2014年11月6日木曜日

書評、書き上げた!(絶対誰も読まない)

T 選手が冤罪を訴える??? だから人生は分からない。

関係するこころ」(フィリップ・ブロンバーグ、吾妻壮ほか訳、誠信書房、2014年)

精神分析に携わっている方々の中で解離の病理に興味を持つ人間は、少数派と言っていいだろう。そして同時に脳科学に関心を持つ人はさらに少ないかもしれない。しかしこれらに強い関心を示すのが、本書の著者、フィリップ・ブロンバーグである。私は以前に彼の仕事を知った時、またとない先達に出会った気がした。本書には長い序文があり、それを書いたアラン・ショアと著者ブロンバークとは非常に近い関係にあるが、その両者がとともに、行き着くテーマが「愛着」というのも興味深い。解離、脳科学、愛着、といったテーマはまさに今後の精神分析において焦点づけられるべきものなのである。
そのショアの序文は訳書で39ページにも及ぶ長大なものである。そこでは母親と乳児の右脳どうしの共鳴、同期化が乳児の脳を育てるという主張がなされる。そしてこの愛着の時期にみられる「波長を合わせること attunement の失敗として生じるのが解離であると説明されている。しかしそれ以上は割愛しよう。
各章の内容を簡単に見ていくことにする。
「第1章 津波を収める」には、ブロンバーグの理論の骨子がおおむね出そろう。彼の解離理論は外傷理論とサリバンの理論との合体と言える。彼の言う外傷とは、発達的な、いわば「連続体」としての外傷としてとらえられる。そして自分の存在の継続自体にとって脅威となる外傷の影響を
 tsunami(津波)と表現する。(ちなみにこの「津波」は我が国を襲った東日本大震災とは直接は関係ない。)
 発達的外傷の体験により、私でない私(not-me,
 サリバンの言葉である)が形成されることは、「他者の目を通して自分を見る力の欠損」を同時に意味する。そしてそれを治療的に扱う分析状況としてブロンバーグが提唱するのが「安全だが安全すぎない」関係性であるという。つまり早期の外傷を、痛みを感じながらもう一度生きることを可能にする関係性であるという。
 この章で紹介されているいくつかの症例は、ブロンバーグの言う解離を見事に例証するような、非常に唆に富んだものであり、治療過程においてエナクトメントを通じて「私でない私」が自らの内に取り込まれて葛藤を達成するプロセスがとてもよくうかがえる。
「第2章 私の心には決して入らなかった」ではエナクトメントが、あくまでも二者的な解離プロセスであることが強調される。解離は患者だけではなく治療者をも包む繭のようなものとして表現される。そして示される臨床例では、虐待に関する秘密を解離させたまま、それを「靴の中の小石が取り出せない感じ」として表現する患者の話が出てくる。秘密を抱えている患者とかかわるブロンバークが、その秘密をやや強引に探ろうとするエナクトメントを起こす。それを伝えることで治療の進展が可能となったプロセスが描かれている。
「第3章 この気持ち、わかりますか!」では、解離とメンタライゼーションとの関係が扱われる。ブロンバーグは、ピーター・フォナギーやジョン・アレンなどの研究者による業績と自分の治療論を非常に近い位置においている。彼はまた解離についての彼の考えを本章でわかりやすく示している。彼によれば、解離は基本的には正常範囲でも起き、それはたとえば物事に夢中になった一意専心のような状態であるという。また抑圧は不安に対する反応であるのに対し、解離は外傷への反応であることとし、それをサリバンの分類に根拠づける。サリバンは不安それが生じる状況を段階的に実感することを許すが、外傷(サリバンの言葉では重度の不安 severe anxiety)では、起った時の直近のことがすっかり消し去られてしまう、と表現している。
「第4章 解離のギャップに気を付けて」では、従来の精神分析とブロンバークの立場の違いが明確に示される。「[葛藤を]患者がそれを経験できていない時でさえ常に精神機能を組織化しているように考える」(P84)古典的な立場において、ブロンバークは葛藤への防衛が必ず解釈により解決するという姿勢を問題視する。彼の立場は基本的には欠損モデル、ないしは外傷モデルのそれであり、発達過程で認識されないことによる外傷を重視するのだ。(彼はそれを、性的虐待や暴力などに代表される、大文字の外傷 Trauma と区別する。) そしてその結果として生じるのが、解離された「私でない自己―状態」なのである。
「私でない自己―状態」は、治療者と患者の両方により解離させられ、エナクトされる。そのような治療関係においては、治療者は患者の話の内容よりは情動的な反応を行う。それにより自己状態のシフトが感じられるからだ。そしてこれが本省の表題にあるような「解離的なギャップに気を付ける」ことの意味であるという。
「第5章 真実と人間の関係性」には気になる文章が現れる。患者の希望は、それが分析家から受け入れられるだけでなく、必要とされること、心地よさをもたらすという認識であるという。そして発達早期にそれが欠如することが関係性の外傷につながる。ブロンバーグはこれを愛と呼んでもいいとさえいうが、精神分析における愛というタブーの領域に踏み込んだ文章である。人間にとって愛されるという体験を、しかも幼少時に持つことが、心の成長にとって決定的な役割を担う。
本章ではまた、解離と抑圧、葛藤との関係について繰り返される。ブロンバーグは葛藤理論に反対しているわけではない、とことわっている。「正常な心理機能としての解離は、通常内的葛藤との快適な弁証法的な対話により作用する」(P125)ただし「解離が絶頂の時、葛藤を構造化する力は、まだ存在していないということである。」
「第6章 これが技法であるならば、最大限活用せよ!」もいろいろ考えさせられる章だ。ブロンバークは、治療は技法なのか、という永遠の問題に取り組む。彼は治療プロセスを自らの書くという活動と類似させ、「あらかじめ選ばれた概念的なトピック」が自分をとらえるのではない、とする。すなわちそこに生き生きとと立ち現れるものこそが重要だというのだ。ブロンバークはそれを否定してはいない。「『技法』が暗黙のうちに存在していることに気がつかないと・・・その技法と内的に一貫性を保ってはいても、二社間の細かな探索の可能性を閉ざしてしまうような聞き方のスタンスを生み出してしまう。」(P155 と書いているのだ。
ブロンバークは技法のひとつとしてフロイトの「自由にただよう注意」を挙げる。これはフロイトが「強制的な技法」ではない自由な技法として提唱したが、患者の言葉の意味を見出すという作業にとってかわることにより、後世の分析家たちにとってはその目的を果たさなかった。しかし関係精神分析的な「聞き方」とは、「絶えずシフトしていく多重のパースペクティブ」に調律することで、それは両者によるエナクトメントにも向けられるという。
この後ブロンバーグは演奏活動を引き合いに出すが、それは技法と、ある意味ではそれと対置的な自発性を考えるうえでわかりやすい。すぐれた演奏は単に楽譜を追って楽器を操るだけではない。そこに「湧き出る」音楽がなくてはならない。そしてそれは演奏に感情的、身体的に巻き込まれ、作曲家が曲を作っている間に感じた感情を表現するものであるという。治療についてもそれは言える。そこには規則や決まりに従った部分があるが、それだけで治療は成り立たないのである。このことは講演などにも言えるかもしれない。書かれてものを朗読するのか、それとも原稿を見ずに語るのか。

ともかくもこのような分析的なかかわりは、多くの分析家が異口同音に表現しているものだ、とブロンバーグは言う。ウィルマ・ブッチの「象徴化以前のsubsymbolic」、ドネル・スターンの「未構成の unformulated」、そしてブロンバーグ自身の「解離している dissociated」体験。ジェシカ・ベンジャミンのサードネス thirdness の概念化もそれに関係しているという。
5章 「大人の言葉」では、無意識的空想についての考えが展開される。この特にクライン派の精神分析ではあまりに重要なテーマにどう対峙するかが、ブロンバーグにとっても重要であるらしい。ちなみにこの概念は昔から評者にとっても悩ましい概念だった。無意識的空想の内容について少しでも明確にしようとしたら、それは「意識的」になってしまうのではないか?ブロンバーグの場合も同様の疑問を持っていることが吐露されている。「私が無意識的空想という概念を受け入れることに気が進まないのは、理論的というよりもむしろ臨床的なためらいなのだが、実際には理論的なためらいもある」(P185) という。「精神分析では、患者が分析家に自分の無意識的空想を打ち明けるのではない。患者は自分自身の無意識的空想そのものであり、精神分析という行為を通して分析家とそれらを共に生きるのだ。」このあたりはエナクトメントに関連付けれ論じられているのがわかる。
 最終章「あなたの近しさ」では、彼の個人的な思い入れや彼の書き手としてのスタイルが吐露されている。彼の文章は理論的というよりはエッセイ風で、随所で巧みに文学作品からの引用が行われているが、そんな彼のスタイルの由来が書かれている。彼はこの章で「なんとなくsort of 知っているという状態」について論じ、それが自分の解離された部分から感じ取れるものであるという。
 さて全体を読み通して感じるのは、ブロンバーグはすでに新しい精神分析の行先を見越し、そこには解離と心の理論、愛着、脳科学などがキー概念となることを提唱しているのがわかる。私はこれについては全く異論がないどころか、むしろ非常に頼もしく、勇気を得た気がする。
ただ一言解離との関連で言うならば、やはり精神分析で扱う解離は「解離性障害」の解離とは若干異なるということだろうか。ここで広義の解離と狭義の解離を区別すること、ないしは「精神分析的な解離」というタームを導入する必要が生じるかもしれないであろう。

しかしそれでも私はブロンバークにより開かれた精神分析の新しい地平に多くの可能性を感じ、今後の精神分析のさらなる発展の方向性を示された思いがするのである。