2014年11月5日水曜日

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (6)

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (6

ここで私の得意な自己剽窃である。2012年に、精神分析のスキルとは(2)という論文を発表した(これも確かブログ出身だ。)そこでこの倫理の問題について論じたので、ちょっとコピペしよう。考えはほとんど変わっていない。
岡野:精神分析のスキルとは?(2)(精神科 21(3), 296-301, 2012)

― 現代的な精神分析の立場から見た治療技法

はじめに
本稿のテーマは、精神分析療法のスキルについてである。ただし従来精神分析においては、一般的に技法techniqueという表現が用いられることが多いため、この技法という表現をスキルと同等のものとみなして用いることにする。
 一般に精神療法家が備えるべき能力に関しては、そこに技法的な要素が存在することは間違いない。精神分析の歴史においても、しばしば治療技法が論じられてきた。しかし近年になり、精神分析の理論にはさまざまな発展や変遷が生じた。そしてそこに倫理的な問題が重要な要素として絡むようになり、分析的な治療技法を論じることは多くの複雑な問題を含むようになってきている。本稿ではもっぱら現代的な精神分析における技法の問題を、倫理的な問題を絡めつつ論じたい。
フロイトの精神分析における治療技法
精神分析においては、その創始者であるフロイト自身がいくつかの技法論をまとめている。そしてそのことが精神分析における技法の重要性への認識を決定的なものとしたと言える。精神分析の主たる目的は、患者の持つ無意識的な幻想や願望を解釈を通して明らかにすることとされた。そしてそれを目的とした患者とのかかわりは、通常の面接とは異なる特殊性とそれに伴う技法を必要としたのである。
 こうしてフロイトにより定式化された技法論は、彼が基本規則として位置づけた患者の側の「自由連想」および「禁欲規則」を中心にまとめ上げられた。それらは後に匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多い(Treurniet, N 1997)。これらのフロイトによる技法論は、歴史的に見ればその重要性が徐々に失われつつあるが、現在でも臨床家の一部には受け継がれているといっていい。
 フロイトによる技法論の展開について、もう少し細かく見ていこう。フロイトは、13の技法論を書いたことが知られる。それらは”Zur Technik der Psychoanalyse und zur Metapsychologie (5.という一冊に収められ、邦語訳でも一書フロイト著作集第9小此木訳、人文書院 1983年)にまとめられている。それらを読むとフロイトが精神分析を確立する過程の様々なプロセスも合わせてたどることが出来る。小此木はフロイトの技法論を手短に知るために特に3つの論文を挙げている。それらは「分析医に対する分析治療上の注意」2と「分析治療の開始について」3そして最も重要なものとして「想起、反復、徹底操作」4である(11
初期のフロイトの治療技法は、無意識内容の意識化という最も基本的な路線に沿ったものであり、また「夢判断」の段階では、夢内容の解釈を与えるのみで十分だと考えていたようである。しかしフロイトはやがて、それだけでは十分ではないという認識を得るようになった。それが患者の側の反復強迫などの抵抗の発見であり、その為に徹底操作抵抗の分析といった介入を考えるようになったのである。それが最も重視する論文「想起、反復、徹底操作」により一定の完成を見たことになる。
フロイトの展開した技法論は、その後何人かの分析家によりより詳細にまとめられた。フェニケルによる技法論Fenichel, O (1) や、わが国でもよく知られたMenninger, K治療技法論(10)は、そのような路線に従って書かれたものである。これらにおいては精神分析が治療法としてすぐれているという確信と、技法論の発展とは深く関係していたと言えよう。

フロイト以後の技法-「基本原則」と「経験則」
フロイト以降の技法論において生じた変化とはどのようなものだったのだろうか? それは匿名性、禁欲原則、中立性という原則に沿ったフロイトの技法をいかに遵守するかという立場から、実際の精神分析の臨床をどのように進めていくのか、その中でフロイトの技法をどのような形で運用していくのか、というテーマへの移行である。1960年代の半ばに出版されたグリーンソンのテキスト (6) は最も広く読まれた精神分析のテキストのひとつといえるが、そこに収められた技法には、現在においても臨床場面に応用できるものが多く含まれている。それらの多くの中からたとえば抵抗の扱い方に限定していえば、「抵抗は、その内容に入る前に表層から扱う」とか「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」などの記載がある。ただしこれらは、技法というよりもむしろ分析療法を進める上での経験則ないしは教訓ととらえるべきかもしれない。
 一般に精神分析的な技法と呼ばれるものには、フロイトの述べた技法論およびそれを敷衍したものと、実際に分析療法を進める上での経験則ないし教訓といったものに分けられよう。そこで本稿ではこれらを「基本原則」と「経験則」という呼び方を用いて分けて論じることにする。
 「基本原則」とはフロイトが技法論の中で述べたものであり、本来の精神分析が行われる上で守られるべきルール、という意味である。それに比べて「経験則」としての技法とは、「このように考え、あるいは進めることでより効果的な治療を行うことができる」という臨床経験の蓄積から得られた教え、「それを守ることが効果的であることが知られている」ものという意味を持つ。この「経験則」は時には「基本原則」との齟齬すら生じる。すなわちそれはいかに「基本原則」に乗っ取って精神分析を正しく行うかというよりも、いかに関係性を重視し、ラポールの継続を見据えつつ分析作業を行うかという、より患者の側に立った原則ということができる。先ほどのグリーンソンの技法論にはこの意味での「経験則」としてのそれが多く論じられている。
フロイト以降時代が下るにつれ、精神分析における技法の発展には、この「経験則」が徐々に重要な位置を占めるようになったが、そこにはまた精神分析的精神療法の広がりも影響していた。米国では20世紀半ばより、境界性パーソナリティ障害の治療に即した治療技法の必要性が生じ、精神分析より頻度を少なくし、対面法を用いた精神分析的精神療法がより広く用いられるようになった。そしてそれをさらに洞察的療法と支持療法に分けて論じるという流れが生まれた。そこには、古典的な精神分析的な技法に、どのような場合にどのような変更を加えるかという豊富な議論が含まれていた。それに伴い分析的な精神療法に関するさまざまなテキストが著されることになった。Langs, Rの上下巻に及ぶ技法論の大著(8)は、その流れに沿ってかかれたものの代表的なものと言える。
現代的な精神分析における治療技法
現在論じられている精神分析的な技法は、この半世紀の間に生じた精神分析理論の様々な発展の影響を受けている。多種多様な理論的立場が提唱されていることは、技法論の一元的なテキストを編むことをますます難しくしているといっていいだろう。また立場によっては技法の持つ意義に対する根本的な疑問すら唱えられている。たとえばいわゆる間主観性理論の立場や関係精神分析においては、技法を越えた治療者と患者の関係性の持つ治療的な意義に重点が置かれる傾向にある。そのような空気の中で、精神分析的な技法論という大上段に構えた著作は影を潜め、精神分析的なかかわりの持つ技法以外の側面が強調されるようになったのである。
 関係精神分析の立場にあるHoffman, I 7)によれば、技法について論じることは、治療における弁証法的な両面の一方に目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動には、「技法的な熟練」という儀式的な側面と、「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立しているという。この理論に従えば、技法は、分析家の行う患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎないことになる。
 現在の精神分析においては、一般に分析状況における技法を超えた治療者と患者のかかわりや出会いの重要性がますます強調されるようになってきている。ボストングループではそれを、暗黙の関係性の了解 implicit relational knowing, 出会いのモーメントmoment of meeting などと称している( 14 )Renik (13) によれば、治療関係はいつも、目隠しをして飛行をしているようなもので、何が有益だったかは、あとになってわかるようなものであるとする。
 これらの議論は精神分析が技法を学ぶことによりマスターされるといった見方から、より臨床経験を積み、また自らの教育分析の経験を役立てることの意義が問われるといってよいであろう。それは先ほどの分類で言えば「基本原則」からのますますの乖離であり、またそれぞれの立場からの経験値の蓄積、すなわち「経験則」の積み重ねということも出来る。
治療技法と倫理との関係
精神分析の理論の発展とは別に進行しているのが、倫理に関する議論の流れである。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、いわゆるインフォームド・コンセントを取りあげることが出来よう。治療者は患者に治療内容を説明し、それにより得られるものとそれに伴うリスクとを説明し、他にどのような治療法があるのかを提示する必要がある。患者がそれらを理解したうえで精神分析を選び取ったときにはじめて治療契約が成立するのである。
 しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも 精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。
 そのような前提が崩れていく過程でのひとつの象徴的な出来事が、米国でのオシェロフV.チェストナットロッジという訴訟(1980年)であった。
 42歳の医師オシェロフ氏は深刻な抑うつ状態に悩んでいた。そしてメリーランド州のチェストナットロッジという精神病院に入院した。しかしそこでは精神分析的な精神療法のみしか行われず、同氏のうつ病が改善することはなかった。同氏は別の病院に転院し、そこで薬物療法を受けて症状は改善した。そこでオシェロフ氏は、妥当な治療を施さなかったとしてチェストナットロッジを訴えたのである。
 この訴訟は最終的には示談となったが、これを一つの切っかけにして精神医学の世界でインフォームド・コンセントの問題がますます重視されるようになった。そしてこの事件が精神分析の世界に与えた衝撃は大きかった。それまで自らの治療の効果に関して比較的楽観的であった分析家達は、その治療法の有効性を説明し、それを薬物療法やそのほかの精神療法に優先して、あるいはそれと平行して行われるべきことを示す必要に迫られることになったのである。また他方では、精神分析の立場からの倫理綱領の作成が促されるきっかけとなった。
 現在米国の精神分析協会では、その倫理綱領を定めているが、その中には技法とのかかわりが重要になるものが少なくない。
米国精神分析学会における倫理綱領の抜粋
ここで特に従来の「基本原則」に触れる可能性のある条項をいくつかピックアップして列挙してみる。
分析家としての能力
自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。
理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(以下略。)
平等性とインフォームド・コンセント
精神分析はインフォームド・コンセントに基づき、互いの同意のもとに行われなくてはならない。
立場を利用して、患者や生徒やスーパーバイジーを執拗に治療に誘ったり、現在や過去の患者に自分を推薦するよううながしてはならない。(以下略。)
正直であること
キャンディデート(候補生)は、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる。
分析の利点とそれによる負担について話さなくてはならない。
 嘘をついてはならない。(以下略。)
患者を利用してはならない
現在及び過去の患者、その両親や保護者、その他の家族とのあらゆる性的な関係は非倫理的であり、それは分析家からの誘いによるものもその逆も同じである。身体的な接触は通常は分析的な治療の有効な技法とは見なされない。
現在および過去の患者やその両親ないし保護者との結婚は許されない。(以下略。)
患者や治療者としての専門職を守ること
難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。
病気になったら同僚や医者に相談しなくてはならない。
患者の側からスーパービジョンを受けることを請われた場合は、その要求を真摯に受け止めなくてはならない。(以下略。)
医療倫理の四原則
ちなみにこの精神分析的な倫理綱領は、特に精神分析や精神医学に限定されない医療全般に関する倫理原則を背景としているといえる。そこでいわゆる医療倫理の4原則についても紹介しておきたい。それらは「無危害」、「善行」、「正義」、「自律尊重」と呼ばれるものだ。もう少し詳しくこれらを説明すると以下のようになる(9
1.無危害原則・・・「来談者に害悪や危害を及ぼすべきではない」。
2. 善行原則・・・「来談者にとって医学的に最も適切で利益が多いと思われる治療行為を行うように勤める」。
3.
 正義原則・・・「社会的な利益と負担は正義の要求と一致するように配分されなければならない」。すなわち医療現場では、医療資源の公正な分配が必要であり、不正行為や不公平が生じてはならない。
4.
 自律尊重原則・・・「来談者が自分で考えて判断する自律性を尊重しなければならない」。来談者の主体性を尊重せよということである。
 従来の医療においてはこのうち善行原則が重んじられたが、最近では自律尊重原則を重視するようになり、そこではインフォームド・コンセントが特に重要であるとされている。
以上に示した精神分析学会の倫理綱領(抜粋)や、その背後にある医療倫理の4原則は、精神分析における技法にどのような影響を与えるのであろうか?一ついえるのは、これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではないということである。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。
 倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。すなわちキャンディデートは、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる」という項目に従った場合、分析家は自分が修行中の身であり、ケースが上級の分析家により監督されていることを告げることになるであろう。このようなことは、従来の精神分析療法においては想定されなかったことであり、現在でもそのような方針は分析家の匿名性を犯すものとして、抵抗を示す分析家も少なくないであろう。
 同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。分析家が沈黙を守ってもっぱら患者の話を聞くという姿勢は、それが患者にとって有益となる場合も、そうでない場合もあろう。それは患者によっても、またその置かれた治療状況によっても異なる。そうである以上、中立性や受身性は、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
 ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、少し事情が異なる。なぜならこの原則は倫理原則にある意味では合致した原則と考えられるからである。フロイトの「治療は禁欲的に行われなくてはならない」というこの原則については、禁欲する主体が治療者か患者かという問題について曖昧さが残るが(11)、通常はそれを治療者側のそれと患者側のそれとに分けて議論される(12)。このうち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。また逆に「治療者は患者の願望を満たさすことには禁欲的でなくてはならない」とするのであれば、これは上述の意味で相対化されるべきものであろう。なぜなら患者の願望の中にはかなえられるべきものとそうでないものがあるであろうし、一律に患者の願望をかなえないという原則を設けることは、非倫理的との批判に甘んじなくてはならないであろうからだ。 
 他方治療技法の中で「経験則」のほうはどうであろうか?先ほど「経験則」は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、と述べたが、それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。たとえば表層から、というのはそれにより患者のショックや侵入された間を和らげるという意味ではりんりてきなしせいともがったいするのである。
最後に
精神分析のスキルということをテーマに、治療技法について論述した。そしてそれを便宜的に「基本原則」と「経験則」にわけて論じた。最近の流れの中で尊重されるようになった倫理原則に鑑みながらこれらの原則について考えた場合、少なくとも「基本原則」に関しては、それを相対化したものを考え直す必要があるという点について述べた。他方の「経験則」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が考えられるであろう。

参考文献
(1) Fenichel, O.: Problems of Psychoanalytic Technique. Albany: Psychoanalytic Quarterly., 1941. 
(2) Freud, S.: Recommendations to Physicians practicing psycho-analysis. S.E.12., 1912. 
(小此木啓吾訳 : 分析医に対する分析治療上の注意. 著作集 第9, 1983)
(3) Freud, S. : On Beginning The Treatment. S. E.12, 1913. (小此木啓吾訳 : 分析治療の開始について.  著作集 第9, 1983)
(4) Freud, S.: Remembering, repeating and working-through. SE, 12, 1914
(小此木啓吾訳:想起,反復,徹底操作 フロイト著作集 第6巻,1970年)
(5) Freud, S.: Zur Technik der Psychoanalyse und zur Metapsychologie. Internationaler Psychoanalytischer, 1924.
(6) Greenson, R.: The Technique and Practice of Psychoanalysis. Vol. 1. New York: International Universities Press, 1967.
(7) Hoffman, I.Z.: Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London, 1998.
(8) Langs, R.: The technique of psychoanalytic psychotherapy: volume I ,II Jason Aronson, 1977, 1989.
(9) B.ロー著,北野喜良,中澤英之,小宮良輔監訳:医療の倫理ジレンマ.西村書店, 2003Lo, B: Resolving Ethical Dilemmas: A Guide for Clinicians Lippincott Williams & Wilkins; Third edition, 2005.
(10) Menninger, K. Theory of Psychoanalytic Technique. Basic Books, New York, 1959.
(11) 小此木、その他編: 精神分析セミナーIII フロイトの治療技法論. 岩崎学術出版社,1983年.
(12) Renick, O.: Practical Psychoanalysis for Therapists and Patients. Other press, 2006.
(13) スターンD.N.著 奥寺崇 監訳/津島豊美訳 プレゼントモーメント 精神療法と日常生活における現在の瞬間 Stern, DNThe Present Moment in Psychotherapy and Everyday Life. W. Norton & Company, 2004.