2014年11月4日火曜日

「自己愛と恥について」 推敲 (2) すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (5)

「自己愛と恥について」 推敲 (2
高校生のころ、サッチ(あだ名、仮名)というクラスメートがいた。私はどれだけ彼をうらやましい、と思ったことか・・・・。彼は私が欲しいものをたくさん持っていた。スポーツは万能。勉強もよくできた。しかし特に人前で物怖じしない態度が素晴らしかった。彼と私はフォークソング部なるものに所属し、サッチのボーカルに合わせてギターを弾いたりなどしていた。彼はよく通る声もしていた。高校2年の文化祭で体育館で何かの催しがあり、司会者が客席からボランティアを募ったことがあった。舞台に上がってちょっとセリフを言うだけの簡単なものだったと思う。私はそんなところに出ていくようなタイプでは全くないが、ちょっと興味を感じたことを覚えている。しかし手を挙げることなど考えられない。私はシャイだったのである。するとサッチが後ろの客席から立ち上がり、「ハーイ!」と声を上げながら、ステージの方に走っていくではないか!その姿の無邪気で恐れ知らずな雄姿は、40年以上たっても目に焼き付いている。

どうしたらサッチのようになれるのか? 否、私はどうして彼のようになれないのか。彼と私はどうして違うのか、などと思い続けた青春時代だった。しかしこう書いてみると、恥と自己愛に関する私の関心の原点は、まさにここら辺にあったことがわかる。それは、私が羞恥心が旺盛だった、という一事にはとどまらない。私は悔しかったのである。羨ましかったのである。他方には自己を表したいという願望があるからこそ、私はそれを阻む羞恥の問題について考えざるを得なくなった。私が自己主張をしたい、人に存在を認められたいという願望を持たなければ、私は自分の羞恥を自覚することもなかったのである。

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (5

技法と倫理の両立性

最後に技法と倫理の両立性について書いておきたい。私がこれまでに述べてきたことは、さまざまな立場を包括するという方略であり、姿勢である。しかしこれらの試みを最終的に包含するのが倫理の問題であると考える。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つと考える。考えてもみよう。汎用的な精神療法の在り方に基づき、関係論的な問題を意識し、しかも脳科学的な見方についてもわきまえる治療者が、実は人間として信用することが出来ないとしたら、どのようなことが起きるだろうか?治療者が技法を、治療原則を、治療構造を駆使して治療を行うものの、それが自分のための治療であったら?
「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、という方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。私のところに通うことを勧めます」には、すでに色濃い利益相反が入り込む可能性がある。