2019年2月28日木曜日

CPTSD原稿の仕上げ 1

先日ある会合で、原田クリニックの原田誠一先生から、原稿の進捗状況を聞かれてしまった。もう仕上げにかからなくてはならない。結構真面目に書いた論文だ。原田先生は研修医時代の仲間だが、お互い年を取ったものである。


CPTSDについて考える

1.CPTSDの障害概念
Complex PTSDの概念は Judith Herman により提唱された。彼女は1992年の著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「心的外傷と回復」)で、「長期にわたり繰り返されるトラウマにより生じる症候群にはそれ自身の診断名が必要である。 私はそれをcomplex PTSDと呼ぶことを提案したい。」と記している。この”complex” を「複合的」と訳すか「複雑性」とするかは議論の余地があるため、本稿では「CPTSD」として論じたい。
このCPTSDの概念をいかに臨床に応用するかについては、これまでに様々に議論されてきた。Hermanの盟友でもあるBessel Van der Kolk DESNOSDisorder of extreme stress, not otherwise specified、他に分類されない極度のストレス障害)を提唱していたが、その趣旨はCPTSDに非常に近いものと考えられる。DSM-IVにおいてはこのDESNOSが新たな診断基準として導入されることが真剣に検討されたというが (van der Kolk, et al, 2005)、結局は2013年のDSM-5にも採用されなかった。しかし2018年に発表されたICD-11では一転してCPTSDとして掲載されることとなった。このようにICDDSMCPTSDの扱いに明確な差が表れることとなった。
ちなみにDSM-5においてDESNOSの概念が採用されなかった理由としては、それがPTSDとかなり症状が重複していて、またPTSD以外にも境界性パーソナリティ障害、大うつ病とも重複しているから、改めて疾病概念として抽出する必要はなかったとされる(Resick, 2012)DSM-5PTSDの診断基準は、DSM-IVのそれに比べてかなり加筆されているため、それ自身がCPTSDの症状の一部をカバーしている可能性がある。DSM-5PTSDの診断基準では新たにD基準(認知と気分のネガティブな変化)が加わったが、それは具体的には以下のとおりである。
D. 心的外傷的出来事に関連した認知と気分の陰性の変化。心的外傷的出来事の後に発現または悪化し、以下のいずれか2(またはそれ以上)で示される。
(1) 心的外傷的出来事の重要な側面の想起不能(通常は解離性健忘によるものであり、頭部外傷やアルコール、または薬物など他の要因によるものではない)
(2) 自分自身や他者,世界に対する持続的で過剰に否定的な信念や予想。(:「私が悪い」、誰も信用できない」、「世界は徹底的に危険だ」、「私の全神経系は永久に破壊された」)
(3) 自分自身や他者への非難につながる,心的外傷的出来事の原因や結果についての持続的でゆがんだ認識。
(4) 持続的な陰性の感情状態 (恐怖、戦慄、怒り、罪悪感、または恥)
(5) 重要な活動への関心または参加の著しい減退。
(6) 他者から孤立している、または疎遠になっている感覚。
(7) 陽性の情動を体験することが持続的にできないこと(:幸福や満足、愛情を感じることができないこと)(日本精神神経学会)
 更にDSM-5PTSDにはいわゆる「解離タイプ」とも言うべき状態が新たに記載されている。すなわち離人感や現実感消失体験を伴うものは、「解離症状を伴うもの」と特定されることとなった。このようにDSM-5ではPTSDの基準自体を重たくし、さらに解離タイプを加えたことで、事実上CPTSDの病理を取り込んだ形になっていたのである。しかしDSM-5の発表後も進められた臨床研究の結果として作成されたICDCPTSDはこの病態の認知と治療論の進化にとって極めて有用なものとなったと考えられる。
ここでWHOICD-11に関する公式ホームページの記載をもとに、CPTSDの診断基準について検討してみる(https://icd.who.int/)。それによれば、CPTSD定義としては「逃れることが難しかったり不可能だったりするような、長く反復的な出来事(たとえば拷問、隷属、集団抹殺 genocide campaigns、長期にわたる家庭内の暴力、幼児期の繰り返される性的身体的虐待)への暴露により生じる」とされる。そしてそれによりある時点でPTSDのすべての症状が見られ、またそれに加えて以下の症状を備えている必要がある。
1) 感情調節に関する深刻で広範な障害。severe and pervasive problems in affect regulation;
2) 
自分自身が卑小で負け犬で無価値であるという持続的な信念に、トラウマ的な出来事に関連した深刻で広範な恥や罪や失敗の感覚が伴う。persistent beliefs about oneself as diminished, defeated or worthless, accompanied by deep and pervasive feelings of shame, guilt or failure related to the traumatic event
3) 
他者と関係性を維持し親しみを感じることの持続的な困難さ。 persistent difficulties in sustaining relationships and in feeling close to othersWHO).
ここで注意を惹くのはCPTSDの原因としては、ICDの記載によれば拷問、奴隷、集団抹殺」といった成人以降にも生じうる、ホロコーストでの体験を髣髴させるような災害やトラウマがまず挙げられており、小児期のトラウマはその次に登場している点であろう。つまり CPTSD は成人のトラウマによっても生じることを前提としているのだ。さらにCPTSDの関連論文には以下の記載がある。
CPTSDPTSDDSOdisturbances in self-organization 自己組織化の障害)との二つのコンポーネントからなる。そしてこのDSOは上に帰した1)~3)の部分が相当するが、それらはより簡略化して、以下のように表現される。
AD: affective dysregulation 感情の調整不全 
NSC: negative self-concept 否定的な自己概念
DR disturbances in relationships 関係性の障害
つまりDSOとはトラウマによりその人の感情や関係性や自己概念が長期にわたって障害されているのであり、それは Herman が最初にCPTSDについて記載した際に提言したことでもある。
ちなみにCPTSDについての検討は特にDSM-5の発刊された2013年以降に欧州で進んでいるようである。そして2017年には国際トラウマ質問票International Trauma Questionnaire (ITQ)も発表された。それに従えば、CPTSDに関連する23項目のうち7つがPTSD3つの症状について、16個がDSO3つの症状について問うていることになる。まずPTSD3症状については、
RE: re-experiencing 再体験
AV: avoidance of traumatic reminders 回避
TH: persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance 過覚醒
DSO3症状は以下のとおりである。
AD: affective dysregulation 情動の調整不全 
NSC: negative self-concept 否定的な自己概念
DR disturbances in relationships 関係性の障害

以上を式として表現するならば、
CPTSD = PTSD RE+AV+TH + DSOAD+NSC+DR
となる。
なお最近は疾病概念が正当な構成概念なのかがより厳密に問われる研究がなされているが、その中にはCPTSDの患者と、深刻なPTSDではあるもののCPTSDとは分類されない人が明確に分けられるといった研究もあり(Brewin et al, 2017)、それらを踏まえてCPTSDが正式にICD-11に採用となったのである。

2019年2月27日水曜日

解離の心理療法 推敲 22


2. 原家族によるトラウマの理解

解離性障害が生まれる家庭背景としては、厳しいしつけや虐待が考えられる傾向があります。解説書によっては、解離性障害の原因としてほとんど幼少時の虐待が原因であると言い切ってしまっている場合もあります。上の「1.はじめに」でも、確かにそのような例を出しました。ただしこのような理解には注意が必要です。極端な話、幼少時のトラウマが家庭外(たとえば預けられた親戚の家、学校でのクラブ活動など)で起きていて、当人はそれを両親を含めた誰にも話せない状況が続いていた可能性もあります。ただし一つ言えるのは、幼少時に圧倒的に長い時間を過ごしたはずの家庭で、ある種のトラウマ的な体験について話したり、理解してもらえなかったりしたという状況が長期間続いていたであろうということです。そしてそこには長期間の家族の実質的な不在(親の精神的な病、仕事により家を空けることが多い、など)も含まれます。ただしおそらく一番大きな要因は、子供が恐怖や不安、不快を体験しつつ、それを表現することを両親から直接的、間接的に止められていたという事情でしょう。子供はあることを話したり、伝えたりすることで親を悲しませたり、憤らせたりするという事情をきわめて敏感に察知するものです。そして時には親が気付かぬうちにそれに従い、心の一部を押し隠します。これは多くの子供がその成育過程で行っていることですが、生まれつき解離傾向が強い子供はそのような時に心の中に別の中心が出来上がり、その部分が交代人格となり、主たる人格が表現できない感情を担うようになるのです。
この様なプロセスは親の側からはどのように見えるのでしょうか? 場合によっては子供はごく自然に自分の意向や躾の方針に従って育っているのだと信じ込んでいる可能性があります。人間はとかく自分を正当化しがちです。昨今報道される虐待の事例からもうかがえますが、親の多くは子供に対する躾のつもりで体罰や精神的な圧迫を与えるのです。子供が自己主張をしなくなることが、自分の教育方針が間違っていないのだという確信を強めるとしたら、これほど不幸なことはありませんが、実はこれは解離性障害や支配―被支配の関係性が成立し、発展する一つの典型的なパターンなのです。

2019年2月26日火曜日

解離の心理療法 推敲 21

第5章 家族への対応と連携
1.はじめに

 第1章でも述べたように、DIDの患者さんの症状に気づいた家族が動くことで治療が始まる場合が少なくありません。交代人格の行動により患者さんの生活には多様な問題が生まれますが、それにより家族の日常も大きな影響を受けることがあります。ただし家族の中には、人格交代の現場に居合わせても、それを見過ごしたり、それが演技であるのではないかという疑いを抱いたりすることも少なくありません。
 患者さんの身近に暮らす家族が解離の症状を見過ごすのにはいくつかの理由があります。一つには交代人格がそもそもその家庭環境の中で生まれたという事情があります。たとえば父親との虐待的な関係で解離が生じた場合、父親の前では決して出ることのない交代人格と、父親の前でこれまでと同様に姿を現す主人格に分かれることになります。(ただしここに書いた交代人格、主人格が入れ替わったような状況もあります。)そして父親の前では出ることのない交代人格は、その虐待を理解してもらえない、あるいは見て見ぬふりをする母親の前でも姿を見せることができずに潜伏することになります。こうしてその患者さんの家庭は、一定の感情や振る舞いしか許されないような、強固な枠組みが出来てしまい、その中で交代人格たちは外へ出ることを許されずにいる状態といえるでしょう。そして時々別人格が漏れ出し、姿を垣間見させるとしても、その両親により即座に否認され、否定される運命にあるでしょう。
 さらに両親にとって自分の子供にもう一つの人格があると言う事実は、多くの場合まったく受け入れられない考えであるという事情も考えなくてはなりません。一人の人に複数の人格が存在するということは、通常私たちが持つ常識をはるかに超えています。そのような現象が起きうることを、DIDの臨床に携わっている人々は受け入れていますが、一般の人々にとってはまだまだ想像できないのが普通です。ましてや患者さんの家族の場合には、それを受け入れることはさらに難しくなる可能性があります。DIDという病気の存在を一般的な知識としては知っていても、まさか自分の子供にそれが生じていると認めることは難しいということは容易におきます。
 DIDの患者さん自身も、治療が進み交代人格の存在が確認されてからも、「自分の思い込みではないか」「自分は回りの人を騙しているのではないか」と考え、しばしば病識そのものが揺れ動くことがあります。「自分は病気ではないのでは」と思い込み、治療の必要性を見失うこともあります。自分自身を信じきれず、自己喪失に陥りやすいのが解離性障害の特徴ともいえます。自らの実感への信頼が乏しく、対人不信のみならず自己不信ともいえる状態にあるのです。したがって患者さんの身近にいる家族や支援者に対しては、心理教育的な関わりを通してDIDという障害への受け入れを進め、トラウマへの理解をもってもらい、症状の悪化をできる限り防ぐような協力体制を作り出すことが求められます。ただしご両親自身が虐待に関与している場合には、これは非常に難しい作業と言えます。

2019年2月25日月曜日

解離の心理療法 推敲 20


子ども人格をもつカリンさん(40代女性、会社員)

(中略)


このカリンさんの例では治療者が子ども人格の気持ちをなだめる行動に出たことが、結果的に人格の情緒的解放を促進し、進展のきっかけをもたらしました。しかしそこには一時的な治療構造の揺さぶりや破綻が生じたことも注意すべきでしょう。つまり治療構造が厳密に持されることと治療が進展することは、お互いに両立しないこともあるのです。そしてこのことは、治療構造を守るということが独り歩きして、あたかも一つの治療目標のように扱われてしまうことの危険も教えてくれています。構造を安定させることは非常に大切ですが、それをかたくなに守ることとは違います。柔構造による建築物のように、変化を受け止めて、「しなる」ことで、いわば動的な安定性を発揮することが重要です。たとえば10分遅れてきた患者さんに、5分の延長を提供すという努力もそうです。患者さんの心の不安定さにもかかわらず、いつもと同じに近い体験が出来た、と患者さんが思えることが大切なのです。ただし10分遅れた分を治療者の側が取り戻そうとしたことで、当然治療者にもストレスが加わります。それを治療者の側がことさら患者さんに隠す必要はありません。いわば患者さんの側が失ったコントロールを、治療者が一緒に受け止め、できるだけリカバーをする、という共同作業の体験に意味があると考えてください。

2019年2月24日日曜日

心因論 推敲 3


さて3番目に挙げた疾病利得にまつわる症状群については、より注意深い議論が必要となるだろう。この意味の「心因性」には「症状を意図的に作り出している」というニュアンスがある。そしてそれは2.適応障害とは異なるようでいて、実は踵を接している。2.の例として「仕事のストレスからAさんは抑うつ的になった」という状況を、そして3の例として「Aさんは仕事のストレスから逃れるためには抑うつ的になるしかなかった」という状況を考えてみよう。あるいはその中間のニュアンスを持つ「Aさんは抑うつ的になることで、初めて仕事から逃れることが出来た」を加えてみてもいい。これらは「仕事量が増えてそれがストレスと感じられた → そのうちに鬱状態になった」という共通した事実関係があり、それをどのように理解し、あるいはどのように(周囲が)意味づけするかということにより2か3かの違いが生まれると言っていい。そしてそのいずれが正しいのかを判断することは非常に難しい場合が多い。誰もその患者の主観世界を覗くことが出来ないからだ。否、その患者自身にもいずれかを区別することは原則として不可能と言えるだろう。もし当人が鬱という症状を「意図的に作り上げることが出来る」としたら、それはほとんど詐病に近いことになるだろう。しかしその前に「鬱という症状を意図的に作り上げることが出来るか否か」いう問題が生じる。そこで当人が「無意識的に」鬱の症状を作り出したのであれば3を満たすかということになるが、「鬱という症状を無意識的に作り上げることが出来るか否か」という問いもまた答えの出ない問題なのである。このようにある症状が3に該当するかは実に恣意的な問題である。しかしそのようなカテゴリーにきわめて長い間入っていたのが、いわゆるヒステリーという病気なのである。
3.をどのように扱うかについて、少なくとも米国の精神医学の見解はより慎重になっているようである。端的に言って3.のカテゴリーに属するような疾患をあまり想定しないという方針に移行しているようだ。その根拠を示してみよう。
まず1952年のDSMを参照してみる。ここには 著名なストレス反応 Gross stress reaction という診断名がある。まあPTSDの前身のようなものだが、こんなことが書いてある。
「異常なストレスを被ると、圧倒的な恐れに対して正常な人格は確立された反応のパターンを用いることで対処する。それらは病歴や反応からの回復の可能性や、その一時的な性質に関して神経症や精神病とは異なる。すぐに十分に治療されることですぐに状態は回復するだろう。この診断は基本的に正常な人々が極度の情緒的ストレス、たとえば戦闘体験や災害(火事、地震、爆発など)を体験した場合につけられる。」
それともう一つ、成人の状況反応 Adult situational reaction というのがあるが、実はこちらにも出てくるのが「健康な人が難しい状況で表面的な不適応を起こしたもの。これが直らないと精神神経症的な反応に移行する」、という表現である。つまりこれらの反応は正常な人の反応ということを強調している。そしてそれ以外は神経症、となるのである。
 ではDSMにおける心因性Psychogenic はどのような理解になっているのかと言えば、こう言いかえられている。「Without clearly defined physical cause, without brain tissue impairment」。つまり明らかな脳の障害は見られず、機能的な障害である、という意味となっている。DSMに特徴なのは、ことごとく「~反応」という名前が付けられていることだ。内因性の病気の最たるものであるはずのschizophrenia も schizophrenic reaction(分裂病反応)である。つまりある意味ではすべて環境に対する反応、という巨大な心因論の世界があったわけだ。その中で脳自体に何ら変化を被っていない場合と、結果的に被っている場合、という分け方にしたというわけだろう。
次に1980年のDSM-IIIを見てみると、転換性障害についてこう書いてある。「身体的な障害に一見見えるが、心理的な葛藤なニードの表現のように思われるもの。」つまりDSM-IIIにはまだ心因=ワザと、というニュアンスが残っている。疾病利得的なにおいをかぎ取っているのだ。そしてよく読むと、「疾病利得が特徴」とも書いてある。
次に1994年のDSM-IVを読むと、ちょうど過渡期であるということがわかる。記載は長く、言い訳がましい。ひとことで言えば、疾病利得ということが言われてきているが、気を付けて使いましょうね。患者さんがわざと症状を示していると判断してもいいけれど慎重にね、ということだ。
そこで今度は最新のDSM-5 を紐解くと・・・・、なんと「心因性」という言葉はもう出てこない。この用語は使わないと言う申し合わせがあったかのようだ。何しろ英語の索引にもpsychogenic は姿を表さないのだ。ただし900ページもある分厚いDSM-5に二箇所だけ出てくるのを発見した。403ページに「心因性てんかん」という表現、715ページに「睡眠関連心因性解離症」というわけのわからない表現がでてくる。おそらく紛れ込んだのだろう。
おそらく心因という言葉をもう使わないような流れが起きている。それを思わせる記述が、305ページにあった。「これまでの診断では、いわゆる身体表現性障害において、症状が医学的に説明でいない」ことを強調しすぎていた。でも問題は症状に比べてこだわりが強いことなのだ。何しろ医学的に症状が説明できるかどうか、というのはとても難しい議論なのだから。」つまり医学的に症状が説明できるかどうかはもはや誰も自信を持って主張することができない、ということを認めているわけである。ここで面白いのは、身体症状症は、まず症状があって、それが誇張されて体験されるということだ。だからこれは心因性、というのと逆と言うことになる。むしろ心因性と昔呼ばれていたものの最たるものは、いわゆる「転換性障害」である。
 そこで転換性障害の記載を見てみる。これについては、多くの臨床家が心因性、機能性という言葉を使っている、と認めている。そしてこの転換性、という言葉を残しておくが、正式な言い方も付け加えている。それが機能性神経症状症 functional neurological symptom disorder 言い換えれば、神経症状を呈しているが機能的なものであるような障害。ここで機能的 functional という言葉を使っているのがニクイ。うまい言い方をしたものだ。これはつまり「器質的でないよ」とやんわり言っているのだ。コンピューターの用語では、ハードウェアじゃなくてソフトの問題だよ、と言っているのである。でもこれはよく考えれば「心因性」ということとあまり代わらない。ただ違うとすれば、「心のせい」と言っていないことだ。もうちょっと言い換えると、意図的、ワザと、というわけではないよ、ということを言いたくてこのように書いているわけである。そう、これが現在のDSMの心因論なのだ。
 こんな風に言い換えよう。医学が進むとともに、これまでの神経症症状の多くに脳科学的な異常が見つかっている。何しろMRIなどに明白な形で現れてしまうのだ。強迫症状だって尾状核を含むサーキットのオーバーヒーティングが確認されて、SSRIが有効だとなると、やはり脳の異常と言うしかない。パニック発作しかり。ということは本当に心因性の、と呼ばれうるものは、転換性障害くらいしか残っていない。あとは虚偽性障害(いわゆるミュンヒハウゼン病)だが、こちらはあからさまにワザと症状が形成されているので、むしろ心因性、とすら呼べないのかもしれない。そして「転換性」はフロイトが考えたように、無意識的な葛藤が症状に表れたという考えに基づく命名だが、これも詐病を疑っているようなところがありよろしくない。そこでもっと客観的な呼び名を考えた。それが症状は神経障害的(つまり末梢神経の障害により起きるような症状)なのに、器質的な問題が見当たらないもの、という言い方をしているわけだ。でもこれは実はむかしからある「内因性」の定義そっくりではないか。つまり現代の精神医学は、内因性の概念をこの「機能的な神経症状症」に残したまま消えていくプロセスにあると言うことか? 何しろ他の神経症はMRIで「見えて」しまっているから、古い定義の「内因性」とは言えず、むしろ「器質性」に近くなってしまうからだ。

2019年2月23日土曜日

心因論 推敲 2

1.に関しては、神経症は軽傷でどちらかと言えば一過性の、いわゆる「ノイローゼ」と呼ばれる状態として、広義の「精神病」と呼ばれる統合失調症や躁うつ病とは区別されてきたという歴史がある。そして後者はより深刻な脳の障害、あるいは内因性の障害と呼ばれるのに比べ、神経症は明確な脳の障害を伴わない、軽症の、反応性のものという扱いを受けてきた。この状態は果たして先に述べた「心因」にどの程度合致するだろうか?
この点を考える上で私たちが考え入れなくてはならないのが、精神分析的な理解の歴史である。フロイトは従来のヒステリーの概念をまとめる上で、そこに強迫神経症や不安神経症など、現在私たちが神経症としてカテゴライズするような病態を網羅した。かれは現実神経症として現実の性生活に障害があるもので、性衝動の過度や過度の消粍に基づく神経衰弱と、性衝動の過度の蓄積による不安神経症に分けた。また精神神経症としてはヒステリー、強迫神経症、恐怖症と自己愛神経症を列挙した。 それまでここまで神経症についての網羅的な理論を打ち立てた人はなかったため、これらがその後しばらく神経症の理解の基礎となったわけだが、それはこれらの神経症を心因に基づくものと考えていいのであろうか。実はこれはビミョーな問題であることがわかる。なぜならフロイトは無意識をその理論に持ち込んでいるのだ。それを「了解可能」とすることが出来るのだろうか? たとえばある少年が馬に対する恐怖症となる。馬に追いかけられて恐ろしい思いをしたから馬恐怖が生じた、というのは誰にもわかる理屈だろう。だから「了解可能」な心因反応と言える。ところが父親に対する恐怖が抑圧されて、たまたま馬に投影されたと言う理屈はどうだろう?そう、無意識的なプロセスは、その当人ですら追えないのであるから(もし終えたら、それは「意識的」ということになり、矛盾する)それを心因反応とするのは理屈から言えば難しい。だからこの「1.神経症」は実は心因性と呼ぶには問題があるのだが、おそらくそこについて真剣に問うことなく、これも心因性の疾患のひとつとして考える人が多いだろう。
さて2.適応障害である。私の考えでは、これがおそらく心因性の障害の概念に最もぴったり来るのだ。その目でDSM-5の適応障害の基準を見直した場合、ヤスパースの体験反応にあった定義に、「ただしその反応のレベル自体は度を越している」ということを付加することで、体験反応の持つ矛盾を自ら含みこんだ、その意味では居心地の悪い診断となっている。それは以下の通りとなる。
A.はつきりと確認できるストレス因に反応して,そのストレス因の始まりから3カ月以内に情動面または行動面の症状が出現
B.これらの症状や行動は臨床的に意味のあるもので,それは以下のうち1つまたは両方の証拠がある。
(1)症状の重症度や表現型に影響を与えうる外的文脈や文化的要因を考慮に入れても,そのストレス因に不釣り合いな程度や強度をもつ著しい苦痛。
(2)社会的,職業的,または他の重要な領域における機能の重大な障害
C.そのストレス関連障害は他の精神疾患の基準を満たしていないし,すでに存在している精神疾患の単なる悪化ではない。
D.その症状は正常の死別反応を示すものではない
E そのストレス因,またはその結果がひとたび終結すると,症状がその後さらに6カ月以上持続することはない。
この言わば直系の心因反応とも言うべき適応障害の概念が有する「内因性」ということが重要である。適応障害は心因反応プラスαなのであるが、そのαの由来はどこにも記載されていないし、それはいわば原因不明のファクターによるもの、すなわち内因ということになるのである。