カタい話で申しわけない。バイジーや治療者の機能、ということで最近思っていることを書いてみる。しかしこれは教育にも養育にも関係した話である。
バイザーや親のメッセージの多くは、残念ながら般化される運命にはない。バイザーは口を酸っぱくしてバイジーを指導し、正しく教え導いているつもりになっている一方では、この点が多くの場合に十分理解されない傾向にある。
ここであるバイザーとバイジーの関係を考えよう。時間に厳しいバイザーである。ほんの1、2分だけ遅れでスーパービジョンに現れたバイジーに、「セッションにはどんなことがあっても決して遅れてはなりませんよ。」と叱りつける。そして「遅れる、ということは相手を軽視していることにつながりますからね。」「私の教育分析家は、5年間、ただの一度たりとも時間に遅れることはありませんでしたよ。」「いつも先に治療者が来ている、ということが安全な治療構造を成立させる上での基本ですからね。」と言葉を継ぎ、それが治療的な環境においていかに大切かを解くだろう。
こうしてバイザーはバイジーに時間を守ることの大切さを教え込んだ・・・・はずである。ところがバイジーに時間を守る大切さはまだ伝わらない。「どうしてほんの少し時間に遅れたことをそこまで咎められなくてはならないのだろう?時間を守るよりもっと大切な事だってあるだろう。」 しかし彼はバイザーの手前、その教えが伝わったことにするだろう。でも「このバイザーにとっては、時間厳守は極めて重要であり、バイジーである以上自分もそのつもりにならなくてはならない」ということしか学んでいないのである。つまりこのバイジーとどのように付き合っていくか、しか学んでいないのである。
このバイジーが時間厳守を肝に銘じる様になるためには、おそらくその他の多くの指導者やバイザーや、患者との体験を経る必要があろう。それらの人々からも繰り返し同じメッセージを受け取ることでバイジーは最終的にそのメッセージを般化させ、自分のものとして取り入れることにするかも知れない。しかし他のバイジーからは全く別のメッセージを受けることで、時間厳守よりもっと大切な事を学ぶバイジーもいるだろう。「時間なんかあまり気にしなくてもいいんだ」という逆の教えを受ける可能性もありうるのだ。
ここで大切なのは、時間厳守を教え込んだつもりの最初のバイザーは、実は極めて大きな心的ストレスを及ぼしていることを知るべきだろう。バイジーは真理を伝えられて正しく導かれる代わりに、自分なりの真理の追究を続けるだろう。しかし表向きはバイザーからそれを学んで身につけたものとして振舞うのである。一種のfalse self の形成ということになる。そのような場合はそのバイザーを離れたら、バイジーはその学んだはずのこととは別のことをおこなう可能性が高い。多くのバイジーが、実際の治療ではバイザーに言われたことと逆のことを行うと言われる。
同様のことは、親に叱られて様々なことを学んでいく子供についても言える。親は子供を教え導き、正しい行動を教え込んでいるつもりである。ところが多くの場合、子供にとっての教訓は、「~すべきである」ではなく、「この親の目の前では、~すべきである」でしかない。そしてそれを続けることを強要されることは、子供にとってほとんど外傷的な意味を持つことすらある。