2016年4月21日木曜日

フロー体験 ⑤

フローと快楽、幸福
チク先生の説には、脳の話がよく出てくる。どの程度根拠を持った説かは疑わしいが、興味深いことも確かだ。彼はフロー体験中は、使用することの出来るインプットのほとんどすべてが、ひとつの活動に向けられる。これが時間の感覚が変わり、不快が気付かれず、否定的な思考が入ってこない理由であるという。脳はひとつのことに集中することにあまりに忙しいので、他の事を処理できない。そしてこの状態は明らかに、マインドフルネスや瞑想、ヨガにおけるある状態と類似する。特にヨガとの関連については、それは「徹底的に計画されたフロー体験の例である」(Csikszentmihalyi, 1990, p.105)という。つまりそれは心地よい、自分を忘れるような没入であり、それ自身は身体を鍛錬することで得られるという(ibid , p.105)。ヨガが奇妙なポーズ(失礼!)を作り、一日何時間もある心の状態を達成しようとするのは、そこで自己の解放、ないしは「存在 being、意識 consciousness、悦び bliss」の統合であるという。しかし、とチク先生は強調する。それはヨガによってのみ達成されるわけではない。(ここがポイントだ。) 
  チク先生はフローの概念は、道教との考えとも異なるという。道教には、人間が自然と一体となることを最終的な目標とするところがある。ところがフローにおいては、人は意識によるコントロールをひとつの達成目標とする。人間はその存在自体はカオスであるという。すなわちそれは様々な欲望に支配され、無秩序で、それ自身のコントロールによる快楽を味わうことが出来ない。その意味ではフローにおいては、フロイトの意識が、イド(エス)を統率する際に生じるものであるというニュアンスがあり、実際にフロイトの概念を用いての説明もその著書で行われている。
  さてこの部分が一番大切かもしれない。チク先生の仕事は幸福 happiness と快楽 pleasure との違いを考えさせる。快楽はどちらかといえば受身的な体験であり、テレビを見たり、マッサージを受けたり、薬物をやったり、という体験だ。(チク先生の本には、テレビを見ることへの戒めがよく出てくる。)それに比べてフロー体験による快楽は、ある種の焦点化された活動によってのみ達成される。つまり能動的なのだ。そして幸福とは単なる快楽ではなく、そこにある種の時には痛みを伴った挑戦がなくてはならないとする。マーチン・セリグマンはチク先生のフローの概念をと通じて、幸福と快楽の区別を行っている(Seligman, 2002, p. 119)。彼によれば、幸福とは快楽とフローのバランスにより成立しているという。快楽は受身的で刹那的だ。たとえばケーキをひとつ食べるのは快楽だが、5つ同じケーキを食べさせられるとしたら多すぎて苦痛だろう。それは食べる側が受身的であり、その快楽をコントロールできない場合に生じる。快楽とフローとのバランスとは、その快楽とチャレンジを統率する自我のコントロールの能力を前提とし、それ自体は能動的な行動であり、をれを人生に生かすことに幸福があるというわけである。