2016年4月20日水曜日

酒に酔って人を殴った人に責任能力はあるのだろうか?

突然この問題について書きたくなった。理由は一切ない。
新聞にもよく出てくるだろう。電車で痴漢をしたり、公園で全裸になったり、街中で露出をしたり、タクシーの運転手を殴ったりする事件。起こした主はいい歳をした会社の役員や教員や警察官だったりする。社会的な分別を十分に備え、それなりに地位もあり、大切に守るべき家族もある。これまで特に犯罪歴もなく、仕事の同僚や上司からもそれなりに信頼を築いている。その人が朝気が付いたら留置所にいるのである。最初は夢でも見ているのではないかと思う。わが身を見るとスーツ姿の通勤スタイルだ。昨日のことを一生懸命思い出すが、久しぶりに上司の悪口を言いながら同僚と飲んでいたことしか思い出せない。それからの自分がおそらく酔って一人で帰宅する途中で何かに巻き込まれたのだろう。いや何かをしでかしたのか。やがて留置所の係官から細切れの情報が伝えられる。「お前は昨日の自分の行動を覚えていないのか?昨日帰宅途中にタクシーに乗り、降りた際に金を払おうとせず、運転手に暴力を・・・。」やがて普段の自分なら到底考えられないような行状を語られる。悪い夢でも見ているようだ。これが会社に知られて、家族にも知られ、何もかもおしまいになってしまう。これからどうして生きていけばいいのか・・・・。以上のような体験は実は他人ごとではない。誰にでも起きうることだ。
 ここで考えてみよう。運転手を殴ったあなたは、あなた自身なのだろうか?恐らくそうは言えないだろう。酔った時のあなたは、おそらく通常のあなたではない。アルコールという物質の影響を受け、普段の理性など微塵も残っておらず、支払いを要求する運転手に突然腹を立てて暴力を振るってしまった。普段の自分なら絶対やらないことである。果たして私はその行為に責任を取るべきであろうか?
 一つの考え方は、その行為は「酒のせい」で起きたことであり、本人が関係ないところで起きたのだから、責任能力はない、というものだろう。しかしこのような場合に本人が無罪放免という話は聞いたことがない。なぜだろう?
ここで得意のウィキ参照である。
心神喪失および心神耗弱の例と問題:心神喪失および心神耗弱の例としては、精神障害知的障害発達障害などの病的疾患、覚せい剤の使用によるもの、飲酒による酩酊などが挙げられる。ここにいう心神喪失・心神耗弱は、医学上および心理学上の判断を元に、最終的には「そのものを罰するだけの責任を認め得るか」という裁判官による規範的評価によって判断される。特に覚せい剤の使用に伴う犯罪などに関してはこの点が問題となることが多いが・・・」 とここまで読むと、酒で酔っ払っても、覚せい剤を使用しても、やはりそれによる犯罪は無罪放免ということになる。しかしここには続きがある。「判例ではアルコールの大量摂取や薬物(麻薬、覚せい剤など)などで故意に心神喪失・心神耗弱に陥った場合、刑法第39条第1項・第2項は適用されないとしている。
やっぱりね。つまりポイントはここだ。酒や覚せい剤は、それを自分から(故意に)用いたのであれば、責任は取るべきである。だって酒に酔うと自制心が無くなることを知りながら、自分から進んで飲んだということは、やはり責任をまぬがれないだろう、という理屈である。
ちなみにこの飲酒と責任能力の問題は、当然ながら犯罪学上、刑法上の長い議論を経ているという。そこで上のような議論が出てきたわけだが、それは「原因において自由の理論」と呼ばれるという。つまり犯罪の原因を作った時点では、自由を行使し、それを主体的に選択したでしょ、だからあなたの責任ですよ、ということだ。いずれにせよ、この原因において自由の理論は、犯罪行為時に心身喪失や心神耗弱だったからといって、処罰は免れないという解釈だという。
ではこう質問しよう。自分が飲酒して歯止めが効かないような行動に出たことはなく、したがってそれを防ごうという意図もなかった。もちろん飲酒をしたときに運転をすることは極めて危険だから、それは注意しているし、実際飲酒運転はしたことがなかった。しかし「自分は運転手に対して暴力をふるうことが分かっているから、酒を飲まないようにしよう」というような注意を払う必然性はなかった・・・・。恐らくそのような場合は、自分が飲酒でそのような行為を起こすことをその当時は予見できなかったことを考慮して、事件当時は責任能力が制限されていることを認め、刑は軽くするべきであろう、本来は。しかし実際にはそうならない。なぜだろうか?難しい問題だ。私はその本当の理由は次に述べるものに尽きるだろうと考える。
このような理屈を逆手に取り、皆が酒を飲んで犯罪行為に及んだとしたら、歯止めが効かなくなるではないか?

そしてもう一つ重要なポイントがある。それは飲酒が報酬系を刺激し、その人に快感を与えることだ。それ故に快楽を求める人が、その上に罪を逃れるとは何事だ!ということになる。人は快楽を追い求める他者に対してきわめて非寛容なのである。
ということで、最後に報酬系が出てきた。