2010年9月28日火曜日

二者関係 その1. 人と関わるということ

 あれほど日本の政府関係者が「絶対謝らないぞ!」と言ったのだから、中国側からさぞかし反応があるのかと思いきや、そうでもないのだろうか?少なくとも私がチェックしているインターネット上のニュースには出てこない。その代わりに見つけた読売新聞(インターネット版)の記事。こんな風に言ってもらったとき「人に理解してもらえた」って感じるんだろうね。以下はその抜粋。
【ワシントン=小川聡】尖閣諸島沖の日本領海内で起きた中国漁船衝突事件をめぐり、日本政府による中国人船長釈放にもかかわらず強硬な主張をやめない中国に対し、米メディアで批判が広がっている。27日付のワシントン・ポスト紙は、「ますます威嚇的な中国に直面するアジア」と題する社説を掲載。事件について、「中国が国家主義的で領土に不満を抱えた独裁国家のままであることを世界に思い出させた」としたうえで、「中国は船長釈放後もさらに(日本に)謝罪を求めている。こうした振る舞いは、国際的なシステムに溶け込もうという気のある、節度ある国のものではない」と批判した。 ニューヨーク・タイムズ紙も同日付の記事で、米政府当局者が「日本は事態が手に負えなくなることを防ぐために重要なことを行った」が、「中国がこれ以上、何を欲しがっているのか、我々にはわからない」と、中国に不信感を示す様子を紹介した。

ところで二者関係というテーマでまだ改めて書いていなかったことに気がついた。ネット社会が人々の行動様式を変えてきていることは確かなのだろうが、非常に印象深いことがある。それは本当の意味での引きこもり状態というのは少ないということだ。私はネット社会が引きこもりを生んだとはまだ思ってはいないが、引きこもりが遷延する理由のひとつにはなっていると考えている。あるいは引きこもりの人たちの人生に何らかの意味を与えることに貢献している、というべきだろうか?

彼らは人とのかかわりを求めているのである。引きこもっていてもブログは持っている、という人も多い。RPGを通じてネット上の友達を持つ人もいる。直接対面するという形をとるか取らないかは別として、何らかの形で人とかかわりを持ちたい、という願望を持たない人のほうが少数派だろう。うつ状態が深刻になり、話す元気がなくなっても、それでも人は気心の知れた人と話したいという願望を残しているものだ。

二年前の秋葉原事件の犯人加藤智弘は、ネットこそが人生のすべてであるような言い方をしていたように記憶している。自分が何かを発信して、何かの反応を得たい。人嫌いでかかわりを持とうとしないひとでさえ、じぶんのメッセージを誰も聞いてくれないから、という理由でそうなっている可能性が大いにある。自分のメッセージに的確に反応をしてくれる人の存在なら、むしろありがたいのである。

精神療法の基本的な意義を考える際も、そのそのレベルにまで降りる必要があると思う。精神療法の世界では、「何が有効なのか what works?」という疑問に対する答えは依然として出ていない。最近はやりの観のある、関係理論relational theory などは、他人の関係、としか言いようがない、すなわち答えは見出せない、ということに関して開き直った答えを提示しているようだ。

この問題について、いかに精神療法の世界は遅れているか、と考えているよりも、いかにこの問題が複雑なのかを示していると考えるべきだ。人類は非常に具体的でデジタルな思考や解答が見出せることについては、すばらしい成果を遂げている。宇宙がどのようにできたのか、物質は何により構成されているか、などの問題についてこれまで想像もできなかったような詳細がわかりつつある。でも「精神療法はどうして有効なのか?(あるいは、本当に有効なのか?)」に結論が出ないということは、この分野がいまだに未開であり、無限の可能性を占めているということを意味する。この点が不可知論とも結びつくことはご理解いただけるだろう。不可知論が面白いのは、その可能性もまた無限だからだ。