最小単位が存在するという。長さは1.616×10のマイナス35乗メートル。(ちなみに時間にも最小単位があり、それは5.391×10のマイナス44乗秒。時間にも最小単位があるとは知らなかった!) それ以下になると物体は波動としてしかとらえられず、その在り方は最近では超ひも理論により説明されようとしている。そしてその超ひもとは、太さを持たない長さだけのヒモが波打っている状態であり、そのパターンにより17種類の素粒子に分類されるという。揺らぎはそのレベルにまでさかのぼる必要があるのだろうか? ここからは素粒子論に門外漢の私の想像だが、たとえば花粉が水中でフラフラ動く様子として発見されたブラウン運動については、これを量子レベルまでさかのぼる必要はない。ランダムに飛び交う水の分子(波動、ではなく)にぶつかることで花粉はフラフラ動いていく。このような揺らぎは別に自然現象である必要はない。ネットではコインを投げて、オモテならこちら、裏ならこちら、という風な動きをコンピューターでシミュレーションした際のランダムウォークを見ることが出来るが、これも同じ動きをする。これと株価を関連付ける研究もあるという事は、量子レベルより上のマクロレベルでのゆらぎで私たちの体験する揺らぎの多くは説明できるのだろう。でもこの揺らぎのフラクタル性を、ミクロレベルに追求していくと最終的には粒子そのものではなく、揺らぎそのものに行き着く、というところはすごい話だ。つまり揺らぎのフラクタル性は極小レベルまで保たれたままだということである。どこまで拡大しても「ピクセルのギザギザ」に行きつかない!すごいことだ。


2019年4月22日月曜日

いい加減さ 2

いい加減さと揺らぎ

ここから私はいい加減さというテーマに深く関係した「揺らぎ」の話に入りたいと思います。揺らぎとは最近とても盛んに議論になっている現象ですが、自然界に潜むある種の法則といってもいいと思います。そしてその自然界には生命現象も含まれます。適度な揺らぎは生命力の源泉ともいえるでしょう。いい加減さとは、実は揺らぎの問題としてとらえ直すことが出来ます。
皆さんは自然現象がことごとくこのゆらぎを含んでいることを体験的に知っているでしょう。大地は常に揺らいでいます。風もその強さや方向性は常に揺らいでいます。生命現象に関しては、例えば私たちの脈拍は揺らいでいますし、血圧も揺らいでいます。私たちの脳波を取るとこれがまた揺らいでいます。私たちが行う経済的な活動、例えば株の売買のために、株価は常に揺らいでいます。このゆらぎが揺らぎである特徴としては、そこにフラクタル性が隠されているということがあります。それはスケールを大きくしても、小さくしても、同じような揺らぎが見られるという現象です。
どっちでもいい、といういい加減さは二つの決定の間を揺れ動きながら決めかねるという優柔不断なニュアンスを含みますが、これはどちらにも行かないということでもあります。つまりどちらか一方への暴走を防いでいるという役割を果たしています。実は私たちはいつもそれをやっているのです。これは実に巧妙な動きでもあるのですが、それをどうして身に着けたのでしょうか? それは私たちが生まれてから発達途上で生きる、体験するということを通して体得されていくのです。例えば私たちが片足立ちをすれば、それはすぐにわかります。生まれて初めて片足立ちをしたときにはすぐ倒れてしまったでしょう。しかしいつの間にか練習を通して、片足で立つということを覚えます。私たちの体は揺らぐでしょうが、それはどちらか一方に偏ることに対する反動という形で常にバランスがとられているわけです。そう、いい加減であるということは、バランスを取っているというわけです。それが揺らぎという現象となって表れるわけです。
私たちは初めて独り立ちをするとき、あるいはそれを行う前から、転ばずにバランスを取って体を動かすという練習をしています。私たちの神経系は一方の筋肉の緊張が行き過ぎればその反対側の筋肉が収縮をするという仕組みを備えています。こうして揺らぎはある意味ではカタストロフ(たとえば倒れること)に対する予防という意味を持ちますが、それが積極的に選ばれる必要もあり、それは揺らぎが私たちにある種の心地よさを与えてくれるからです。

2019年4月21日日曜日

関係性理論へのラブコール


関係性のパラダイムが問い直しているのは、従来の精神分析理論に見られる本質主義であり、解釈主義である。そしてそれは私たちをある悩ましいジレンマに陥れる。精神分析家の役割を無意識に潜む本質的な内容の解釈として捉えることは、フロイトの創始した精神分析理論の中核にありながら、その発展を阻む可能性を有するというジレンマである。そして関係精神分析が解釈主義の代わりに提案するのは、ある種の心のやり取りを患者とともに体験することである。そのやり取りが含む関係性に関する理論は、愛着理論や間主観性理論、一部の対象関係論、フェミニズムなどと共鳴しあいながら大きな理論的な渦を形成しつつあり、もはやその動きを止めることはできない。
関係性をめぐる議論は様々な文脈を含み、とても俯瞰することは困難に思える。しかしその中でアーウィン・ホフマンの提示した理論は、様々な理論を理解するためのメタ理論としての意味合いを持つ。それは心が必然的にある種の弁証法的な動きをすることに、その健康度や創造性が存在するという見方である。
私はホフマンの提唱する、いわば心のあり方の基本形としての「弁証法的構成主義」の理論から多くを学んだが、心のあり方を公式で示すような試みはもちろん多くの反発を招きかねない。しかし同様の試みはウォーコップ・安永理論、ドイツ精神病理学の流れを汲んだ森山公夫や内沼幸雄の理論にも見られた。そもそもフロイトも数多くの心の図式化、公式化を試みたことは私たちがよく知るとおりである。
ホフマンの「弁証法的構成主義」は、実は現在の自然科学でメジャーとなりつつある複雑性理論とも深いつながりを有する。そのなかでも「揺らぎ」の概念は心の本来のあり方を巧みに捉えるとともに、ホフマンの主張を理解するうえでの助けとなるだろう。
 ホフマンの理論の精神分析への貢献は、対人関係のあり方を、よりリアリティを伴った形で描写する方法を与えてくれたことである。患者と治療者は互いに相手を計り知れない他者であると同時に、自分と同じ人間すなわち内的対象として体験するという弁証法が存在する。また分析家は畏怖すべき権威者である一方で、患者と同様に弱さと死すべき運命を担った存在として弁証法的に患者に体験される運命にある。それらの弁証法の一方の極がいかに否認され、捨象されているかを知ることは、心の病理を知る上でのひとつの重要な決め手となるのである。

2019年4月20日土曜日

心因論 推敲の推敲 6


最後をひとつの章にした。ほぼ完成。いろいろ勉強になった。(でも誰も実際の活字になった後も、あまり読まれないだろうなあ)。

最後に-心因、内因、外因の現代的な意義

上述の通り、DSM-5 においては「心因反応」に該当するのは適応障害が残されているに過ぎないという事情を示した。またPTSD,ASDについては、ストレス因の存在は前提とされるものの、それが「正常な心がストレス因により正常の心理的な反応として呈した状態」とは言えないという意味では「心因反応」とは言えないという事情を示した。さらに神経症、転換性障害などはストレス因の存在自体が前提とされなくなったと言う意味で、やはり「心因反応」の条件を満たさなくなったと言える。しかしこの議論を終える前に、そもそも心因、内因、外因という概念の意味が現代の精神医学においては以前持っていた意義を失いつつあると言う点について述べたい。
心因、内因、外因という概念が成立した前世紀初頭は、精神の機能が可視化されるということは通常はなく、また心身二元論的な発想は現在よりはるかに自然に持たれた。心はそれ自身が因果論的に展開し、それ自身の働きに異常が生じるか(Sommer のいう「観念により起こり、観念により影響される病態」としての心因)、脳自身に微細な異常が生じたり外からの明らかな影響が加わることで失調が起きるのか(内因、外因)のいずれかの可能性が考えられたのである。しかしあらゆる精神医学的な障害に関してその生物学的な変化が明らかになりつつある現在では、心と脳とはもはや二元論的に捉えられなくなっている。心が体験したことが脳の在り方を変え、また脳の変化が心の在り方を変える、すなわち両者が相互的に影響を及ぼしあうというのが現代的な捉え方と言える。ただしその相互関係におけるある病的な変化が心の側からのきっかけにより生じたものか、脳の側から生じたものかという分類は依然として意味を失ってはいないであろう。前者としてはいわゆるストレス関連障害がそれに該当し、後者では目立ったストレス因はないものの、気質や遺伝負因が発症に関連したと考えられる多くの精神疾患が当てはまるであろう。そしてその意味で、従来から唱えられていた「ストレス素因モデルStress-diathesis model」は依然として私たちの精神疾患の理解を支えてくれているのである。ただしそこではストレスと素因とは二元論的な関係にあるのではなく、相互が動的な連関を持ちつつ精神のあり方やその病理を形成するという意味が含まれるのである。
「心因反応」概念の発展的解体は、一方では誤解を招く旧来の意味での「ヒステリー」や「疾病利得」の概念を排除しつつ、心身の連関や、現代的な「ストレス素因モデル」の重要性に注目するきっかけとなったと言えるのではないだろうか。

2019年4月19日金曜日

心因論 推敲の推敲 5


そもそも心因」内因、外因に分ける意味があるのか?
上記の通り、近年は神経症を含めて精神医学的な疾患において脳で生じていることをかなり可視化できるようになった。たとえば強迫神経症における眼窩前頭前皮質と尾状核の過剰な結びつきがfMRIで確かめられるようになってきている。しかし通常の精神活動についても、脳の機能の一部が可視化されるという事情は変わりない。たとえば映画で恐ろしいシーンを見たときの情緒体験がfMRIで扁桃核の興奮として可視化されたとしても、それを器質的な現象として捉えることに意味はないであろう。
 心因、内因、外因の概念が成立したころは、精神の機能が可視化されるということは通常はなかった。そしてこのころは心身二元論は今よりはるかに自然な発想だった。心はそれ自身が因果論的に展開するか(Sommer のいう「観念により起こり、観念により影響される病態」としての心因)、脳に微細な影響が加わり、失調が起きるのか(内因)、脳に外からの明らかな影響が加わって失調が起きるのか(外因)、という三つの可能性が考えられた。しかし心の働きが脳の働きの一つの表現として捉えられるとしたら、両者の距離は近くなる、というよりは重複するものとして捉えられるようになる。心が体験したことが脳の在り方を変え、また脳の在り方の変化が心の在り方を変える、すなわち両者が相互的に影響を及ぼしあうというのが現代的な考え方であろう。ただしその相互関係が心の側から初めに生じたものか、脳の側から生じたものかという分類は可能になる。ある種の体験がきっかけとなる場合はそれを心因反応に準ずるものと考え、脳の変化がきっかけならそれを生物学的な要因とみなすということは言えるかもしれない。そしてその意味での「
ストレス素因モデル Stress-diathesis model」 は依然として私たちの精神疾患の理解を支えてくれているのである。

2019年4月18日木曜日

ある前書き

ある本の前書きを書いたが、いろいろな配慮から、ほとんど伏字にせざるを得ない。


精神分析と ●●●● 臨床【仮】
富●●(編著)チ●●、オ●●、フ●●他著。

本書の編者である●●先生は、その研究の成果を次々と海外に発信しておられる、まさに国際派の精神分析家である。その先生が広い人脈を生かし、米国の著名な精神分析家たちと一緒に幅広いテーマに関する論考を集めたものが本書である。
常々思うことだが、精神分析の世界は、いつの時代にも二つの立場に分かれる傾向にある。患者の苦悩に向き合うのか、それとも患者の心の探究に向かうのか。前者においては患者は様々な挫折やトラウマを体験し、多かれ少なかれ苦しみを抱えて治療に訪れることを前提とする。治療者もそれに対して全人的なかかわりをおこなう。患者を苦しみから少しでも救い出すことは治療的なかかわりの大きな目標の一つと見なされるだろう。ところがそうすることはともすれば、心の探究者としての分析家にとっては本来的な分析の作業とはみなされない傾向にある。精神分析において患者の苦悩が癒されても、それは「歓迎すべき副産物」としてしか扱われかねない可能性があるのだ。
本書を執筆する●●氏、●●氏、●●氏はいずれも苦悩する人々に向き合う治療者として私の目には映る。ニューヨークにおける9.11事件により提起されたトラウマとテロリズムの問題、パラノイアと原理主義の問題、そして著者たちにとってなじみ深い米国とわが国との間に生じた忌まわしく悲しい過去の問題。さらにはそれらの考察から浮かび上がってきた重要なテーマとしての倫理性の問題。彼らはまた、苦悩する人間としての自らの体験を惜しげもなく自己開示している。
私は精神分析は心の探求をする営みであってよいと思う。そこでは転移、逆転移、伝統的な精神分析の枠組みが依然として重要な意味を持つ。ただ100年以上の歴史を持つ精神分析が人間の苦悩について論じ、それを軽減する方向性を模索することもまた重要な使命であるとも思う。そしてフロイトも最初はそれを「症状の軽減」という形で目指していたはずなのだ。
本書の著者たちが扱っているもうひとつの現代的なテーマは、現代の精神分析の世界の多様化であろう。その中でも人と人との対等な関わり合い、その際の倫理的な配慮といった観点は間違いなくその重要さを増している。しかし同時に過去の哲学的な資産を掘り起こし、精神分析理論をさらに豊かにするような作業をも含む。ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、ディルタイ、ビンスワンガー等の哲学的な業績を縦横に論じる●●氏、●●氏の章にそれは顕著に表れている。彼らは人と人とのかかわりを本格的に論じたのは決して精神分析が最初ではないという事を気づかせてくれる。精神分析的な思考の原点は何もフロイトだけではないという発想。これも本書を紐解くことで得られる貴重な教えである。

(中略)


本書を一読することで現代の精神分析が過去の知的遺産から人類の未来までをも見渡しているという事を実感していただきたい。


2019年4月17日水曜日

ある原稿 2


しかし私の中には米国で見てきた堂々とした心理士の姿がプロトタイプとしてある。心理テストのエキスパートとして威厳を保ち、いわゆる神経心理士 neuropsychologist は精神科医よりはるかに脳科学の知見に詳しかった。互いにリスペクトし、あるいはライバル関係にある医師と心理士の関係を日本で見ることは残念ながらあまり多いとは言えない。
ここで再び精神科医と心理士の協働ということを考えてみたい。それは患者を含めた「ウィンウィンウィン」の関係になれるのだろうか? 私はそれが可能と思うし、そのために心理士は心理療法の効果を今後さらに明らかにする必要があると思う。私自身がこれを望む個人的な事情を付け加えておきたい。私の外来の患者さんにとって、主たる治療手段は心理療法であることが多い。だから心理士との協働なしには私の外来は成立しない。そしてこれを実現するためには、医師の側の意識の改革とともに、大学院での心理士の教育に、医師との協働というテーマを盛り込むことも重要であると考える。心理士が精神科医にいかに働きかけるかが時には重要になるだろう。しかしそこには医療経済的な仕組みもまた重要になってくる。今のように精神科医が患者さんと5分会っても29(つまり30分未満)会っても同じ金額の通院精神療法の保険請求が出来るというのはおかしいではないか。そこには29分の面談をすることによるそれなりの報酬の底上げがなくてはならないし、それはスキルを伴った心理士() が「医師の指示」により行われた場合にも保険請求が出来るような仕組みがなくてはならないであろう。
最後に私にとっての理想の心理士さんについて考える。それは医師と二人三脚で患者のケアをできる方だ。多少の患者の感情表現には動じず、しっかり患者さんの話に耳を傾け、相手によって態度を変えることのない安定感を持った治療者。患者がいわば医師と心理師との両者に支えられることには大きな意味があるだろう。そこには医師と心理師が互いに不満や泣き言を言えるような関係である。ついでに医師の方の泣き言も聞いて欲しい・・・。しかしこのように考えていくと、これらを心理士に一方的に望むことは理にかなわないことがわかる。そのためには医師の方もそのような関係を持てるだけの力がなくてはならないだろう。それに心理士がその仕事を維持出来るような経済的な支えがなくてはならない。そのためには、心理療法が保険請求できなくてはならない・・・・。結局はかなり大きな変革が起きない限り、この医師と心理師の協働という理想は理想のままに留まるのだろうか・・・・。

2019年4月16日火曜日

ある原稿 1

どこかに頼まれて書いている原稿

外部から見える心理士の姿
もともと臨床心理学の世界には門外漢であった私が、心理の世界に飛び込んで数年になる。私は大学で心理学の講義を受けたことすらない。更に海外生活が長かったため、心理士の世界はおろか精神科医の世界でも交友関係が少ない。その私が互いに結束が強い(ように見える)心理のベテランの先生方の中にポツンと放り込まれた当座はなかなか内容についていけず、気がついたらじっと心理の先生方の観察をすることが多かった。
 私が安心したのは、心理の世界では(精神科医たちに比べてであるが)常識的で話がわかる先生方が多いということである。最初から人の心を扱うことを目的として学び、臨床経験を積んでこられた先生方であるから、それは当たり前のことかもしれない。そしてここでは精神科医と心理士の協働がしっかり行われているようだという印象も持つことが出来た。もともと心理士と精神科医との関係は単純ではない。心理士の先生方の一部にとって、精神科医は一種の仮想敵として扱われることもある。そして私はそのことについて精神科医としての立場からコメントすることもある。精神科医に対する疑いの一部については心理士の先生方の主張がもっともだが、時には精神科医を警戒し過ぎているようだ、とも伝える。たとえば公認心理師法についての議論が盛んなころ、心理師が医師の指示を受けるというのはいかがなものか、云々という問題がいろいろ議論されたという。でも多くの精神科医は心理士()に指示を出す余裕さえ持てていないのが現状だ。ただし心理面接の重要さを軽視ないし無視する精神科医の存在も十分認識しているつもりなので、心理士の警戒の念も理由のないことではないことはわかる。そしてその分心理の先生方は精神科医に自らの信じることをはっきり伝えてはどうかと思う。
精神科医の立場から同業者の様々な評判やうわさ話を聞くが、その中には芳しくないものも少なくない。その多くは「話を聞かない」「薬を出すだけ」という類のものであるが、私自身もそのような苦情を言われたことがある立場からは、それをもたらす医療経済的な事情も影響していることが理解される。精神科医が外来で一日に数十人をこなさざるを得ないという状況では「薬を出すだけ」という精神科医を生み出すこともやむを得ないかもしれない。しかし精神科医の中には、心理職と役割を分担したり、心理士を信頼して仕事を任せるといった発想を持たない方も少なくないのである。(つづく)

2019年4月15日月曜日

いい加減さ 1


いい加減さの重要性
いい加減さについて論じるためには、その対極について考える必要があります。いい加減でない、ということは曖昧でない、ということ、白か黒かにはっきりスプリットされていることです。いわゆるスプリッティングです。そしていい加減さの意義について考える際にその前提にあるのが、私たちが物事をスプリットしやすい性質でしょう。スプリッティングが実は生きていく上で欠かせないことは言うまでもないでしょう。私たちは生きていくためには常に good と bad を分けなくてはならない。冷蔵庫に入っている賞味期限が微妙に切れている食材は、使うか捨てるかしなくてはならないのです。さもないとどんどん冷蔵庫に貯まって行ってしまいます。あるいは社会で生きていく上では敵と見方を分けなくてはなりません。
私たちはおそらく社会生活の中で、この人は信用しよう、この人とは距離を置こう、この人とはもう別れよう、などとかなりあれかそれかの判断をしています。もちろん人間は信用できるか、出来ないかの二種に峻別することはできません。ところが日々の生活はそこにかなり明確な○か×かを付けて生きています。それがメリハリというものですし、その種の決断はその人が社会生活を送るうえでむしろ必要とされている能力でもあります。
あるいはもう少し別の例で言えば、言葉を話す行為もそうです。ある思考が浮かんできたとき、それを言い表せるような言葉は沢山あり、どれもあまり差はないでしょう。その中でこれ!と選ぶことで決断をしていくことでしゃべることができます。「それはいただけない」という少し曖昧さを含んだ表現が出てこずに「それはアウトだと思います」が口から出てきてしまうかもしれない。でも口ごもって時間が過ぎてしまえば、生放送では放送事故になってしまいます。そしていくつかの選択肢の中から白黒をつけて選ぶという作業は、実は「いい加減さ」と結びついているのです。お分かりでしょうか。どちらが正解かわからない選択肢のうち、どちらかを選ぶためには、実はいい加減さが必要なのです。「どっちだって変わんないジャン」という軽さやこだわりのなさは実はきわめて大切な能力なのです。そしてその結果として時々あまり適切ではなかったり、言い間違いの部類に属する言葉を選んでしまいます。これは一種のノイズということになります。
ここで皆さんはひとつお気づきでしょう。問題はいい加減さはその加減に重要性があるということです。適度にいい加減、いい加減にいい加減、ということが実は決め手になるのです。いい加減にいい加減、というのが実はもっとも適切ないい加減さ、なのです。

2019年4月14日日曜日

心因論 推敲の推敲 4


最後に転換性障害はどうであろうか? 結論から言えば、この種の疾患の存在を認めるかどうかについて、現在の米国の精神医学の見解はきわめて慎重になっている。既に述べたようにDSM-Iではこの障害に関しては、症状が当人の葛藤を象徴し、そこには疾病利得が見られるという二つの特徴が掲げられていた。これらはその後どのように変化したのであろうか。1980年のDSM-Ⅲ(1980)では、転換性障害について以下のように記載している。「身体的な障害に一見みえるが、心理的な葛藤やニードの表現のように思われ、疾病利得の存在が特徴である。」すなわちここではDSM-Iでの二条件が繰り返される。しかし1994年のDSM-IVを読むと、これがちょうど過渡期であるということがわかる。記載は長く、言い訳がましいが、要約すると、「本疾患においては疾病利得ということが言われてきているが、その言葉により患者がわざと症状を示していると判断することには慎重になるべきである」とある。そして最後に最新のDSM-5 の転換性障害の記載を見てみる。ここでは転換性障害という言葉は残しておくが、記述的により正確で、きわめて客観的な表現も提案している。それが機能性神経症状症 functional neurological symptom disorder であり、すなわち「神経症状を呈しているが機能的な障害である」ということになる。ここで機能的という表現は、「器質的でない」という言い換えである。コンピューターのたとえでは、ハードウェアではなくソフトの問題だと言っているわけである。さらには症状における葛藤の象徴性についても触れていない。というよりはそもそも心理的ストレスがあるかどうかを問題にしていないのだ。(実際にはストレス因を伴うか、否かという特定項目がある。)これはよく考えれば「心因性」の条件にさえ該当していないことになる。あえて言えば「内因性」の疾患にちかい。原因はわからず、器質因もなく、ただ症状があらわれる、という意味ではDSM-5の規定する(ストレス因のない)転換性障害は内因性うつ病とあまり代わらないことになる。
さらにDSM-5には転換性障害を含む身体症状症に関連して重要な記載が加えられている。それは「これまでの診断では、いわゆる身体表現性障害において、症状が医学的に説明できない点を過度に強調しすぎていた」(P.305)と言うものである。さらには「症状を医学的に症状が説明できるかどうか、というのはとても難しい議論なのである。」(同ページ)ともある。ここで興味深いのは、身体症状症はまず症状が出現し、それが医学的な根拠があるなしにかかわらず、特別な意味づけを伴って体験されるものとして特徴付けられていることだ。これはストレス因を前提とする「心因反応」とはむしろ逆の形の病態と言える。

結論)

以上をまとめてみよう。本稿では神経症圏の心因反応、すなわち「心因反応」のあり方について考察した。その際「心因反応」の定義としてはJaspersの三条件、すなわち因果関連、了解関連、原因の消失による改善を用いた。そして半世紀前にこの概念が頻用されていた際には、ストレス反応の二種(「成人の状況反応」、「著明なストレス反応」)がその典型と考えられた。神経症一般についてはそれが「心因反応」と呼べるかの判断は難しく、それは無意識的なプロセスも因果関連、了解関連に含むことができるかという判断によることになる。さらに第三の転換反応ないしヒステリーは、これも「心因反応」と理解するためには、その了解可能性が、疾病利得を得るための作為によるもの、として考えざるを得ないことになり、きわめて特殊な意味での「心因反応」であると述べた。
さて現代の精神医学における「心因反応」をDSM-5を参照して考察すると、「ストレス反応の二種」のうち「成人の状況反応」がおおむね適応障害に対応し、比較的定義に近い「心因反応」として残っていると言える。しかし「著名なストレス反応」についてはそれがPTSDASDとして概念化されなおした際に、「心因反応」としての性質は薄れ、むしろ内因性の疾患に近づいたと言える。そしてそれは現代の神経症圏の障害についてもいえる。さらに転換反応については転換性障害に概念化されなおした際に「心因反応」としての色彩をさらに失ってしまったと考えざるを得ない。結論から言えば従来の定義による「心因反応」の元に掲げられるべき精神障害はきわめて限られたものに縮小してしまったと言うことができよう。


2019年4月13日土曜日

心因論 推敲の推敲 3

現代において心因論はいかに変化を遂げたか?

以上に掲げた半世紀前の「心因反応」の三種類の病態について、現在ではどのように扱われているかを論じるのがこの章のテーマである。
まずストレス反応の二種は、DSM-5にカテゴライズされている「心的外傷およびストレス因関連障害群」に類似していることはすぐ見えて取れるであろう。それでは前者がそのまま後者に継承されたと考えていいのであろうか。この「心的外傷およびストレス因関連障害群」には適応障害などの比較的軽症なストレス反応と、PTSDASD(急性ストレス障害)などのより深刻なストレス反応が属する。このうち適応障害のほうを考えるならば、これが一番「心因反応」に近いことがわかる。この適応障害のDSM-5の定義は切り詰めるならば以下の通りとなる。
A.明らかなストレス因に反応して,3カ月以内に症状が出現する。
B.そのストレス因に不釣り合いな程度の苦痛や社会機能の障害が見られる。
ただしBに関しては、その程度が十分に深刻であれば、他の診断に移行することになる。そこで少なくともAについてはおおむねJaspersの「三原則」を満たすと見て差支えないだろう。
そこでPTSDASDDSM-Ⅰの「著名なストレス反応」に相当するといえるのだろうか? 実はそうとは言えない事情がある。そのためにはPTSD概念の歴史に遡らなくてはならない。PTSDの概念が精神医学において正式に認められ記載されるようになったのは1980年の米国のDSM-Ⅲと理解されている。それ以前は1900年代初頭の「シェルショック」や「戦争神経症」などの形で提案されていたが、十分認知されていなかった。半世紀前の「著名なストレス反応」はそれとは似て非なるものであったのだこれについては別書 (岡野, 2009) で既に詳しく論じているが、「著名なストレス反応」が「異常なストレスに対する正常の反応」と理解されていたのに対し、PTSDでは「正常範囲も含みうるストレスに対する正常とはいえない反応」と理解されるからである。ここで「心因反応」の定義を思い出そう。それは「正常な心がストレス因により正常の心理的な反応として呈した状態」であった。さらに言葉を継ぐならば、現代におけるPTSDの臨床研究においては、PTSDを生じやすい素因が考えられ、遺伝負因、先立つストレスの存在、身体疾患、薬物依存歴などが様々が見いだされている。いわば脆弱性を持った個人が罹患しやすいことが知られている。さらにはPTSDにおいて生じている神経生理学的、内分泌学的な変化も様々に論じられている。その意味ではPTSDはより内因性疾患の様相を呈しているとも言えるのである。
次に神経症についてである。米国での精神分析全盛期は1970年代には去り、DSMに与える影響も極めて限定的になっている。しかしそれにより神経症を「心因反応」として理解する傾向が強まったかといえばそうとも言えない。様々な医療機器の発展や疫学的な調査が進み、神経症の病態はかなり可視化されるようになってきている。例えばパニック障害における内分泌系、神経伝達物質の異常、自律神経系の異常等の研究は数多く発表されている。また強迫神経症に関しても、眼窩前頭前皮質と尾状核の過剰な結びつき(”brain lock”(Schwartz, 2016 ) が唱えられている。その意味で神経症もまた内因性疾患としての理解に重きが置かれるようになってきている。


2019年4月12日金曜日

心因論 推敲の推敲 2


20世紀半ばまでの「心因反応」

以下は筆者にとって比較的なじみ深い米国の精神医学の歴史に限定して論じることをお許しいただきたい。前世紀半ばまでは、米国では上述の意味での「心因反応」の概念は、ほぼそのままの形で精神医学の臨床の場において存在していた信じる根拠がある。現在私たちが用いているDSM-52013)の初版は、60年以上前に発行されたDSM-I (1952(実際には「DSM」であるが、それに続くⅡ,Ⅲ・・・と区別する意味でこのように表記する)にさかのぼるが、そこに「心因反応」に該当するものとして記載されていたものは、まず二つがあげられる。それは「成人の状況反応 Adult situational reaction」と「著明なストレス反応gross stress reaction」である。このうち前者は「健康な人が難しい状況で表面的な不適応を起こしたものであり、これが治癒しない場合には精神神経症的な反応に移行する。」と記載されている。つまりこの反応は正常な人の反応であり、その症状も「表面的な不適応」と断ってある点が、まさしく「心因反応」そのものを表したものと言っていいだろう。また後者の「著明なストレス反応」は前者よりも深刻な症状を表すものとして定義されている。すなわち「異常なストレスを被ると、圧倒的な恐れに対して正常な人格は確立された反応のパターンを用いることで対処する。それらは病歴や反応からの回復の可能性や、その一時的な性質に関して神経症や精神病とは異なる。すぐに十分に治療されることですみやかに状態は回復するだろう。この診断は基本的に正常な人々が極度の情緒的ストレス、たとえば戦闘体験や災害(火事、地震、爆発など)を体験した場合に下される。」と記載されているのだ(下線は岡野)。この「著明なストレス反応」は「成人の状況反応」よりも更に深刻な状態と考えられるが、これも定義を見る限りは「心因反応」として理解することができるだろう。(ちなみにこの「著名なストレス反応」はその後のDSM-Ⅲ以降における「急性ストレス障害 ASD」や「心的外傷後ストレス障害 PTSD」に近縁なものと見なされる可能性があるが、両者は微妙に異なるという点については後に述べる。)
ところでこの時代の「心因反応」に該当する可能性のあるものは、これらに留まらない。なぜならDSM-I はそこに掲げられた疾患群の全体が「~反応」と表現されていたのであり、うつ病も「欝反応 depressive reaction」であり、統合失調症でさえ「schizophrenic reaction 統合失調反応」と表現されていたからだ。すなわち明確な器質的な疾患を除いては、あらゆる精神疾患が社会的な環境に対する反応として生じたと考えられていたのであり、その意味ではことごとく心因反応としての色彩を持っていたことになる。
ここで米国の精神医学はその全体が、少なくとも前世紀の半ば過ぎまでは精神分析理論に色濃く影響を受けていたことを理解しなくてはならない。S.Freud は従来のヒステリーの概念をまとめる上で、そこに強迫神経症や不安神経症など、現在私たちが神経症としてカテゴライズするような病態を網羅した。彼は「現実神経症」として神経衰弱と不安神経症を挙げ、実際の性生活に障害があるものとしてた。前者は過度の性衝動の消粍に基づくものであり、後者はその過度の蓄積によるものと考えたのである。また精神神経症に関しては幼少時の性欲動の抑圧により生じるものとしてヒステリー、強迫神経症、恐怖症と自己愛神経症(精神病)を掲げた。そこで神経症レベルの心因反応として上で定義した「心因反応」には、神経症の全体が含まれておかしくないことになる。
しかしここでひとつの問題がある。それは精神分析的な疾病理解がどこまで「了解可能」なのかという本質的な問題である。たとえばFreudは強迫神経症について、肛門期の固着点へのリビドーの退行が起こっていると説明する(Freud, 1909)。強迫的な性格と性器愛の断念とが結びついて、異性との愛情関係で満足が得られなくなると、物質的利益や物そのものに非常に執念深くなったり、他人に対しての思いやりに欠ける冷たい面が現れてきたりするのである。しかしリビドーという概念は物質的、生理学的な意味合いを持ち、また直接感じ取ることが定義上難しい無意識内用の存在が前提とされるため、これらを用いた説明を「原因との関連で了解可能」と考えることが出来るかは議論が多いだろう。意識化できないことは了解もできないであろうはずだからだ。このように前世紀半ばの神経症概念を「心因反応」として理解することには多少なりとも問題が存在することが理解できるだろう。
さらにこの1952年のDSMには、これまで掲げたものとは別の性質を有する「心因反応」の候補が存在する。それは「転換反応 conversion disorder」である。同障害に関する記載を示そう。
不安を呼び起こすような衝動は、(漠然と、あるいは恐怖症のように置き換えられる形で)意識的に体験されるのではなく、通常は意図的にコントロールできるような臓器や体の一部において、機能的な症状に「転換convert」されて現れる。症状は意識的に(感じられる)不安を軽減する役目を果たし、通常は背景にある心的な葛藤にとっての象徴となっている。それらの反応は通常は患者の当座のニードを満たし、すなわち多少なりとも明白な「二次利得」に関連していることになる。それは通常は精神生理学的な自律神経障害と内臓的 visceral 障害とは区別される。「転換反応」という用語は、従来の転換性ヒステリーと同義語である。
この「転換反応」ほど症状の成因についてくだくだしく説明が加えられている障害はない。たとえば強迫性反応(強迫神経症)に関して、その症状が二次利得を満たすか否か、症状が象徴的か否かとかいう説明はない。「解離性反応」でさえこのような但し書きは伴っていないのだ。という事はこの転換反応はやはり特別な意味付けを与えられていることになる。つまりその症状はあたかも患者が意図的にその症状を作り出しているかのような印象を与えるという事をことさらに記載しているのである。歴史的にはまさに「ヒステリー」という概念がこのような性質を担っていた。そして実際にこの転換反応が、従来の転換性ヒステリーと同義語である、という断り書きがなされているのである。
ここでひとつの疑問が生じる。この転換反応は、Jaspers の言う意味での心因反応と言えるのだろうか? 因果関連、了解関連、原因の消失による改善、という三条件のうち、まず1.の原因を考えよう。それがこの転換反応では不明と言わざるを得ない。あえて言うならば、疾病利得を生じさせるような事態、つまり「疾病を得ることで回避できたり獲得できたりすることがらの存在」が「原因」と考えられることになるが、これが通常の心因反応に典型的な形で見られるストレス因とはかなり異質なものであることがわかる。2.の了解可能性についてはさらに難しいことになる。転換症状は現代では「機能性神経症状障害」(DSM-5)と言い表されているように、失声、失立、麻痺、といったあたかも身体疾患の存在を疑わせるような症状が主たるものとなるが、器質的な疾患が見られないという不思議な事態である。その意味でその症状の出現は「了解可能」とはすんなり認められないことが多いからである。さらに3.も、1の原因が不明確である以上は曖昧になる。
以上をまとめるならば、前世紀半ばにおける米国の「心因反応」としては三種が挙げられることになる。第一は「心因反応」の定義に概ね合致するストレス反応の二種(「成人の状況反応」、「著明なストレス反応」)である。第二は神経症一般であるが、それが「心因反応」と呼べるかの判断は難しく、それは無意識的なプロセスも因果関連、了解関連に含むことができるかという判断によることになる。さらに第三の転換反応ないしヒステリーは、いわば別格であり、それは症状の現れ方の面で捉えどころがなく、その意味でそれが了解可能であるためには、それが疾病利得を得るための作為によるもの、つまり一種の虚偽性障害や、場合によっては一種の詐病として理解されなくてはならない。ヒステリーが「心因性」となるためには詐病である必要があったというのは悲しい現実と言えるだろう。

2019年4月11日木曜日

心因論 推敲の推敲 1


未だこの論文をぐずぐず続けている。調べ始めると奥が深いのだ。

●心因論の変遷と神経症概念

いわゆる神経症における心因論の持つ意味について、現代的な立場から論じるのがこの小論の目的である。「心因」という用語は、「心因性の疾患」や「心因反応(体験反応)」などの表現で従来精神医学において用いられてきた。1980年代、筆者が新人の精神科医の頃は、「心因」という用語は精神医学の教科書にも掲載され、特にドイツ精神医学で育った諸先輩たちには馴染み深い概念として用いられていたという印象がある。しかし最近のDSMICD世代の精神科医のあいだでこの用語が用いられることはかなり少なくなってきているようだ。
心因反応というと、文字通りある出来事に対する心の反応であり、その中でも比較的軽症の症状を思い浮かべがちである。しかしかつては「自律神経失調症」と同様に、精神分裂病(現「統合失調症」)の符牒として用いることもあったとされ(池上, 2009)、本概念について論じる際にはさまざまな歴史的経緯を考慮する必要がありそうである。「心因」の概念の端緒は、ドイツの精神科医R.Sommer が用いた‘Psychogenie’(Sommer, 1889)とされるが、彼はそれを「観念により起こり、観念により影響される病態」と定義した(田代, 1997)。しかしそれは精神病圏に及ぶ範囲の症状を想定していたのである。その後 K. Jaspers1913)はこの概念について因果関連、了解関連、原因の消失による改善、の三条件による常識的な理解の仕方を示した。すなわち1.原因となる体験がなかったら、その反応体験は起きなかったであろう。2.その状態の内容、主題は、原因との関連で了解可能である。3.原因が去ればその状態も改善する、という条件である。
さらにK. Schneider (1950,1957) はこの概念を内的葛藤反応と外的体験反応の二つに分けた。前者は不安や不眠が中心の神経症レベルのものであり、後者は反応性うつ病、反応性躁病、反応性錯乱、急性妄想反応など、幻覚や妄想といった現実検討能力の著しい障害を伴う精神病レベルのものとし、後者を狭義の心因反応とした。
こうして心因反応として、理解可能な反応でありながら精神病水準のものまで含むという、ある意味では錯綜した概念が成立したわけだが、それは現在の精神医学にどう反映されているのだろうか。DSM-IV-TR2000)にもSM-52013)にも、あるいはICD-101990)やICD-11 (2018) にも心因反応という診断名は見られないのが現状である。おそらく従来そう呼ばれていたものが様々に形を変えて別の診断基準の中に吸収されていったものと考えられるが、それが現在の精神医学における心因反応の概念の理解をどのように反映しているのかを探るのが本稿の目的である。
本稿では神経症レベルの心因反応、すなわち Schneider のいう「内的葛藤反応」に準ずるものとして、そこに精神病レベルのものを除いたものとして論じることにする。そしてこの意味での心因反応を「心因反応」とカッコつきで表記することにする。その判断の基準としては、上述の Jaspers の三条件を満たすものと定義しておく。
この「心因反応」の概念を分かりやすく言い換えるならば、それはある種の正常な体験、つまり正常な心がストレス因により正常の心理的な反応として呈した状態と表現できるだろう。すなわち患者が示したそのような反応を、健常者である私たちが仮想的に体験できるのであり、それが「了解可能」という意味に込められているのだ。ただし一点だけこの概念の問題を挙げるならば、それは「正常の心理的な反応」と規定することそのものにあるだろう。なぜなら私たちは「心因反応」を依然として疾病ないしは障害として扱うからである。そうである以上は、これをただの「正常な反応」とすることには矛盾が生じる。つまり「心因反応」は「正常の心理的な反応でありながら、その表れは障害と呼びうるほどに深刻である」という矛盾を抱えた概念にならざるを得ない。その意味では心因反応の概念はそもそもその範囲に精神病性のものも含めたSommer の定義からしてすでに矛盾を抱えていたということが出来るであろう。
さてこの「心因反応」の概念は、ここ半世紀で大きく形を変えようとしており、それがこの用語が用いられることが少なくなっている原因でもあると考える。そこで精神医学の歴史をたどってこの概念の変化が何を意味するのかを追ってみたい。

Schneider, K (1962) Klinische Psychopathologie Sechste, verbesserte auflage Georg Thieme Verlag. Stuttgart クルト・シュナイダー (), 臨床精神病理学 増補第6, 平井静也鹿子木敏範訳, 1977
池上秀明(2009)巻頭言:病名「心因反応」をめぐって 精神神経学雑誌 111, p.1321.
田代信雄(1997)神経症性障害の成因P14~34 臨床精神医学講座5 神経症性障害・ストレス関連障害 田代、越野編 中山書店)


2019年4月10日水曜日

解離の心理療法 推敲 54


S先生:以前大学で、ある本をパラパラめくっていたら、僕の書いた「解離の構造」についてある先生がコメントを書いて、そのコメントで、「SM先生は統合を目指さない、とかっこつけて言ってるけれど、統合を目指ささないなんてとんでもない」っていうふうに、無茶苦茶叩かれてたことがあって(笑い)びっくりしたんだけど。要するに、ある意味では統合というのは、幻想としてつき走って行って、ある地点までいっちゃうというイメージもあるんだろうな、と思います。ということで、僕はもちろん統合全部を否定するわけではないけれど、ある書物なんかはもうほんとに一緒に融合させて一個にするんだという、まぁ西洋的な考えでしょうけれど、日本人にとっての解離っていうのは、どういう風に展開し、どういう方向へ向かって行くのが自然なのか、ということを考えながら臨床をする必要があるんじゃないかと思います。西洋風の合わないことをあんまりやるなというふうに思ったりもしないでもない、ということですね。愚痴みたいになっちゃったのですが(笑)。
フロアー3:私はクリニックの開業医ですが、私も統合はあまり考えたことないんです。そういう意味では先生方のお考えと似てるんだな、と思います。私たちは昔からずっとメーリングリスト等でやってたから思うのかもしれないのですが、私たちにもmultiplicityっていうか多重性っていうか、それをさっきは多面性とどなたかおっしゃったと思いますが、いまこうやって喋ってる私と、家にいる私、あるいは診察してる私、あるいは教壇に立ってる私、というのは、みんな違うわけですよね。でもそのことは意識して、コントロールしているわけです。ところが解離はそのコントロールを失った状態だと思っています。そしてそれを統合するかどうか、ということなんだろうと思います。私は交代人格の扱い方については、まず彼らが出てこられるということが、そこでの安心安全が確保され、安心感を持たれているからだと思うのですが、その時になぜこの人がこういうかたちで現れているのか、ということについての、まるで何か推理小説を読むようなストーリーというのを自分なりに、あるいは一緒に考えて話をしていくと、その人がその状態、その時代に受けておられない、あるいはその時代に満たされなかったものというのが明らかになり、治療者との関係や、ほかの人との関係のあり方のなかで、満たされていくものがあるように思うのです。それが満たされるようになってくると、子ども人格が大きくなるし、ある種、理想となっているようなかたちで大人になってきますと、自分らしく落ち着いてくるというか、そのようなかたちで年齢層がだいたい交代人格の方たちが同じになってくるのだと思います。私自身は「寝る」という感覚はあまりわからなくて、どちらかというとバリアが消えていって、それぞれの交代人格というのは、ジグソーパズルのピースであって、そのピースの溝みたいなものがなくなっていく、融けていく、というみたいなかたちのことが最終的な到達点じゃないかなと思っています。そしてそこからのことが、そういうかたちで生きていくということが、その人にとっての必要な本当の治療じゃないかなと思います。だから統合したとしても、そのまとまった感じになる、あるいは解離という機制を使わなくなった、その時点から、解離を使わなくて生きていくという風に考えています。先ほどはその以前出来ていたことが出来なくなってしまう、ということがあるっていうお話しもあったのですが、その状況でなるべく解離を使わないで生きていくということについて一緒に考えていこうっていうのが治療じゃないかなと思っています。
S先生:ありがとうございます。僕の患者さんは、解離が良くなったために芸術的才能がなくなったと嘆いてました。これは発達障害とかLGBTにも言えると思うのですが、ズレというか場所がないということが創造性につながるだろうと思います。あるいはパフォーマンスとか劇団にしても、いろんな障害者が出てきてcreativityを発すると思うんですけど、治療においては統合は置いておいて創造性を求めようという考え方もあるとは思っています。

O先生:このテーマについてなのですが、まず多重性の対になる概念として、私はずっと多面性ということを考えています。多面性は英語ではMultifacetedness、つまり割面 facetがたくさんある、つまり多面体を考えているのですが、私たちは普通多面的であって多重的ではないわけです。だからSK先生がこうやってお話をしている時に、携帯が鳴って先生のお子さんが、「今日の晩ごはんはどうしたらいいの?」と聞いていらしたら、「ちょっと待ってね、あとで連絡するから」とおっしゃるでしょうし、その時の先生は、途端にお母さんになれるわけです。この切り替えが瞬時に混乱なく出来るのが、多面的な心だと思うし、我々は普通そうなっていると思うんですよね。それが多重と多面の違いだと思います。存在者としての私とまなざす私というSM先生の分け方も、実はこの二つは常に存在していて高速に入れ替わることが出来るのですが、それがどちらかに固まってしまうような状態もあり、それが解離している状態と考えることが出来ると思います。そうだとしたら、そういうたくさんの面が、同時に存在できるような脳の機能を我々は備えていて、だから普通に生活が出来ているのだろう、と考えています。ところでもう一つ簡単にお話したいことがあります。私は多重人格の統合ということでいつも考えるのが、ヘンゼル姉妹のことです。ヘンゼル姉妹は日本ではあまり知られていませんが、アメリカにいるシャム双生児の、つまり二つの頭を持つ、ブリタニーとアビゲイルという姉妹です。小さい頃からずっとメディアに出てフォローされてるのですが、この二人がどうやって生きていくかというのは、すごく悩ましい問題です。私の患者さんに二つの人格が入れ替わりに出ていてお互いを眺めている患者さんがいらっしゃいますが、一人はある男性を、もう一人は別の男性を好きになって、どっちと一緒になったらいいのか、というのがわからないという状態なのです。その患者さんの将来を考える時に、やはりこのシャム双生児のモデルを考えてしまいます。この二人がともにハッピーになることは、なかなか難しいかもしれないけれども、どこかで二人が交渉をして、最終的にどうするかを二人で決めていかなくちゃいけないでしょう。そういう場を与えるのが、我々の治療かな、というふうにちょっと思ってこんなことを言いました。
フロアー4:開業している精神科医です。今日はありがとうございました。私自身が考えていることは神田橋先生が「心は複雑に、行動はシンプルに」とおっしゃっていることと同じで、心の中というのは基本的にごちゃごちゃしていて全然構わないと考えています。逆に心を一つにまとめようとすると、むしろ行動の方がぐちゃぐちゃしてきちゃうような気がします。それとは別に私がいつも考えていることは、どの精神科の疾患に関しても、マラソンレースで例えば100メートルダッシュみたいに最初に一気に走ってしまって、バタッと倒れてしまうような走り方しかできない人がいるということです。するとバタッと倒れてしまうのは頑張りたい自分に対して休みたい自分がすでに限界に達してしまうということですね。すると治療として先ほどSK先生がおっしゃっていたような、頑張りたい自分と休みたい自分というのが融合したとしたら、半分のペースでしか走れなくなってしまうということは起きると思います。でも状況によってペース配分を行い、ちょっと早めに走ろうとか、ちょっと疲れたから休もうとかっていう自由なペース配分が出来るようになるかもしれませんね。そういった行動のバリエーションが増えていくようなかたちの関わりというのが出来れば、それが統合なのかな、と思います。私はそのような単純なモデルを考えていて、それは走ることでもあるし、うつの治療でもあるし、統合失調症の方のそういった幻聴との関わりでもあるし、そんなことをちょっとお伝えしようと思いました。

SK先生:いまのお話、すごく共感できます。私は何よりもまず一番大事なことは、ここにいらっしゃる方はたぶん多重人格ではない、ということだと思います。私がいったん多重人格の方たちの臨床から外れたのは、いわゆる虚偽性経路により、つまり人格を偽っていた人たちとの関わりの中で、そのコミュニティを追われた、出入り禁止にされた、ということがあったのです。だからそういう状況とは違ってここに集まっておられる皆さんは仲間だと私は思っているので、ほんとにそれだけでまず素晴らしいということを一つ申し上げたいと思います。それと先ほどの多面的、多重的という話で、ほんとにそうだなぁって思ったんですけれども、じゃぁそのいわゆるその離散型行動状態パターンによる統合っていうのが起きにくい人たち、起きてない人たちがどのような状態にあるかということです。私は施設の子ども達をたくさん見てて、さっきあのSee Far CBTってやったじゃないですか、私たちはたぶんあれを見るとストーリーが見えるんですね。だけど、どんなに並べても彼女たちはそこにストーリーを見出すことが出来なくて、カードがバラバラに見えるんですね。そういう体験ってみなさんしたことがありますかっていうのが、その多重性の世界。でそれで彼女たちが例えばその、どういうふうに体験をしているかというと、やはりバラバラな体験をしているところはあると思うんです。バラバラな視点を持ってて、それこそピカソみたいにあっちから見た絵と、こっちから見た絵とが一緒になったのが彼女たちの世界、彼ら彼女たちの世界なんですよ。それを理解した上で私たちがそういう人たちをどのように支えていくかということなんです。
S先生:はい、ありがとうございました。もう時間になりましたのでまたみなさんぜひ来年も臨床をいろいろ考えながらご参加していただければと思います。本日はみなさんどうもありがとうございました。