2010年9月25日土曜日

日本人とは その1 

すがすがしい一日、というより午後。今日は御茶ノ水で一日を過ごす。御茶ノ水駅はどうやら懸案のエレベーター工事に取り掛かるらしい。それはそうだろう。目の前に医科歯科と順天が聳え立っているのに、車椅子の人が乗降出来ないなんておかしな話だ。私の中学時代から現在まで、唯一ぜんぜん姿を変えていない御茶ノ水駅も、ほんのちょっと進歩するというわけだ。

中国のことを考えている。昨日の報道では、中国側は日本に「謝罪と賠償」を求めているそうだ。わが耳を疑うようである。他方わが国では拘留期限を待たずに船長を帰国させたことの是非について議論が起きている。今回このブログを書きながらいくつか学んだ気がする。

1.不可知論は、おそらく二国間においても成り立つということ。おそらく日本が中国に対してとるべき措置に、一つの正解はない。正解がない、というのが国の間にも成立していたことに今回まで気がつかなかった。win-win に基づく互恵関係は国の間では成り立たず、むしろ弱肉強食の原則の方がよっぽど当てはまる。船長を帰国させたことが、とんでもない弱腰、日本外交の敗北という野党の意見も、最善の措置であったという民主党の誰かも、どちらの意見が正しいかは、今後の自体の推移しだい、ということになる。第一「船長を帰国させるという日本の処置は正しかった」というアメリカ側のコメントだけでも、もはやどこにも正義を訴えるところはない(つまり結局は正義は存在しない)ことは明らかなのだ。
2.中国の反応は、少なくとも私の予想を超えた大胆さであり、日本人の発想の域をはるかに超えている。「謝罪と賠償」を求めてくるだろう、などと私はぜんぜん予想していなかったのだ。でもこれも弱肉強食の立場に立てば、彼らの発想がわれわれのはるか上を行く、ということなのだ。

3. おそらく日本が今後行わなくてはならないことは、自分たちの立場をメディアを通して発信し続けることだろう。これが日本人がこれまでやらなかったこと、そしてこれからやらなくてはならないことだ。それこそ中国語でも英語でもやればいい。「粛々と処理をする」は、世界にはまったく通用しない。それを言うなら、「粛々と、自分たちの立場を発信し続ける」べきなのだ。そしてこれを日本は決してやってはいない。個人レベルでは、「粛々と処理する」はまだ通用する可能性がある。誰かがじっと見ていてくれて、最後の裁定を下してくれるかもしれない。しかし国家間では、そんな存在はいないのである。

ところでやっと今日のテーマ。
私は今、この日本の弱腰でお人よしの外交の仕方、あるいは外交手腕の欠如、といったことと日本人のメンタリティーは非常に深い関係にあるということを感じている。そして私の好きな日本人の性質は、おそらく中国にいいようにやられっぱなしの姿勢と共通していることなのである。財布を拾ったら交番に届けることを疑わないこと、また自分が財布を落としたら、届けられているであろうことを期待するところ、そしてそれが国内では成立しているということが、日本人をますます外交音痴にしている。
でもこんなおかしな国が世界で一つくらいあってもいいのでは、という気がする。先進国で唯一の核を持たない国、というのはこのように恫喝されても仕方がないという運命を担っているということを受容する必要があるだろう。
日本は稀有な、やられっぱなしでもおとなしくしている国である。そこにはおそらく彼らにしかわからない美学がある。それでいいのかもしれない。弱小国でも文化と技術があればいいのかもしれない。大国中国には向かわなければ、希土類は輸入させてくれるだろうし。