2010年9月27日月曜日

愛他性 その1. 二者関係と二国問題とは違う    もうこれでよしにしよう・・・・

中国問題が依然として気になる。鳩山さんは「自分だったら中国側と、腹を割って話せたはずだ。」といったそうだが、ピントがかなりずれている。菅さんは、早速鳩山さんを特命大使として中国に派遣するべきだと思う。そして恩首相と会談してもらう。(断られなければ、であるが。)ただし忠告を忘れてはならない。「『トラストミー』などといいながら、おかしな約束をしてこないように!!」

中国政府の報道を耳にするたびに腹を立てている自分に気づく。国は人とは違う。それなのにどうしてここまで中国政府の姿勢に、あたかも人に対してと同じように感情的になってしまうのだろう。中国政府はまさにストラテジーとして様々なメッセージを送り続けるはずである。それに感情的になるのは中国政府の思うつぼということになる。中国の日本に対するメッセージが内政問題の反映である以上、この怒りは本当は持つ必要のないものなのである。ところがどうしてこんなに腹がたつのだろう・・・最近結構こんなことを考えている。でもいい加減に終わりにしたい。

数日前のこのブログで、私は二国間と二者間ではそのメカニズムに大きな差があるという趣旨のことを書いた。親しい間柄でなら、人と人との間には信頼が生まれ、愛他的な関係を持つことができる。人は確かに自分以外の存在を大切にし、その幸せを願うことができる場合があるのだ。これは喜ばしいことだ。人は完全に利己的にしか生きないとしたら、あまりに夢がないではないか。
でもこの愛他性は、国と国の間では成立しないと考えるべきだ。首相同士が信頼関係に結ばれるとしても無理な相談である。原因は人が愛他性を発揮できる範囲は非常に狭いからだ。愛他性を発揮するためには、相手の心のあり方を生き生きと想像する力を働かせる必要があるが、これは決して容易なことではない。目の前で苦しみでのた打ち回る人を見れば、それがアカの他人であっても苦しみは伝わってくるし、何とかしたいと思うだろう。何しろ目の前で起きることなのだから、あまり想像力は必要としない。知覚として飛び込んでくる。しかし地球の裏側にいる、食糧危機で瀕死の子供の事を聞いても、ピンとこない。彼らのために一日一ドルの寄付すらできないのだ。これは別に私たちが冷酷無情だからというわけではない。人間はそういうものなのだ。
もし一時間ほど懇々とその子供たちの悲惨な状況を説明してもらう機会があれば、そしてそれを聞くだけの忍耐力があるなら、そのうち想像力が働き、その悲惨さが伝わってきて、ついには助けの手を差し伸べたくなるかもしれない。しかしそのような機会は普通は与えられない。
そこで改めて問うてみる。A国の国民が、B国の国民に対してどこまで親身になれるのか。どこまで共感できるのか? ほとんど不可能というしかない。「国」そのものが痛みを持つのではない。苦しむのはその具体的な民衆である。「国」にいかに人格を思い入れても、その国民の顔しか浮かんでこないだろう。国と国とが理解し合い、友好関係を結ぶとしたら、それはA国民の大多数がB国民の大多数の体験に同一化し、その幸せを願うということになるが、そんなことなどあり得るだろうか? A国民の一人ひとりが、B国の特定の国民をそれぞれ思いやる、ということなど起き得ない。ただしなぜか憎しみあうことに関しては、二国間で容易に起きてしまう。それで人類は数限りない戦争を起こしてきたのである。
しかしA国民とB国民が判り合えないからと言って、悲観しないことだろう。人間はそういうものなのだと受け入れるしかない。
ところで私は思うのだが、よその国に馬鹿にされて黙っていることほど、難しいことはないとつくづく感じる。岡田さんや前原さんのように断固とした態度を取る政治家は、こういう時は受けがいい。特に中国により見下され、挑発される今回のような場合はなおさらだ。私も石原都知事が中国政府の態度に関して品のない言葉を吐くたびに、胸のすく思いを持っている。
でも我が国を太平洋戦争に突入させた原因の一つはまさにそれなのである。堂々と権利を主張し、正義を貫くという姿勢が実を結ばないことはいくらでもあるだろう。その時は相手の力に屈し、戦争を回避しなくてはならない。その為の勇気というのも私たちは必要としているのだろう。