ある強迫の患者さんは普段は心優しい中年男性だが、加害恐怖が深刻になり、入院していた。彼はロビーにたたずんで、自分が歩いてきた後を振り返り、たまたま通りかかった私に、「そこに誰かが(自分が殴ったせいで)倒れていないか」をかなりしつこく問うてきた。(もちろん誰も倒れているはずもない。)私も何度も同じ質問をされて嫌気がさし、また彼のためにも必要かと思い「もうお答えできません」と言った。すると彼は私に殴りかかってきたのである!
2025年8月14日木曜日
対談を終えて 9
ある強迫の患者さんは普段は心優しい中年男性だが、加害恐怖が深刻になり、入院していた。彼はロビーにたたずんで、自分が歩いてきた後を振り返り、たまたま通りかかった私に、「そこに誰かが(自分が殴ったせいで)倒れていないか」をかなりしつこく問うてきた。(もちろん誰も倒れているはずもない。)私も何度も同じ質問をされて嫌気がさし、また彼のためにも必要かと思い「もうお答えできません」と言った。すると彼は私に殴りかかってきたのである!
2025年8月13日水曜日
対談を終えて 8
ここで少し脱線だが、この嗜癖と強迫の類似性に関しては、そもそも決定的な違いがあることに気が付く。それは嗜癖の場合明らかに快感に結びついているが(例えばセックスをしたい、ヤクをやりたい、というのはそれがそもそも快感に結びついているからだ)、強迫、例えば「なんども手を洗いたい」に快感は結び付いていない。ということは、強迫はドーパミンの関与なしで説明できなくてはならないのではないか。その点をチャット君に向けてみた。以下はチャット君からの回答の丸写し。いかに彼が的確かを感じる。そして問題の核心の一つの謎が解けた気がする。ドーパミンは快感以外にもしっかり関わっていたということだ。
まず、問題提起の整理:
問いはこうだよね:
嗜癖と強迫は似ているけれど、「快感があるかどうか(liking)」の点で決定的に違う。
嗜癖には「快感」がある(あった)が、強迫(例:手洗い)にはそれがない。
したがって、強迫は「wanting(衝動)」はあっても、「liking(快感)」はない。
→ じゃあ、それってドーパミン抜きでも成立するはずでは?つまりグルタミン酸だけでいいのでは?
完璧な問い立てだよ。Toatesの“wantingとlikingの乖離”を強迫にも拡張しようとする、鋭い試みだ。
🔹まず結論を先に言うと…
強迫症状(OCD)にもドーパミンは関与している
…けれど、その役割は嗜癖とはまったく異なる。
そして、グルタミン酸の関与はむしろ「強迫らしさ」を支える構造とされている。
つまり:
嗜癖 | 強迫 |
ドーパミン中心、快楽強化型 | グルタミン酸中心、意味づけ・制御ループ型 |
liking → wanting | wanting(のみ)or relief |
報酬系の活性 | 認知的葛藤の解消 |
🔸では、なぜ「快感がないのに衝動がある」のか?
ここが一番の謎。ここで登場するのが、**「負の強化(negative reinforcement)」**という概念。
嗜癖:
→「得られる快感」によって強化される(positive reinforcement)強迫:
→「不安が軽減されること」によって強化される(negative reinforcement)
つまり、「洗うこと」は快感ではないけれど、洗うことによって「不安(=汚染されてるかも)」が減る → これが報酬なんだね。
そして、ここでもドーパミンは「行為→結果(不安軽減)」の学習ループを形成する役割を果たしていると考えられている。
🔹ドーパミンの働きのちょっとした整理:
系統 | 機能 | 関与する行動 |
メゾリムビック系 | 報酬予測、快感 | 嗜癖、動機づけ |
メゾコルチカル系 | 実行制御、注意 | 強迫、不安処理の学習 |
強迫の場合は、「報酬」ではなく「回避成功の記憶(relief)」が学習されているんだね。
つまり、ドーパミンが関与しているとしても、快感そのものには対応していない。
🔸では、グルタミン酸は何をしている?
グルタミン酸は:
PFC(前頭前野)→線条体の回路で、
→「あるべき行為(例:洗うべき)を遂行しろ」という強制的信念を保持・活性化習慣化されたループを維持する
→ 意味のない反復動作を“やめさせない”記憶・文脈・cueと結びついてトリガーを増殖させる
つまり、「洗わなければ気がすまない」という強迫的な信念と動作の回路は、
ドーパミンの「行動→結果」連結と、グルタミン酸の「記憶・意味・義務化」の回路が共犯的に働いていると考えられる。
🔹まとめ
✅ 強迫行動にもドーパミンは関与しているが、快感とは無関係。
→ それは「不安軽減」という形で、負の強化回路に参加している。
✅ グルタミン酸は、「この行動をやらねばならない」という記憶・義務感・文脈処理を支えている。
✅ よって、ドーパミンなしでも強迫は成立するかもしれないが、実際には「強化学習の回路」としてドーパミンも微妙に絡んでいる。
2025年8月12日火曜日
対談を終えて 7
<次にいよいよISモデルが出てくる。この登場によって嗜癖の問題への私たちの理解は確実に一歩進んだと言えるのだ。そしてToates の理論はもちろんこれを含みこんでいる。>
2. インセンティブ・サリエンス(Incentive Salience)理論との接続
Toatesは、Berridge & Robinsonの「インセンティブ・サリエンス理論」を援用して、
「欲求(wanting)と快楽(liking)を区別する」重要性を強調している。
「liking(快感)」は弱くなっていても、
「wanting(欲求)」だけが感作(sensitized)されてしまい、
本人がもう楽しくもないのに求めてしまうという状態が生まれる。
3. 性的刺激と条件づけ
Toatesは、性的な興奮は単なる「物理的刺激」だけでなく、
条件づけられた記号・文脈・想像によっても強く喚起されるとする。
例:ある音楽や匂い、あるタイプの服装などが性的衝動を引き起こす。
このようにして、「心的表象(mental representation)」も性嗜癖のトリガーになる。
🔹性嗜癖の構造:Toatesの主張まとめ
System 1 が過活動化しやすい
System 2 が機能不全か、慢性的に疲弊している
wanting と liking の乖離(=報酬の感作)
文化・環境的な強化要因(=社会的・ネット的な刺激過剰)
個人的な意味づけと苦悩(=空虚さや羞恥心がループを形成)
Toates は臨床的含意として、このモデルを通じて、性嗜癖を「病理」としてだけでなく、
情動調整の失敗
自己アイデンティティの揺らぎ
ストレスと快楽探求の回路
として捉えるべきだと述べている。そしてToatesのモデルは「性愛性を持つことがなぜ『苦しみ』とつながるのか?」という問いにもつながること、 性愛が生のエネルギーであると同時に、自己破壊的な回路にもなりうるという視点は、 精神分析的な枠組みと合わせて考察するのに非常に豊かな土壌だと思う。
<以上がチャット君のまとめ。しかし「えっ?それだけなの?」と拍子抜けしてしまう。どこが新しいのだろうか?チャット君が省略し過ぎているだけなのか? ここでこの間知ったグルタミン酸の関与についてもチャット君に訊いてみた。「ところで最近は嗜癖に関してドーパミンだけでなくグルタミン酸の関与も指摘されているけれど、このToatesの理論はそれに関して何か言っているの?」>
するとチャット君は以下のようにまとめてくれた。
🔹Toates理論とグルタミン酸の関与
✅ 1. Toates自身の立場:
Toates (2022) はこの論文の中で、ドーパミン系(特に「wanting」に関与する中脳辺縁系ドーパミン)を中心的に据えているけれど、
実はグルタミン酸系についても簡単ながら触れている。
その記述は端的だけれど、以下のような重要な含意がある:
「ドーパミンとグルタミン酸の相互作用こそが、行動の維持や条件づけを支えている」
— Toates (2022, p. 9あたり)
つまり、彼はドーパミンだけでは「習慣化された行動パターン(compulsive behaviour)」は説明しきれないと見ていて、
グルタミン酸が「cue-triggered wanting」の神経基盤として重要であることを認めている。
✅ 2. グルタミン酸の役割の具体性(Toatesの含意)
Toatesの立場では、グルタミン酸系は主に以下のような役割を果たしていると読める:
前頭前皮質(PFC)からのトップダウン制御に関与
→ System 2(理性的抑制)の機能低下にも関連扁桃体や側坐核などでの「cueの学習・意味づけ」に寄与
→ ポルノや記号刺激に対する条件づけの強化過学習された性的衝動の再活性化(=トリガー)
→ 外部刺激によって自動的に活性化される神経回路の強化
要するに、一度条件づけられた「性的なcueと快感の連合」が、グルタミン酸経路によって再活性化・固定化される、という構図なんだ。
🔹なぜこれは重要か?グルタミン酸の関与を取り入れることで、Toatesのモデルは「快楽を求める衝動(dopaminergic)」だけでなく、
「学習された記憶・意味の回路(glutamatergic)」という時間的持続性を説明できるようになる。つまりこう言える:
🧠 ドーパミンは「瞬間の火」、グルタミン酸は「記憶された薪」
→ 衝動を燃え上がらせるのはドーパミン、でもその燃料を蓄積・再点火するのはグルタミン酸。
🔹補足:強迫性との関係も示唆?
さらに面白いのは、Toatesが暗に示すこのモデルが、 性的嗜癖と強迫性(OCD的傾向)とのオーバーラップも視野に入れている点。グルタミン酸はOCDでも関与が深く、「意味はないのにやめられない行動」の背景にある神経機構として注目されている。したがって、Toatesの理論は以下のようなハイブリッドな構図を提案しているとも言える:
ドーパミン:刺激・衝動・報酬の強化
2025年8月11日月曜日
対談を終えて 6
さてここからがひと仕事しなくてはならない。それは男性の性愛性の嗜癖モデルを、インセンティブ感作理論を含めてより包括的に展開している Frederick Toates (2022) の論文「A motivation model of sex addiction(性嗜癖の動機づけモデル)」についてまとめてみることだ。やはりこの Toates の理論が今のところこの問題に関して一番完成されたもののようである。しかしそのまとめはもちろん一人ではできない(というより時間がない)。そこでチャット君の登場である。この論文を読むことなく、以下のようなまとめを作ってくれた。素晴らしい。私自身のコメント(< >部分)を挟みつつ以下に検討しよう。
全体概要:
Toatesはこの論文で、「性嗜癖(sex addiction)」を動機づけシステムの観点から理解しようとする理論モデルを提示している。彼の基本的な問いは、なぜある人たちは、理性的には望んでいないのに、性的な行動をやめられないのか、ということである。ここら辺はISMの主たる関心事である。
Toates 理論の二つの中心的アイデア:
1. 二重過程モデル(Dual Process Model)
Toatesは「快楽」や「行動衝動」がどのようにして生じるかを、「二つのプロセス」で説明する。
✅ System 1(自動的・感覚的・衝動的)
→ たとえば、ポルノ画像や誘惑的な刺激を見たとき、無意識的に身体が反応してしまう。✅ System 2(制御的・理性的・抑制的)
→ 「これはまずい」「これ以上やめておこう」と判断し、衝動を抑えようとする。
性嗜癖の本質は、このSystem 1の暴走とSystem 2の失調のギャップにあるとToatesは考えている。
<うん、ここまではいいだろう。そして人は酩酊をしたりすると、このsystem 2が損なわれ、スキャンダラスな行為に走ってしまうことになる。しかしそもそもSystem 1が備わっていることそのものが男性の置かれた宿命(どうしようもなさ)と言えるだろう。>
2025年8月10日日曜日
対談を終えて 5
② インセンティブ感作理論
まず今春出した「脳から見えるトラウマ」の「男性性とトラウマ」の章で書いた部分をまず引用する。つまりこの時点では以下の程度のことしか書けなかったわけだが、今回はISMに関連させつつ、それをもう少し拡張したいと思う。
男性性のもう一つの問題は、その性的な欲求は、それが楽しさや心地よさを得ることで充足されるとは必ずしも言えないということである。むしろそれが今この瞬間にまだ満たされていないことの苦痛(すなわち一種の飢餓感)が、男性を性行動に駆り立てるという性質を有する。身も蓋もない言い方であるが、男性の性愛欲求の達成は「排泄」に似た性質を有するのだ。
このような性質をもう少し学問的に表現するならば、男性の性的満足の機序は、嗜癖モデルに似ているのだ。さらに詳しくは、いわゆる incentive sensitization model (ISM)(インセンティブ感作理論,Berridge & Robinson, 2011)に従ったものとして理解をすることが出来る。このモデルは次のように言い表される。
嗜癖行動においては、人は liking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまりそれが満たされることで得られる心地よさは僅かでありながら、現在満たされていないことの苦痛ばかりが増す。これが渇望の正体であり、これは一種の強迫に近くなる。
男性の性愛性もこの嗜癖に近く、ある種の性的な刺激が与えられると、性的ファンタジーが湧き、この wanting だけが過剰に増大する。しかし通常はそれを即座に満たす手段がないために、それを抑制するための甚大なエネルギーを注がなくてはならないのだ。
ところでこの liking (以下L)と wanting (以下W)との違い、さらっと聞くと分かった気になるが、よく考えると実に難しい。例えばスロットの依存症になっている人を考えよう。スロットをやっている最中に感じられる「楽しいなあ」という気分がLだ。ではWは?スロットをやっている最中にはそれは体験できない。だってスロットをやっている時には「ああ、やりたい、やりたい」とはならないからだ。しかしスロットをやっている最中にWを体験する特別な方法がある。それは今、スロットをすぐさまやめて帰宅する、ということを想像した時に体験されるのだ。「今このスロットを楽しんでいる(あるいはいない)が、これを今やめることは絶対出来ない」という形で体験されるのがWであるとするならば、WとLは全く違った体験ということになる。Lはスロットをやっている今味わっていること。それに比べてWはスロットをやっていない時にスロットをやっている体験を想像した時、あるいはスロットをやっている時にそれを止める体験を想像した時に味わわれる。Wはある体験の欠損状態において体験される、こう言ってしまえばいいか分からないが、バーチャルな感情体験なのだ。そして同じような体験としては強迫行動がある。カギをチェックしている時は馬鹿らしいと思う(Lはむしろマイナスだ。)しかしチェックしないことを想像すると居ても立っても居られない。構造としては似ているのだ。
2025年8月9日土曜日
FNDの世界 推敲 1
FNDの歴史について。結局最初に長々しく断り書きを入れることにした。
はじめに
本稿ではヒステリー(変換症、FND)の歴史を精神医学の立場からさかのぼる。初めに本稿で用いる用語について述べたい。変換症とはDSM-5以降我が国の精神医学においてconversion disorder の訳語として用いられるようになったものであり、それ以前は転換性障害、転換症などとされていたものを、脳波異常を伴う癲癇(てんかん)との混同を避ける意味でこのように言い換えたものである。そこで本稿での変換症とは従来の転換性障害と同義語として用いることにする。またFNDとは機能性神経症状症 functional neurological disorder の頭文字であり、これはDSM-5において conversion disorder に代わって提案された表現であるために、2013年のDSM-5の発刊以前の時期に関して論じる際には変換症、それ以後はFNDとして言い表すことにする。もちろん両者を統一してFND(または変換症)とすればいいであろうが、実際に当時存在せず、概念としても異なるものをそう呼ぶことにも抵抗があるために、このような呼び方をする。また変換症とFNDは、その病態としての表れは同一のものという前提で論じる。
2025年8月8日金曜日
FNDの世界 12
実はここら辺、相当苦労しながら書いている。何しろ従来の転換性障害 conversion disorder (CD)は、変換症と呼ぶべきだったり、機能性神経症状症(FND)と呼ぶべきだったりと、さまざまなのだ。どの用語をどの文脈で用いるべきかをいろいろ考えながら書かなくてはならない。 ともかくもconversion という用語を用いなくなった事情には、患者が偏見や誤解の対象となることを回避すべきであるという倫理的な配慮も働いていた。これについてDSM-5には以下のような記載が見られるからだ。 「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339) ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる「心因が存在すること」、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。 このうち心因については、DSM-5,ICD-11では診断基準としては問われなくなったことは、上で転換という概念がなくなりつつある理由として示した通りである。それでは「症状形成が作為的でないこと」についてはどうか。 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それがこれまでに述べたヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。 また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。 さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 la bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。 ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はそれなりにあったであろうと私は考える。
身体科からの歩み寄り
ところでFNDについては最近新しい動きが見られる事にも言及しておきたい。それは神経内科の側からも関心が寄せられるようになったことである。そしてICD-11では初めて転換性障害がFND(より正確には解離性神経症状性障害、FNSD)として精神医学と脳神経学 neurology の両方に同時に掲載されたのだ。その事情を以下に説明するが、ここからは転換性障害ではなくFNDという表現を用いることにする。というのも脳神経内科ではもともと転換性障害という用語は使われない傾向にあるからだ。
一つには脳神経内科の外来にはFNDを有する患者がかなり含まれるという事情がある。 実際には脳神経科の外来や入院患者の5~15%を占めるといわれる。またFND は癲癇重積発作を疑われて救急を受診した患者の50%を占め、脳卒中を疑われて入院した患者の8%を占めるという(Stone, 2024)。そのため脳神経科でもFNDを扱わざるを得なくなっている。そしてそれ以外の身体科、例えば眼科、耳鼻咽喉科、整形外科などにも同様のことがいえる。つまり精神科医以外の医師たちがいかに機能性の疾患を扱うかというのは従来より大きな問題だったのである。
また先ほど転換性障害は陰性所見ではなく所見の存在(陽性所見)により定義されるようになったという事情を述べたが、実際に脳神経内科には Hoover テストのように、ある所見の存在がFNDの診断の決め手となるような検査法が知られていることも追い風になっている。