2020年1月12日日曜日

顕著なパーソナリティ特性 3


 そもそも書いていてつくづく思うのだが、そして白状しなくてはならないのだが、私は性格特性の5 因子モデルとやらが実はよく分かっていない。というか、疑っている。
  性格特性とはこんなことだ。
 人には性格というものがある(らしい)。それを分類するにあたって、どのような因子を取り出せばいいのだろうか? これは簡単なようでいて難しい。例えば怒りっぽさとイライラ度という二つの因子を抽出するのはあまり意味がない。大体の人は二つとも高いか、それとも低いか、ということになり、要するに互いが独立変数になっていない。優しさと厳しさはどうか。でも優しいけれど厳しい人もいるし。人によって態度を変える人もいるし・・・・。ということで最終的に統計的な手法を使って絞ったのが、5 因子モデルというわけだ。
 まあそのくらいのことは私にもわかる。でもこの5 つにどこまで信ぴょう性があるのだろうか?
そこでいろいろ ICD-11 のPD に関する論文を読んでいくうちに、だんだんこの論文を書くことがいかに大変かが分かってきた。何しろ2018年の6月にこれが発行になったわけだが、電子版でしかでていない。まあこれはだれでもアクセスできるという意味ではありがたいのだが、なんだかアップデートされていく雰囲気なのだ。今ネットで調べているのは、2019年4月に改訂になっている。つまりこの論文では、発行されたばかりの出来立てホヤホヤの診断基準について教科書的なことを書かなくてはならないのだ。これは悠長にブログで書く場合ではない。と言いつつも、ほかの方法はないので続けるしかないが。
ということで少し焦りを感じて、何をすべきかを考えた。そしてどうやら私がすべきなのは、このネットで、そしてもちろん英語でしか見ることのできない「否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性」という特性を和訳することらしいということに気が付いた。もちろん誰もその訳を発表していないのだ。まあそれでこの論文の一つの役割は果たせるということになるのかもしれない。
そこで早速、「否定的感情」から。

パーソナリティ障害やパーソナリティの問題 personality difficulty における否定的な感情
  否定的感情の特性域 trait domain の中核となる特徴は、広範囲にわたる陰性の情動 negative emotions [訳注 否定的、という訳よりは陰性の、のほうがより適切と思われる]を体験する傾向である。否定的感情は、それがある時点においてある個人にすべて表出されるわけではないが、以下のような共通した表現を伴う。広い範囲にわたる陰性の情動が、その状況に不釣り合いなほどの頻度や強度をもって体験されること・情動の不安定さ emotional labilityと感情のコントロールの乏しさ・悲観的な態度 negativistic attitudes・低い自尊心や自信・他人への不信感 mistrustfulness。

 やっぱり「negative」 は、否定的、というより陰性の、という訳のほうが少しいいような気がする。例えば怒りは、否定的感情、というよりは陰性の感情と言うほうが、少しだけよくないだろうか?

ちなみに原文は以下の通り。
6D11.0 Negative affectivity in personality disorder or personality difficulty
The core feature of the Negative Affectivity trait domain is the tendency to experience a broad range of negative emotions. Common manifestations of Negative Affectivity, not all of which may be present in a given individual at a given time, include: experiencing a broad range of negative emotions with a frequency and intensity out of proportion to the situation; emotional lability and poor emotion regulation; negativistic attitudes; low self-esteem and self-confidence; and mistrustfulness.

2020年1月11日土曜日

ポリヴェーガル 2


ところで私たちは「自律神経」をどのようにとらえ、理解しているだろうか。おそらく全然その本質を理解していないし、実は私自身もそうなのだ。「自律神経失調症」という言葉は非常によく聞くが、使っている方も、それを聞いたほうも、実はその内容を理解していないで、なんとなく言葉の雰囲気に納得しているということではないか?自律神経とは何か、と言われても一言では答えられない。それはそこに含まれる要素があまりにも多いからだ。「体調が悪い」ってどういうこと、というのと似ている。実に様々な「体調の悪さ」が存在して、とても一言ではくくれない。
一般の方々にとっては、自律神経が何であろうとあまり重要ではないかもしれないが、精神科医としては、次のようなことが起きて、問題の深刻さを味わう。ある体の症状、例えば食欲のなさをうったえる人が、内科医を訪れるとする。しかしその医師ははっきりした医学的な所見を見出せないとしよう。そこで説明を患者さんから求められた医師は「うーん、自律神経のせいでしょう・・・・。」などと説明するのだ。そして患者さんが精神科にかかっているのを知ると、力を得てこう伝えるはずだ。「じゃあ、ぜひ精神科の先生に相談してください。」そして患者さんは精神科医のもとに戻り、こういう。
「先生、自律神経の薬をください。」
「でも・・・・」と私は心の中でつぶやく。「私はその薬をこれまで出してきたつもりなのですが…。」
ここで起きていることを説明しよう。すでに言ったとおり、自律神経の乱れ、あるいは失調、とひとことで言っても、実に様々である。それはいわば体のコンディション全般に及んでいると言ってもいい。そして心の乱れは自律神経の乱れを生みがちだし、自律神経の乱れは心の乱れ、例えば鬱とか不安とか苦痛を生む。このように両者は相互関係にある。そして大抵は「どちらが先」かが分からない。
例えば気持ちが落ち込んでいる人が、夜の不眠を訴えているとする。睡眠のリズムを調節するも自律神経の大事な機能だ。すると何らかの原因、例えばカフェインの摂り過ぎや夜遅くまでのスマホのゲームでまず睡眠障害が起きて、それが抑うつ状態を引き起こしたのかもしれないし、鬱が最初で眠れなくなったということかもしれない。ということは鬱に対する薬(抗鬱剤)を出すことで、鬱をまずよくすることを考えたら、鬱に伴う自律神経症状も改善していく可能性がある。だから自律神経全般の乱れを改善することで睡眠障害を直す、とすると、それはもう精神科の症状に対する治療そのものということになるのだ。
さらに大事なことがある。自律神経全般を改善する薬、というのが、実は存在しないのだ。先ほど言った通り、自律神経の状態とはもう、体全体の状態と言っても言い過ぎでないほどに、それが含む機能は途方もなく多い。自律神経をあえて定義するとしたら、意識的にコントロールできない、その意味でそれ自身が「自律的」な神経系の全体、ということになる。そしてそれは心血管系、消化器系、内分泌系、体温の調節、睡眠など、様々なものに及んでいる。自律神経、という神経が一本体にとおっていて、それが正常に働いているか、異常をきたしているか、というのとはわけが違う。血圧ひとつとっても、高すぎるのも、低すぎるのもどちらも自律神経系の異常ということになるが、使う薬は正反対だったりする。だから自律神経の乱れそのものを治す薬、というのが存在しないというわけなのだ。
自律神経の本質はこう言いかえてみるといいかもしれない。「自律神経は、体の諸機能のバランスを取る神経系統である」と。血圧も脈拍も、体温も、腸の動きも、昂進しすぎず、低下しすぎず、ちょうどいいバランスが取れることが自律神経の目標だ。それはそうだろう。例えば腸の動きのバランスが崩れた状態は、下痢になったり便秘になったりして大変だ。日常生活を大過なく送っていかなくてはならない私たちにとっては大迷惑だ。私たちが「普通」でいられることは、実は自律神経の微妙なバランスの上にあるということなのである。そしてそのバランスは、ちょうど左右のバランスの取れた天秤のように、様々な理由でいとも簡単に崩れる。自律神経の失調とはそういうことだ。
だからもし自律神経を一律に改善する薬を考えるとしたら、精神の安定を目指すということになる。自律神経の全体の失調がうつ病によって引き起こされているという場合には、鬱の治療が結局は自律神経全体の治療ということになるわけだ。
ここまででなぜか自律神経の失調と精神疾患をあまりにも結び付けて考えているのではないか、という疑問の声が聞こえそうだ。精神の変調をきたすことのないような自律神経の失調があってもいいのではないか。あるいは自律神経の失調を伴わない精神の変調があってもいいのではないか、という意見もあるだろう。でも私は精神疾患で身体症状を伴わないものをほとんど知らない。睡眠や食欲や脈拍や呼吸などが一切問題なく、ただ症状に悩まされるという状態は、普通起きない。軽症ならありうるが、深刻な症状にはほぼ必然的に自律神経系の症状がともなうのだ。また自律神経の症状に悩まされながらも精神に影響を与えないことは理屈ではあり得ても、臨床上は考えられない。第一苦しむ、ということはすでに精神の症状ではないか。このように精神の症状と身体の症状はほとんど連続的であることがわかるだろう。
ところで慧眼な読者は今、身体症状と自律神経症状を私が一緒のものとして使いそうになったことにお気づきだろう。この説明も厄介だが、自分の考えをまとめる意味で、少しふれておこう。
体の症状の少なくとも一部は自律神経の失調を指すと見ていい。動悸がする、緊張して胃が痛い、あるいは下痢をする、多量の汗をかく、などはまさに心臓や消化管や汗腺の活動を支配している自律神経の失調の結果だ。ところが頭痛がする、腰痛がする、体が怠い、というのはどうだろうか。頭痛なら脳の血管の拡張が原因ならそれは自律神経だが、坐骨神経の一部が脊椎の変形した骨に物理的に圧迫されている結果かもしれず、こちらは自律神経の問題とは言えないだろう。また怠さは様々な医学的な原因から生じるとすれば、これだって自律神経とは言えない。それこそビタミンの欠乏でだってだるさは起きうる。だからひとことで身体症状と言っても自律神経の関与は様々ということになる。
ところが例えば腰痛を持つ人に神経学的な検査をしても何も異常が見つからない時、神経内科医は「自律神経の影響でしょう」、とか「ストレスでしょう」、と言うだろう。つまり医学的に原因の不明な痛みは、自律神経のせい、ストレスのせい、ということにされてしまうし、その意味で原因のわからない体の症状は皆一緒くたに扱われるのが現状である。そしてそれをジリツシンケイのせい、と言っても誰もそれを問題にしないし、むしろそれがスマートな表現ということにさえなる。

2020年1月10日金曜日

顕著なパーソナリティ特性 3


さてICD-11マインドを持った医師は、患者さんのPDについて、「何チャラPD」のことを考えるのではなく、いわばジェネリックなPDがあるかどうか、ということを考える。なぜならICDの診断では、まず問われるのがそれだからだ。そこには「何チャラPD」という診断はあてにならない、という思いがある。DSMで延々と用いられてきた、例えばボーダーラインとか、自己愛とか、スキゾイドなどは、あまりにもオーバーラップをし過ぎていて、結局はPDのあるなし、だけが重要じゃないか、という議論になったからだ。これを難しい言葉で、polythetic (多元的)な診断ではなく、monothetic (一元的)な診断方針で行きましょう、と言い表すことが出来る。 ではどのような人がPDなのか、ということだが、以下のように言い表すことが出来る。「認知、感情体験、感情表現、行動のパターンの障害」を有するということ。どうだろう? これでわかるだろうか? ウーン、なんとなく? 思い出そう。DSMのPD は、A群、B群C群に分かれていた。A群はたとえばスキゾイドなどの認知系の問題、B群はボーダーラインなどの行動系の問題、C群は依存、抑うつなどのどちらかと言えば感情体験の問題とされた。つまりA,B,C群すべてに共通している問題はとなると・・・・。結局「認知、感情体験、感情表現、行動のパターンの障害」となっておかしくない。つまり ICD-11 の言っていることは当たり前のことだ。それでも私たち(臨床家)はどちらかと言えば、「あの人はPD があるのではないか?」と思うより前に、あの人にはたとえば「反社会性があるのではないか?」というカテゴリカルな見方が先に立つ傾向があるのだ。たとえて言えば「あの人は体の病気だ」と思うより前に「あの人は糖尿病なのだ」と認識する傾向にあるということだ。ただし体の病気なら、「心臓病だ」という医師と「内分泌系の病気だ」という医師の意見があまり重ならないのに、こ とPD となるとここで医師の個人差や診断上の重なりが起きてしまうという事態があり、それが心の問題そのものの性質によるものだという問題があるのである。これが心の問題をややこしくしているのである。DSM のカテゴリカルな診断は、PDをあたかも体の病気と同じように診断しようとしてきた結果、そこに生じる矛盾が明らかになり、大幅なモデルチェンジを迫られているという事情があるのである。
さてここからがややこしい話になるのだが、どうしてそれに代わってディメンショナルモデルがこの時期に出てきたか、ということになる。カテゴリカルな分類をしない、と言いながら、例の特性があげられている。「否定的感情」、「離隔」、「非社会性」、「脱抑制」、「制縛性」という五つだ。だったらいっそのこと、「否定的感情 PD」、「離隔 PD」、「非社会性 PD」、「脱抑制 PD」、「制縛性 PD」というのを作っちゃえばいいのではないか、という話になる。いや、確かにそうだ。だって非社会性、というのはかなり「反社」に近いのだから、これはそのまま生かせそうだからだ。そしてボーラ―ラインも別格扱いになっているようだから、これでBPD も復活。後は制縛性だってかなり強迫的パーソナリティと名前を付け替えてもいい感じだ。(ただしDSMの「強迫性 PD」はこれとはニュアンスが違うのでご用心。)あとは離隔は「孤立・孤独傾向 PD」 と言い換える。脱抑制は「衝動的 PD」などと言い換える。これでいいのではないか? またオーバーラップの可能性が出るのではないかって? しかしこの5 つの特性は例の五因子モデルから来ているのであろうし、これらはパーソナリティ構造を構成する、比較的独立変数的な性質を持った 5 つとして抽出されたもののはずだ。
これらの考えは間違っているのだろうか? 私はこの時点で本気でこう言っているのであるから、まだ自分の間違いを訂正できるように論文を読み込まない限り、このテーマについての論文は書き進められないことになる。それともう一つ、私が分からないことがある。それはDSM-5 の代替案として出てきたディメンショナルモデルの特性項目5つ(否定的感情、離脱、対立、脱抑制、精神病性)と、ICD-11で出てきた5つの特性項目(否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性)が微妙に一致していないのだ。どうしてだろうか? 翻訳の問題だろうか。そこで英語の表現を拾ってきて比べてみる。

ICD-11の否定的感情 negative affectivity、離隔detachment、脱抑制disinhibition、非社会性 dissociality、制縛性 anankastism

DSM-5の否定的感情 negative Affectivity、離脱 detachment、脱抑制 disinhibition、対立 antagonism、精神病性p sychoticism。

なんだ、あまり変わらないや。後はDSMの対立 antagonism というのが結局は一種の反社会性、ということを分かっていれば、両者はほぼ同じものと考えられる。すると唯一の違いは、DSMの精神病性と、ICDの制縛性。この両者はかなり違うものである。この違いはどこから来たのか。ウーン、少し面白くなってきた。

2020年1月9日木曜日

顕著なパーソナリティ特性 2


もう少し具体的に見よう。まずパーソナリティ障害の程度として、経度、中度、重度、と分ける。そしてパーソナリティ特性として否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性のどれかを上げる。またボーダーラインの傾向のあるなしを示すことが出来る。ちなみにこれからは、、パーソナリティ障害は「PD」に、パーソナリティ特性personality trait は「PT」に省略しよう。
ここからはある論文を頼りにして書いていく。Bach, B and First, M (2018) Application of the ICD-11 classification of personality disorders. BMC Psychiatry volume 18,351 というオンラインジャーナルの論文だ。そこに挙げられているICD-11 によるパーソナリティ障害の例は、こんな感じだ。
「29歳女性、PDの程度は重度、ボーダーラインパターンあり、そして顕著なPTとしての否定的感情 negative affectivity、否社会性dissociality 、脱抑制 disinhibition」
ふーん、ディメンショナルモデルでも悪くないか。深刻な程度、と付くだけでなんとなく大変な方、ボーダーラインパターン (+) ということでその傾向はわかるし、そうなるといつも怒っている(否定的感情)、相手のことを考えない(非社会性)、衝動的(脱抑制)ということは言わずもがな、というがわかる。後は脱抑制、とか制縛性、とかの用語のニュワンスが分かれば使いやすくなるだろう。
もう一つ別の例として次のようなものも挙げられている。
「26歳の男性、PDの程度は重度、PTとしての非社会性 dissociality、脱抑制 dysinhibition と離隔 detachment」
こちらは少しわかりにくいが、深刻、ということで大変な方、人に迷惑をかけて衝動的で、非社交的、ということで孤独傾向があるがはた迷惑で衝動的。ただし否定的感情という性格特性があげられていないということは、怒ったり不安がったり、という苦しんでいる様子が見られない。するとパッと目にはわからなかったが、反社会的なお方、ということが見えてくる。何しろ「否定的感情」があげられないということは本人は苦しんでいない、ということだから。
この論文には、このように示された人のもう少し詳しい様子が描かれているので、この26歳の、反社会的ではないかと疑われる人の記載を読んでみると、
「彼は暴力行為のために収監されている。彼は自分には問題はないというが、コカイン中毒の治療を求めてもいる。ICD-10の分類によれは彼は「非社会的パーソナリティ障害に、サイコパス的、自己愛的な特性を兼ね備えている」となる。彼は他人を利用すること以外には、交友関係からは何も得ていない。・・・・」ヤッパリね。でもICD-11の記号的な診断を見ても、それを「あ、反社会的な人ね」と翻訳する必要があった。ところがICD-10ではまさにそのものを言っているのだから、やはりICDの方が分かりにくい、という印象が残ってしまう。これは私のせいなのだろうか。それとも非社会性、という言葉にもう少しピンと来なくてはならないのだろうか。そこでICDが定義する非社会性 dissociality を読むと「disregard for the rights and feelings of others, encompassing both self-centeredness and lack of empathy他者の権利や感情を無視し、自己中心的で共感性を欠く」とある。そうか、非社会性というPTが書かれたことで『あ、ハンシャのひとだ!」とピンと来ていなくてはならなかったということか。だいたい非社会性という日本語が分かりにくいのだ。ということで相変わらずICD-11のディメンショナルモデルが使いやすいのかどうか、まだ揺れている。

2020年1月8日水曜日

ポリヴェーガル 1


ポリヴェーガル理論
最近のトラウマに関連する欧米の書籍で、ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory に言及したものを見ないことはあまりない。トラウマ関連のみならず、解離関連、愛着関連など、あらゆることにこの理論がつながっているるという印象を受ける。この理論の正体は一体なんであろう。そしてどのように感情の問題に関連しているのだろうか。
ここでより体験的に、ポリヴェーガル理論の伝えていることを述べたい。私たちは普通の生活では、概ね平静にふるまうことが出来ているはずだ。少し動揺することがあってもだいたい立ち直ることが出来る。それは the window of tolerance 許容範囲、耐性の窓などと呼ばれる。そこでは少し動揺させることが起きても、迷走神経の一部、腹側迷走神経 VVC ventral vagal comlex が呼吸や心拍数を鎮め、安定させる。ところがそれ以上の刺激になると、そこから撤退する必要が生じ、いわゆる闘争-逃避 fight-flight 反応が起きる。この時は交感神経系が活動する。しかしそれでも対処できない場合には、今度は最終手段としての背側迷走神経 DVC dorsal vagal complex が働き、凍りつき freezing が起きる。この逃走-逃避反応とフリージングという三つのFは従来から言われてきたことだが、Stephan Porges が提唱しているポリベーガル理論は、先ほどの VVCについての理論化を行うことで、トラウマやストレスに際する様々な反応を包括的に記載することを可能にしたのである。

2020年1月7日火曜日

顕著なパーソナリティ特性 1


顕著なパーソナリティ特性

「顕著なパーソナリティ特性(否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性など」)というジミーなテーマでの依頼原稿であるが、これに応えるためには下準備が必要になる。この原稿は精神医学のテキスト叢書の中のパーソナリティ障害についてであるが、結構しっかり書かないと偉い先生方に迷惑がかかる。つまりバリバリの学問的な文章を求められている。本当は苦手だなあ。この種の文章は書いていて面白くてためにならないと、モティベーションが湧かないのだ。
パーソナリティ障害というテーマは私は好きだし、いろいろ書いてきたが、それはいわゆるカテゴリカルな議論だった。例えばボーダーラインであるとか、自己愛であるとか,スキゾイゾ、などだ。一種のラべリング的なパーソナリティ障害の概念がそれだけ面白いのだが、「顕著なパーソナリティ特性」というのは要するに、ディメンショナル(いわば多軸的)な発想だ。つまりボーダーライン的な人がいる、という議論ではなくて、「ある怒りなどの否定的な感情がかなり強く、またアクティングアウトのような、抑制のきかない(脱抑制)傾向も強く、引きこもり(非社会性、離隔)などは少ない人」がいるだけだ、という考え方。しかしこれは分かりにくく、そもそもインパクトが薄い。「あの人はボーダーさんだ」という代わりに、あの人は「4,3,1,1」のひとだ、というようなものだ。この数値はそれぞれ否定的感情、脱抑制、非社会性、離隔の程度を意味するわけだが、それってなに、と聞き返されるだけだろう。
しかし考えてみれば、人間はおそらく自分のことはディメンショナルに考えているはずだ。「僕はバリバリのボーダーさんだ」という人は先ずいない。「うーん、パーソナリティ障害とは言えないけれど、ちょっと怒りっぽくて向う見ずなところがあって・・・・。でも普通の人間だ」と言いたいだろう。そしておそらくそのほうが実情に近い。ボーダーライン的な振る舞いは時々インパクトのある形で表れても、普段は姿を見せることが少なく、結局はディメンショナルな在り方の方がより記述的になる。だからDSMで延々と用いられてきた「何とかパーソナリティ障害」という概念に批判が集まっていたと聞いても特に驚かない。しかしどうせディメンショナルモデルは採用されないと高をくくっていた。2013年にDSM‐5で土壇場でこの案が結局日の目を見なかったのも「さもありなん」というのが私の反応だった。だから今年発表されたICD-11でこのディメンショナルモデル(つまり、あなたの性格は4311です、的なシステム)が採用された時は、ほんとかよ!というのが私の正直な反応だったのだ。

2020年1月6日月曜日

難治例のアセスメント 1


難治例のアセスメント

難治例のアセスメントという、無茶ブリのようなテーマでの原稿依頼があった。そこで何とかまとめるべく、知恵を絞ってみた。難治例のトラウマアセスメント、という形でまとめようか。実際精神科医として多くの方に接していると、なかなか症状が改善しない方は多い。その際のアセスメントを改めて行う必要があるが、それはそのケースのヒストリーを一から取り直すということとは違う。それはケースを多層にわたって検討するということである。

重ね着症候群としてのケースの理解

私は時々「重ね着的」という言葉を用いて、病理を表現することがるが、それはもともと重ね着症候群という概念を提唱なさった衣笠隆幸先生の概念とはずいぶん異なっている。そこで誤解を招かないためにも、重ね着症候群についてまず紹介しなくてはならない。それは以下のように定義される(衣笠、他、2007)。
1)18歳以上
2)知的障害はない。
3)種々の精神症状、行動障害を主訴に、初診時に各症例が表面に持つ臨床診断はさまざまである(統合失調症、躁うつ病、摂食障害、神経症、パーソナリティ障害・・・・)
4)しかしその背景には、高機能型広汎性発達障害が存在する。
5)高い知能のために達成能力が高く、就学時代は発達障害とはみなされていない場合が多い。
6)一部に、小児期に不登校や神経症などの症状の既往がある。しかし発達障害を疑われた例はない。

要するに重ね着症候群は「各種パーソナリティ障害の臨床像を持っている[が、]背景に発達障害を合併していて、自己理解を促すような分析的精神良能に対しては多くの患者が適応の対象にならない」(p36)とされる。衣笠が特にあげるパーソナリティ障害としては、境界性パーソナリティ障害とスキゾイドパーソナリティ障害がある。
衣笠隆幸 (2004) 境界性パーソナリティ治療と発達障害 : 「重ね着症候群」について-治療的アプローチの違い-精神科治療学 19, 693-699.
衣笠隆幸、池田正国、世木田 久美、他 (2007) 重ね着症候群とスキソイドパーソナリティ障害 : 重ね着症候群の概念と診断について 精神神經學雜誌109(1), 36-44, 2007-01-25(オリジナルあり)
これを見ると、いわゆるパーソナリティ障害の背後には発達障害あり、ということを言っていることになる。このたび「難治例」について考える機会を持ったが、実はこれについて考える際にも、この重ね着的な発想が重要になってくる。あるケースについて、それを難治と感じる際には、そこにはとりあえずつけられている、あるいはそうと確信を持ってつけられている診断とは異なる何かが背後にあり、そこに対して治療的なアプローチを行っていないという事情が存在する可能性があるのだ。
そしてトラウマのケースについてもこれが言える。トラウマ関連疾患だけでなく、それ以外の問題が「重ね着」されている可能性があるのだ。そこで私が用いる「重ね着」の用語を定義するならば、それはトラウマの有無、気分障害の有無、パーソナリティ障害の有無、知的障害の有無、そして精神病的エピソードの有無といった問題を多層的に考えることを意味する(岡野、2019)。
岡野(2019) 初回面接 (滋賀心理臨床セミナー「アセスメント・導入・初期プロセス」滋賀県草津、2019年5月12日)