2018年10月22日月曜日

関係論と自己愛 2

関係論と自己愛について書き継ぐ。


ここから少しミッチェルの力を借りよう。少し古いが、Freud and Beyond (Stephen Mitchell and Margaret Blank, Basic Books, 1995) の Narcissism の項目を読んでみる。これ自体は晩年のミッチェルの見解がふんだんに描かれているはずだ。
著者達はコフートの出現により起きたことは、おそらくそれまでのフロイトの自己愛理論とは一線を画す、画期的なものであったという。リビドー論的に自己愛の問題を考えていたフロイトにとっては、対象へのリビドーと、自己へのリビドーは反比例するものだった(p.150)リビドーはアメーバに例えられ、外の対象に伸ばしていた触手を引っ込めることで、エネルギーは中央に溜まる。そこには対象関係かナルシシズムかという二者択一的な図式があったのである。
しかしコフートはおそらく自分自身の体験から、それとは異なる自己愛の図式を考えるようになった。それは人間が生まれ落ちた時から対象とのかかわりが存在し、それにより満たされる自己愛という別の在り方であった。
有名なコフートの「Mr.Z の二つの分析」という論考において、コフートは最初の分析で Mr.Z に古典的な解釈を行ったという。彼はMr.Zが母親から過剰な注目を浴びてスポイルされたという指摘をした。それにより彼は過剰な誇大性を感じさせられたというわけである。ところが後に行った二回目の分析で、コフートは Mr.Z の母親が本当の意味で彼の自己愛的なニーズを満たしていなかったという点を見出す。
この Mr.Z は実はコフート自身をモデルにしていたという説が有力だが、その真偽はともかく、このコフートのアイデアはある種の健全な自己愛についてであり、それが満たされない時に病的な自己愛に発展するという視点であった。これは自己愛を最初から病的なものとみなしたフロイトとは一線を画す姿勢であったといえる。
Mitchell らがこの点で強調しているのは、このコフートの視点は、実は乳幼児研究において見出されている子供の成長と非常に通じる面があったということである。たとえばダニエル・スターンが考えていたことに通じるという。すなわち人は他者と積極的な交流を行う時と、自分自身に沈潜することがある。そして自己愛の在り方も両方あるというわけだ。なるほど、コフートの貢献をそのように理解するというわけか。
さすがMitchell。一者心理学と二者心理学の融合を彼自身が1995年の段階で言っている。ここで冒頭の問題に戻る。関係論においては自己愛の問題を病理と捉える傾向は従来の精神分析的な考え方に対してより少ないであろう。無論病的な自己愛を考えないわけではないが、その背後にある健全で発達に根差した自己愛の重要性を強調する。しかしそれは学派の違いからくる問題ではなく、愛着理論や乳幼児観察に根差した、あるいは歩調と合わせた考え方と言えるのである。

2018年10月21日日曜日

パーソナリティ障害はまだ・・・ 16


もう一本、ネットで公開になっている論文を読んでみる。Hrdlicka, M and Dudova, I. (2013) Controversies in autism: is a broader model of social disorders needed? Child and Adolescent Psychiatry and Mental Health. 7:9
これを読むと、自閉症スペクトラム=生まれつき、よくならないもの、という常識を多少なりとも変更する必要があることを知らされる。自閉症からの回復 recovery だって不可能ではないというのだ。
そもそもこのようなことを記載したのはラター本人(1970)で、1.5%の患者さんはフォローアップ時に自閉症の定義を満たさなくなっていたという。この数ではあまり説得力はないが、その後様々な尺度が開発されて、それと平行して回復」率は上がっていき、数%、あるいは10%を超える報告が出てくる。もちろんこれには認知行動療法などの治療法の発展も貢献している。そして最も新しい(といってもこの論文が書かれた当時だが) Fountain ら(Fountain C, Winter AS, Bearman PS: Six developmental trajectories characterize children with autism. Pediatrics. 2012, 129: e1112-e1120. 10.1542/peds.2011-1601.) は6975人の自閉症の患者についてフォローアップをし、6つの分類を行った。10%の子供が重症な自閉症から高度の機能を獲得するまでに回復したという。
しかしこの論文を読んでいても、どうもスキゾイドの話があまり出てこない。別に自閉症のことを調べているのではなかった。
そこでPsycNet という検索サイトを使って schizoid personality と入れてみて、意外なことが分かった。ほとんどこのテーマについての論文が最近は書かれていない。スキゾイドPDの概念はもうオワわってしまったかのようである。やっぱりね・・・。

2018年10月20日土曜日

C-PTSDについて 3


CPTSDと精神分析的な治療

 実はこのテーマについてはいろいろ論じて来たので、それらのダイジェスト版という感じになるだろう。
外傷性精神障害に対しては認知行動療法的なアプローチが種々提唱されているが、力動的なアプローチにもそのメリットが少なくない。精神分析はその他の心理療法に比べてもより深層にアプローチし、洞察を促すものであるというのは確かなことである。ただし伝統的な精神分析理論をトラウマを体験した患者に応用するためには、それなりの理論的な変更が必要になるだろう。
 フロイトが創始した伝統的な精神分析は、残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということが出来よう。すなわちトラウマを経験した患者に対して治療を行う論理的な素地を十分に有していてなかったということだ。フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。フロイトはトラウマにより精神障害が引き起こされるという単純な理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したが、この経緯もあり、伝統的な精神分析理論においては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的なニュワンスを伴わざるを得なくなった。


しかしその後精神分析の世界でも多くのことが起きた。その一つは愛着理論の発展であろう。愛着理論は前世紀半ばのJohn BowlbyやRené Spitzにさかのぼるが、トラウマ理論と類似の性質を持っていた。それは精神内界よりは子供の置かれた現実的な環境やそこでの養育者とのかかわりを重視し、かつ精神分析の本流からは疎外される傾向にあったことである。乳幼児研究はまた精神分析の分野では珍しく、科学的な実験が行われる分野であり、その結果としてMary Ainthworthの愛着パターンの理論、そしてMary Mainの成人愛着理論の研究へと進んだ。そこで提唱されたD型の愛着パターンは、混乱型とも呼ばれ、その背景に虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい(van der Kolk, 2014)。
最近精力的な著作を行うAlan Schoreの「愛着トラウマ」(Schore, 2009) の概念はその研究の代表と言える。Schoreは愛着の形成が、きわめて脳科学的な実証性を備えたプロセスであるという点を強調した。ショアの業績により、それまで脳科学に関心を寄せなかった分析家達がいやおうなしに大脳生理学との関連性を知ることを余儀なくされた。しかしそれは実はフロイト自身が目指したことでもあった。
トラウマ仕様の精神分析理論の提唱
以下にトラウマに対応した精神分析的な視点を提唱しておきたい。私はそれらを以下の5点として提示する。

1.         トラウマ体験に対する中立性
2.         「愛着トラウマ」という視点
3.         解離の概念の重視
4.         関係性、逆転移の視点の重視
5.         倫理原則の遵守

第1点は、トラウマ体験そのものに対する中立性(岡野、2009)を示すことである。ただし治療者が中立的であるということは決して「被害者であるあなたにも原因があった」、「加害者にも言い分がある」という態度を取ることではない。「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」、「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と患者が率直に話し合うということである。被害に遭った患者の話を聞く立場として、治療者が患者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者が上述の意味での中立性を発揮することに意味がある地点まで行き着けないであろう。
たとえば患者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無表情で対応した場合,患者は自分の話を聞いて一緒に憤慨してくれない治療者に不信感を抱くかもしれない。患者は場合によっては治療者がその虐待者に味方していると感じるであろう。もしそれにより治療者と患者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は非治療的なものと考えなくてはならない。したがって患者によっては古典的な分析的アプローチに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,重要な場合があるのだ。
 しかし治療者が感情表現をすることが治療的であるとばかりは言い切れない。患者によっては,治療者が一切の感情表明をひかえて受け身的に話を聞いてもらえることを何よりも安全に感じる場合もあるかも知れないのである。このように個々の患者の特殊性を十分に理解し,それに柔軟な対応を示す姿勢こそが重要なのであり,そのような態度が真の意味での中立性と言えるだろう。
第2点は愛着の問題を重視し、より関係性を重視した治療を目指すということである。その視点がこの「愛着トラウマ」に込められている。このような視点はトラウマを扱う臨床家が一つの素養として持っておくべきだろう。特にCPTSDの場合は、その定義の中に愛着レベルでの問題が生じていることが示唆されている。
フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということであった。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在である。臨床家が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということだ。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性がある。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。愛着トラウマの概念にはこのような広い意味でのトラウマが幼少時に生じて将来の自己概念や関係性に影響を与えているという視点を提供する。
第3点目は、解離の概念を理解し、解離・転換症状を回避することなく必要に応じて扱うという姿勢である。最近では精神分析的な治療のケース報告にも解離の症例は散見されるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれない。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。
第4点目の関係性、逆転移の重視については、患者がいわゆる関係性の重視は、患者がいわゆる外傷後成長(post-traumatic growth, PTG)(Tedeshi, RG, 2004)を遂げるかどうかを占う上でも重要となる。トラウマを体験した人との治療関係においては、それが十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことはきわめて重要である。トラウマを扱うための治療関係が患者に新たなストレスを体験させたり、支配-被支配の関係をなぞったりする事になれば、それは治療的な意味を損なうばかりではなく、新たなトラウマを生み出す関係性になりかねない。精神分析的な治療においては、患者の洞察やこれまで否認や抑圧を受けていた心的内容への探求が重要視されるが、それは安全で癒しを与える環境で十分にトラウマが扱われた上でこそ意味がある。外傷後成長は癒しの上にしか生じないのである。
もし治療者が患者が洞察を得ることを目指すことにばかり心を傾けることで、患者のトラウマ体験に対する共感やその他の支持的なかかわりをおろそかにすることは許されない。その意味では治療関係を重要視することは、そのまま治療者の逆転移の点検というテーマに直結するといっていいだろう。トラウマを受けた患者を前にした治療者は、しばしばそのトラウマの内容に大きな情緒的な影響を受け、それを十分に扱えなかったり、逆にそれらへの患者の直面化を急いだりする傾向が見られるが、いずれも治療者自身の個人的な情緒的反応が関係していることが多い。
第5点目の倫理原則の遵守については、もう言わずもがなのことかもしれない。特にトラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが問われる傾向がある。
 この倫理原則の問題はトラウマ治療に特に問題とされることではない。トラウマを体験した患者の場合に自分がまた被害に遭うのではないか、搾取されるのではないかという懸念はきわめて強く、それは治療者にも向けられる可能性が高い。治療者の学問的な好奇心に従った質問、症例報告の承諾の際のやり取りなどが治療関係にネガティブに作用することのないよう、最大の配慮を行わなくてはならない。


2018年10月19日金曜日

パーソナリティ障害はまだ・・・ 15

  さて、もうひとつの問題、スキゾイドとアスペルガーのオーバーラップの問題である。この種の論文は実はかなり多いのだが、ネットでただで手に入る論文から行こう。Lugnegård, T, Hallerbäck,MU, Gillberg, C. (2012) Personality disorders and autism spectrum disorders: what are the connections? Comprehensive Psychiatry.v53: 333-340.
この論文はかなり過激な、でも私が言いたいことを言ってくれている。彼らは、もともとディメンショナルな問題であるPDを、カテゴリカルに分けているDSMの10のPDは、どだい無理なことをやっているよね、と言っている。まあ、そういえばミもフタもないわけだが。この論文はDSM-5前夜に書かれたものなので、いかにもDSM-5が大きなことをやってくれそうなことを書いている。「10のうち5つしか生き残らないよ」とか。まあ結局廃案になってしまい、ふたを開けたらDSM-IVと何も変わっていなかった、というわけだが。スキゾイドなども真っ先に消えていたはずである。こんなことも言っている。ASDは一応第一軸に記載されているが、事実上第二軸にあるべきものだ、と。そうか、これでDSM-5で突然多軸診断が廃止された事情もつかめたぞ。そもそも発達障害がどうして第二軸に入らないの、という質問に耐えられないからだ。なぜなら発達障害もまた、第二軸の定義である「パターンは安定し、長期にわたって持続し、その始まりは遅くとも思春期や早期成人期にさかのぼることができる。」ましてや幼少時にさかのぼるとしたら、発達障害は第二軸に入らないこと自体が矛盾するのだ。(覚えておられるだろうか?DSM-IVの第二軸には、PDと精神遅滞が入っていたのだ。でも精神遅滞が入って発達障害が入らない根拠は、考えてみれば何もなかったのである。)
 ともかくもこの研究では、ASDの基準を満たす54名の早期青年期の人々を対象にして研究した。すると14人がスキゾイドPDを、7名が回避性PDを10名がOCPD (強迫性PD)、1名がスキゾタイパルPDを満たし、ボーダーライン、自己愛、依存性、反社会性、演技性PDを満たした人はいなかったという。まあひとことでいえば、ASDの一番多くが(と言っても四分の一だが)、スキゾイドを満たすということだ。ただしここで知りたいのは、ではスキゾイドのうちどのくらいがASDを満たすか、だがそれはよくわからない。しかし考えてみよう。スキゾイドはそもそもあまり診断されないのだ。他方にはASDはいつの間にかかなり多く診断されている。とするとスキゾイド大部分が実はASDだ、ということになりはしないか。著者はかなり踏み込んで言っている。「そもそもDSMのスキゾイドの診断は、well compatible with PDD/ASD criteria.つまり両者はかなり一致していると。そしてスキゾイドの診断をつける前にPDD・ASDを除外せよ、と。そしてDSMのテキストではさらに言っている。スキゾイドに比べて、ASDでは社交の問題、ステレオタイプな行動や関心はスキゾイドよりより深刻な形で見られる、と。ところがこの研究では、スキゾイドをも満たした14人は、さらに深刻な自閉症傾向を見せたという。或いはASDを満たした人たちの多くは、スキゾイドを満たした人より社交上、或いはコミュニケーションの問題でそれほどでもない障害を見せていたという。あー、わからない、わからない。書いていてわからない。ただひとついえるのは、それぞれ由来の違った二つの障害(一方はSにまだなっていないが将来なりそうなスキゾイド、もう一方は深刻な自閉症ほどではないものの、その継承として見出されるようになってきたアスペルガー等のASD)がだんだん近づいてきて、見分けが付かなくなってきているということだ。では私の直感はどうか。これはいろいろなところにすでに書いたのだが、人に関心がない、感情を欠いた、スタートレックのミスター・スポックのようなスキゾイドは、実はきわめて稀少ということである。ほとんどの一見スキゾイドの人は、実は物や秩序により大きな関心を持ち、人は複雑でわずらわしいためにあまりかかわりを持とうとしない(でも同時にすごくさびしがり野の)アスペさんが大半なのだ、ということである。

2018年10月18日木曜日

他者性の問題 17


Self-disturbance in dissociation in relation to psychosis

 I would like to discuss briefly a comparison between dissociation and schizophrenia in terms of the ego disturbance. To summarize my point beforehand, self-disturbance in schizophrenia is considered as representing a disturbance within a single dynamic core as a putative neural correlate of consciousness whereas in DID, such disturbance does not seem to exist within a dynamic core, but existence of multiple dynamic cores can be a problem. The model of division of consciousness fits better to the pathology of schizophrenia rather than to DID which is more a pathology of the multiplicity of the consciousness.
The paramount disturbance of schizophrenia is considered to be social dysfunction based on the disturbance of function of self. Karl Jaspers (1997/1913) delineated the basic sense of self in our conscious live as a self-present, single, temporally persistent, bodily and demarcated (bounded) subject of experience and action (Italics added) and indicated that there are serious disturbances in thse basic sense of self in schizophrenia. Recently, from his perspective on neuro-biological standpoint, Ebisch (1916) found that the disturbance of self-function is found to be correlated with that of neural network, especially its disintegration.Along with our context, this can be described as some type of fragmentation (apparently more serious than just “division” within a single dynamic core which is responsible for schizophrenic symptom manifestation.
Jaspers K; Hoenig J, Hamilton MW,(1997/1913)  trans. General psychopathology. London: John Hopkins University Press, 1997 [1913].
S.Ebisch,S (2016) The social self in schizophrenia: A neural network perspective on integrative external and internal information processing European Psychiatry
Volume 33, Supplement, S45 
In comparison, in the individuals with DID, the dynamic core representing each PP is basically intact, as any PP appears to have self-disturbance in any level across self-present, single, temporally persistent, bodily, and demarcated (bounded) subject of experience and action.
We can check on this issue one by one by taking up an example that we saw at the beginning of this article, Ms.A, Mr.B and Mr. C.
As for the sense of self-presence, it is certainly Ms.A who knows that she is behind the wheel, attempting to start the car in her own timing. It is because of her sense of agency that Mr. B’s “remark” came across as abrupt and made her think of him in a critical way, such as “can’t he be more patient?”. As for her sense of singleness, certainly she feels she is on her own and is distinct from Mr.B. As for her sense of temporal continuity, she would still claim that even if she is amnestic about events of yesterday when Mr.B was mainly out and active, she would give us her own “alibi”, such as perhaps she was inside and deep asleep, or was vaguely watching what Mr.B was doing as a bystander somewhere inside, through a video screen (as several of my DID patients describe). The sense of demarcation of Ms.A certainly exists although he might feel it in a different location compared with other non-DID individual. She might feel that Mr.B very close, even inside of her head, such as the back of her head, which however, is still outside of the limit of her control.
In a case of schizophrenic patients, disturbance of self is seen in at least three out of four areas. Let me give a case where a patient with schizophrenia is heavily influenced by hearing voices of what he calls “a high-power”. Mr.D was walking on the street and saw a stranger waiting for a traffic light to turn. He then heard a voice telling him “that is the man who is spying on you” which became revelatory for him. Mr.D walked up to him and yelled at him for having shadowing him, although he never met that man. The stranger was totally taken aback and fled in order to avoid any trouble.

In this case, Mr. D’s self-presence is seriously compromised as he is acting on his own and at the same time on behalf of the high-power, that he probably cannot distinguish himself from. In that sense, Mr. D’s sense of singleness is impaired at the same time as his idea and that of the high-power is inseparable. Mr. D’s sense of demarcation is also very precarious as the high-power, who is supposedly outside existence communicating to him via hearing voices, becomes him suddenly.



2018年10月17日水曜日

C-PTSDについて 2


続いてこれも無料で手に入る論文から。
Thanos Karatzias, et al; PTSD and Complex PTSD:ICD updates on concept and measurement in the UK,USA, Germany and Lithuania European Journal of Psychotraumatology, 2018 を読んでいく。これを読んでいくと、ヨーロッパでは本当に CPTSD と PTSD についての本格的な考察が続いているようだ。アメリカはどうなっているんだ。スランプさんなんか選ぶし。ところでこちらにも載っている。CPTSD = PTSD + DSO という公式。Disturbance in self-organization は日本語でなんていうんだろう? 「自己組織化の障害」だと直訳過ぎるし、ニュワンスは伝わらない。ちょっとググってみたが出てこない。つまり本格的な日本語の論文はまだ発表されていない、ということか。どうやらこの DSO は2013年のDSM-5以降にいろいろ議論されているらしい。やはりDSM-5 はCPTSDの扱いに関しては周回遅れをしているということだろう。ニュアンスとしては、「自己の構成の障害」「自己のつくりの障害」ということだが語呂が悪い。
そしてここにも出てくる国際トラウマ質問票 International Trauma Questionnaire (ITQ)で、これが出来たのは2017年ということだ。出来たてホヤホヤというわけである。絶対日本のどこかで、これの日本語訳を開発している臨床家がいるはずだ。23項目のうち7つがPTSDについて、16個がDSO用だという。
DSO は以下に分かれる。
AD: affective dysregulation 情動の調整不全 
NSC: negative self-concept 否定的な自己概念
DR: disturbances in relationships 関係性の障害

ちなみにPTSD についてもあった。
RE: re-experiencing 再体験
AV: avoidance of traumatic reminders 回避
TH: persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance 過覚醒

すると公式がもう少し詳しくなるぞ。

C-PTSD = PTSD(RE+AV+TH) + DSO(AD+NSC+DR) 


2018年10月16日火曜日

C-PTSDについて 1


CPTSD(複雑性PTSD) について書かなくてはならなくなった。このところいろいろ予定が重なっている。 

CPTSDの概念は Judith Herman に由来することは知られている。彼女は1992年の有名な著書「トラウマと回復」で「長期にわたる繰り返されるトラウマに続く障害にはそのための診断が必要である」と書いてある。(The syndrome that follows upon prolonged repeated trauma needs its own name. I propose to call it complex PTSD.)
このCPTSDを正式な診断名としてDSMに入れるかについては、それ以来実にいろいろ議論されてきた。Van der Kolk さんはHerman さんとは盟友であり、彼自身はDESNOS(他に分類されない、極度のストレス障害)を提唱していたが、その趣旨はCPTSDとだいたい同じである。しかしご存知のように2013年のDSM-5に入らなかった。だからICDとDSMはこの点で大きく袂を分かったということになる。
ここからはChristina Buxton と Gordon Turnbull 先生がネットで公開しているパワポ資料を検討しつつ参考にして、しばらく勉強してみる。
 ある論文(Resick ,2012)によれば、DESNOSはPTSDとかなり症状が重複していて、またPTSD、BPD,MDDとも重複しているから、改めて疾病概念として抽出する必要はない、と主張する。DSM-5のPTSDの診断基準は、それ自体がかなり加筆されている。そのうちCPTSDと重なるのは、D基準(認知、気分の低下であり、それは自分や他者に関する歪んだ確信、狭小化した情動、他者から切り離された感じ。)
E基準(過覚醒、過反応性、焦燥感、衝動性、自殺衝動など)ということだ。
CPTSDはPTSDというコンポーネントとDSOという二つのコンポーネントからなるという。DSOとはdisturbances in self organization だという。自己組織化の障害、という日本語になるが、分かりにくい。具体的にはaffect dysregulation情動の調節不全、negative self concept ネガティブな自己概念、disturbance in relationship 関係性の障害からなるという。つまりDSOとはトラウマによりその人の感情や関係性や自己概念にかなり長期化する変化を被っているというわけだ。そうこれをHerman さんも最初から言っていたことだ。つまりCPTSDは当然PTSDを含む。CPTSDだけどPTSDではない、という人はいないことになる。
少しわかりやすい。 要するにPTSD + DSO = CPTSD
さて、最近は疾病概念が正当な構成概念valid construct なのかをやかましく問う。わかりやすく言えばちゃんとその概念に相当する患者さんがいるのか、というわけだ。CPTSDの人は実際はいませんでした、とかCPTSDの診断が下る人は実は全員PTSDの診断も下っていました、というのでは意味がない。CPTSDという概念を設ける意味がなくなってしまうからだ。そこで研究をすると(Brewin et al, 2017) CPTSDの人と、深刻なPTSDだけれどCPTSDではない、という人がはっきり異なるグループの患者として存在することが分かったという。結局PTSDを満たす人とCPTSDを満たす人の違いについていろいろな研究が2013年以後も行われたらしい。その結果この診断基準には意味があるということになったわけだ。
結局これだけの証拠が挙げられたからにはCPTSDはやはり診断基準に加えることに意味があるということだろう。この様に見るとDSM-5はどうも分が悪いように見える。おそらく10年はDSMは改訂されないだろう。(DSM-IVからDSM- 5までに19年かかっている。)その間ICDに比べて使い勝手の悪さを晒し続けることになるわけだ。