2017年6月10日土曜日

書くことと考えること 1

昨年の学会賞記念講演をまとめなおした。

書くことと考えること
                    
初めに

まずは今回このような栄誉ある賞をいただいたことについて深く感謝の気持ちを述べたいと思います。松木先生と私はこの賞の三番目の受賞者ということですが、小此木先生には大変ご恩があり、また一緒に受賞させていただく松木先生にも深いご縁を一方的に感じさせていただいています。まずは選考委員の先生方、分析学会の皆さまに深くお礼を申し上げます。
とりあえずこの受賞講演の題としては、「書くことと考えること」としました。私はよく「岡野さんは書くことが好きだね」といわれます。二年前に今は亡き丸田先生の受賞講演でも、そのようなお言葉をいただきました。しかし書くことが好きかと問われれば、ウーン、と考え込んでしまいます。書くのはおっくうだし、面倒くさい。私がものを書き出したころは、原稿用紙の束や万年筆や修正液と格闘していました。1985年冬の忘れもしないワープロの出現でかなり楽になりましたが、それでも机に向かって作業をしなくてはなりません。寝転がって原稿を作成することは出来ないのです。だから私にとって書くことは楽しいこと、というよりは苦楽しい(くるたのしい)ことという感じです。
 しかし「考えることは好きか?」と問われれば、「ハイ」と即答すると思います。考えることは、散歩をしていても、通勤途中でも、それこそ眠りに入る前の数分間でもできます。一切筋力を動かす必要がありません。ある講演のテーマについて考える必要があるときなど、布団に入るのが結構楽しみになります。眠りにつくまで、ずっと考える時間を与えられるからです。寝付くまで時間がかかりそうな夜は、「やった!」という気持ちです。ただし結局はすぐ寝入ってしまいますが。たまにカミさんの長い買い物に付き合うときなどももっぱらこの作戦で行っています。ともかくも考えることによりそれまで疑問に思っていたことについての思考がまとまり、運が良ければ「分かった、一歩前進した」という気持ちになれるのはうれしいことです。

その考えるテーマは主として人の心についてですが、宇宙の由来とか物質の由来、生命の誕生や進化についてなどテーマは様々です。この間も散歩をしていて急に、「パーセプトロン(神経科学の用語です)は一種のあみだくじに例えられるのではないか?」と考えついて夢中になりました。しかし一番面白いのは人の心、自分の心です。その意味では一日に出会う人との交流はすべて考えるネタにしています。それは患者さんでもあり、同僚でもあり、配偶者でもあり、私の両親でもあります。

2017年6月9日金曜日

ほめる ④  

もう一つは自己愛の問題。これもバカにならない。子供が漢字の書き取で百点を取る。するとそこにたとえば「自分が血を分けた子だからだ(だから自分もその種の才能を持っているに違いない)」というのが一番わかりやすいであろうか。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」などと理由はいくらでもついて回る。要するに褒めることで、自分の自己愛が満たされるということだ。そんなことだっていくらでもあるだろう。私はそれがよくないとは思わないが、問題は子供が漢字の書き取りで零点を取った場合にもこれが起きるだろう、ということである。すると当然のことながら親は「自分がダメだから子供がこんな点を取ってしまった」と自分を責めて、それを耐えることが出来ずに結局子供を激しく叱ることになるのだ。したがって褒めるという行為に親の自己愛が絡んだ場合はかなり問題が生じることになる。
褒めるという問題からは離れるが、自分の子供の失敗はこれほど親の心を痛めるため、親が直接何かを教えたり、トレーナーになったりすることには問題が生じかねないだろう。ある公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に交じると、間違えを正す時の感情的な高ぶりが尋常ではなく、別の先生にお願いすることにしているという。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のような例もあるとすれば、おそらく「同一化」による効用が勝るということだろうか。
ともかくもここで大事なのは、親が子供を褒めるにしても、その本質部分は自然な「褒めたい願望」だということである。つまり「褒めてあげてさらに相手を伸ばしてあげよう」という「野心」に由来はしていないということだ。少なくとも本質部分は。仮に子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここで褒めておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それに褒められることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではないにしても、私はそこには純粋さが欠けていると考える。本来の褒める行為は純粋な「褒めたい願望」を含んでいなくてはならない。いや、こう言い直そう。純粋な「褒めたい願望」を有さない人間にうまい褒め方はできないだろう。本当に人を伸ばす力を有する褒め方もできないはずだ。なぜならそこには自然さがないからである。

2017年6月8日木曜日

ほめる ③ 

さて「褒める」というテーマである。人にはおそらく他人の成功を祝福し、あるいは感動を伝えて一緒に喜びたいという願望がある程度はあり、それが相互の発達を促進するのであろう。そのような性質をある程度持ち合わせた個体が生き残ってきていると考えればいい。褒められた人はもっと褒められたいと思って頑張るようになるというわけだ。しかし私が自分の体験として説明した「褒めたい願望」は必ずしも満たされることが多くはない。そもそも私は本当に感動しないと褒めたいと思わない。しかし私の感受性は非常に限られていて、そもそも感動をすることが決して多くはない。だから私がいくら褒めることが出来る機会を逃さずに褒める努力をしても、その頻度は非常に限られていることになる。また私はある作品に出会っても、特に感動しないことの方がはるかに多いわけであるから、私はそれらの作者を誉めないという形で無視しているということになる。私が特に感動しない作品の作者に対しても、何らかの義務感に駆られて褒めたとしてもその効果は多寡が知れている。ということで「褒めたい願望」、ないしは「自然に褒める」という行為は実はあまり実際に生じることがなく、例えば子育てとか教育とか、治療という文脈で論じる「褒めること」とはあまり結びついていないような気がする。教育や治療の一環として褒めるのは、そこにことさら、意図的に、という意味が加わる。それがいけないというわけではないにしても、「褒めたい願望」にあるような純粋さは見られないことになる。
親が子を褒める
さて親として子を褒めるという場合は、独特の要素が加わる。私は親として子供を褒めたことがあるが、やはりその実体験が背景になっていることだが、そこには様々な要素が絡む。まず自分の子供の達成は、それにどれだけ感情移入をしているか、またどこまで自己愛を刺激するか、という要素がいやおうなしについてくる。先ほど「ほめたい願望」は、純粋に自分がその行為や作品を見て感動することから生まれると言った。そしてそれはそれほど頻繁に生じることではないのだ。例えば床運動の選手が「後方伸身宙返り4回ひねり」の後の着地を見事に決めたら「すごいじゃないか!」と叫んだ人も、ある1乳児が危なげな様子でおそるおそる立ち上がった姿を「素晴らしい!」などとは感じないのが普通だ。ところがそれがわが子の始めての独り立ちだとなると、これは全く異なるだろう。「すごい、うちの子はなんと10ヶ月で立っちした!」と驚喜するであろうし、ハイハイする様子から毎日追っている親にとっては、それは紛れもなく偉業に映る。「感動」はその人がそこにどれだけ感情移入しているかによって全く違ってくるのだ。

その時何が起きているかと言えば、おそらく同一化である。子供がハイハイしているとき、親はやはりハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がれた時の「やった!」感を親も体験している。ということは褒める、ということは自分の「やった!」感に祝福している? なんだかわからなくなってきたぞ。「褒めたい願望」はもう少し純粋なものではなかったっけ?

2017年6月7日水曜日

ほめる ② 

おそらく私は人によいニュースを伝えることが出来たという自己効力感を味わうのだろうと思う。その時私は特に自分を褒めているわけでもない。むしろ相手の喜びに「タダ乗り」させてもらうという感じである。そういう意味ではこれは愛他的というよりは、かなり自己完結的な行為である。「そういうあなたもすごいですよ」と相手に返されたら、「いや、そういう意味で褒めているのではありません。」と言いたくなるだろう。それを防ぐために、「褒め逃げ」することさえ考える。「あなたはすばらしいと思いますよ。ちなみに私はこういうものです」と自分の名刺を置いて立ち去る、ということなどアリエない。ちなみに連絡先のメールアドレスは・・・などはアリエない。それでは純粋な「褒めたい願望」ではないのだ。これを機会に相手と知り合いになりたい、という疚しい心はない。ただ伝えたいのである。
褒める喜びを味わう際には、自分が本当に相手に感銘を受けているというのはとても重要なことである。よくあるではないか。すばらしい曲を聴くと、人に伝えたくなるということが。そうすると喜びをシェアできる。もっと嬉しくなる。褒める、とはその極め付きなのだ。スポーツでpublic viewing というのがあるあろう。一人で家でテレビで観戦してもいいのだが、みんなで集まって観戦すると明らかに盛り上がり方が違う。勝ったりするとおそらく喜びは倍加する。皆それを狙って店での大画面のテレビの前に集まるのだ。
褒めるというテーマに戻る。相手から感銘を受けることが第一条件であると言ったが、私たちは実はあまり感動をすることがない。グルメ番組のように、口に入れたら至福の顔をする、などという感動は滅多にない。私たちは様々な情報にさらされているのだ。だからこそ感動というのはレアな体験である。そして自分が正直に相手に気持ちを伝え、それが相手を喜ばす、という奇跡的な事態を作ることに感動が伴うのである。
私はこの種の行為については、時々そこに義務感さえ感じる。あるチェロ奏者の演奏に感動したら、それを伝えるのはむしろ「しなくてはならないこと」という気がしてくる。ただしその演奏家のために、というわけではない。そういう意味での義務感ではないのだ。むしろ自分のために、そうなのだ。褒めないと後で不全感を味わうような気がするからだ。しかしだからと言ってそのチェロ奏者と仲良くなりたいなどという気持ちはない。言ったらさっさと立ち去るだけなのだ。あ、これさっきも言ったな。
もちろんすばらしい行動や作品を褒めることを楽しむという行為は、実は様々な事情により達成がかなわない。一つは羨望だろう。その作品が私が専門としている分野で発表され、その作者が私にとってライバル心を起こさせるとしたら、これは決して用意ではない。逆に悔しくて文句の一言も言いたくなってしまうだろう。その場合はその羨望の念が薄れるまで時間がかかり、それからやっと祝福を言うことが出来る状態になる。大体私のライバルAさんが立派な仕事をした時は、それに対して悔しいと思う私の方の認識が間違っていることになる。Aさんはこんな仕事は出来ないだろうと思っていたから、Aさんに先を越された、と思うわけである。ところがそこにはAさんが先を越さないであろうという私の想定があったわけで、それが間違っていたことが証明されたわけだ。そこで自分とAさんの関係の見直しが起きれば、素直にその人を祝福したいという気持ちにもなるだろう。ただしもちろんAさんと私との関係がそもそもよろしくなかったら、祝福したいなどとは最初から思わないであろう。そのような人の成功は腹立たしく感じるわけである。でもそのようなときにも私は「この人を祝福してみたらどうなるのだろう?」というファンタジーを持つことがある。Aさんが私の祝福を受け入れてくれるのであれば、Aさんとの関係性は全く違ったものになりかねない。

2017年6月6日火曜日

ほめる ①  

あるオトナの事情で、「褒める」というテーマで書かなくてはならなくなった。しかし「ホメル」の変換のされ方が2種類あるな。褒める、誉める、揉める、あ、これは違うか。何しろ「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」というのもあるぞ。まあここでは「褒める」で統一しておこう。またこのテーマには「日本人にとっての」という条件が付いている。まあ特別苦手なテーマというわけでもなく、むしろ書いてみたいという気もする。そこで引き受けることになった。

純粋なる「褒めたい願望」
まずは自分の体験から。私は基本的には褒めることは好きなのである。それを取りあえずピュアな「褒めたい願望」と呼んでおこう。テキトーなものだ。
褒めるのが好き、ということはおそらく褒められることも好きなのだ、と心理学者はすぐ考えてしまうが、必ずしもそうではない。褒められることが好きでないという人もあまりいないだろう。そう、褒められることはほぼ私たちの全員が好きなのであろうが、人を褒めるのが好き、というとかなり限られるのではないか。
もちろん常識的に考えれば次の様になりそうだ。「人は褒めることにより、その人は褒められることの身代わり体験をするのだ。」ちょっと聞くともっともらしいが、ほんとうにそうなのだろうか?私は基本的には「褒める」行為と「褒められる」ということは、受動的か能動的かという違い以上に異質のものと考える。「ひとに褒められたいけれど、なかなか褒めてもらえないから、代わりに人を褒める」と言うわけではないのだ。
たとえば私はストリートミュージシャンを見ていて、演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなる。見事な論文を読んだら、作者に「とても感動しました」と伝えたくなる。見事な鼻のラインを持った人には、「あなたの鼻のラインはパーフェクトですよ」と伝えたくなる。それを自覚していなさそうな人には、特に伝えたくなる。しかしそれは、すばらしいと言われた作者の喜びをわがことのように喜ぶこととは少し違うような気がする。うーん、ここの部分が実に不思議だ。私は褒めて喜ぶ相手の顔を見たいというわけではない。相手がキョトンとしていたってかまわないのだ。

2017年6月5日月曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑫ 


関係精神分析における最近のトピック

以下に関係精神分析において特に最近取り上げられているトピックをいくつか挙げたい。それらはFerenczi理論の再評価、脳科学、トラウマ理論、解離理論、フェミニズム、などである。こう挙げただけでも関係精神分析は、その学際性それ自体が一つの大きな特徴といってもいいであろう。先に関係精神分析は無意識の探求という本来の精神分析の在り方を逸脱していると述べたが、その意味では関係精神分析は「(伝統的な意味で)精神分析的であれ」という縛りを自らから解き放ち、あらゆる関連分野における知見を貪欲に取り込むという動きがみられる。

Ferencziの再評価

近年においてFerencziの再評価が進んでいる。Freudと同時代人とも言えるFerenczi は、驚くべきイノベーターであり、関係精神分析を事実上先取りしていたという意見すらある(Aron, L. & Harris, A.Eds. (1993) The Legacy Of Sandor Ferenczi. Routledge)。実際関係精神分析においては、Ferenczi 理論の再考は盛んにおこなわれ、2008年にはニューヨークにフェレンチセンターも立ち上がっている。そしてこのセンターの代表はLewis Aron, Adrienne Harris といった関係精神分析のリーダー格ともいえる人たちである。ちなみにわが国でも森茂起による翻訳により、Ferencziの業績が再評価される機会が与えられている(森、2000, 2007)。
Ferencziといえば、かのH.S.Sullivanが米国でのその講演を聞いて深く共感し、自らの考えに最も近い精神分析家と感じ、弟子のClara Thompsonをブタペストまで送って分析を受けさせたという逸話が思い出される。関係精神分析とFerencziとのつながりは実はその時代にまでさかのぼって作り上げられていたとみることも出来る。
 “Psychoanalytic Dialogue” 誌上でFerencziの概念の再評価に大きく貢献した人としてJay Frankel (2002) の名があげられる(Frankel, 2002)。FrankelはFerencziが1932年に発表した論文「大人と子供の言葉の混乱」を取り上げ、そこで提案されている「攻撃者との同一化」という概念が、トラウマ状況において被害者である子供の心に生じる現象をとらえている点で、よく知られるAnna Freudの同概念に勝るとする。Frankel は最近のトラウマ理論を援用しつつ、Ferencziの同論文の読解を行い、そこに同一化のプロセスと解離のプロセスが同時に生じているという点を指摘する。すなわち解離とは攻撃者に対面した現在の恐怖を無きものにするが、それは攻撃者を内側に取り込むことによりコントロールが可能となると考えられるのだ。この様にFerenczi の概念の先駆性は、解離の概念の分析的な理解という文脈においても論じられる傾向にある。

脳科学
同じく”Psychoanalytic Dialogues” 誌に2011年に掲載されたAllan Schore (2011) の論文は、関係精神分析が脳科学的な知見との整合性を求めている事実を示している。脳科学者であり、精神分析にも造詣の深いSchore は、精神分析的な知見がどのように脳科学的な素地を有しているかという問題を追及し、そこで右脳がフロイト的な無意識におおむね相当するという大胆な仮説を提出する。Schore が強調するのは黙示的な情動調節の重要性であり、その不調は第一に早期の関係性のトラウマ、すなわち愛着の問題に由来し、それが精神療法における主要なテーマになるであろうということである。
このようなSchoreの主張は脳科学と愛着の問題、そしてトラウマの問題を一挙に関連付けるとともに、右脳の機能との関連で、Freudにより提示された無意識の概念の重要性を、ほかのどの関係論者よりも強調する。Schore の研究は、脳科学という文脈を通して、現代的な精神分析はもっともFreudに近づく可能性を示しているともいえるであろう。

愛着理論
愛着理論は関係精神分析において今後の議論の発展が最も期待される分野のひとつである。奇しくも2007年に ”Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis”(愛着:精神療法と関係精神分析における新しい方向性)という学術誌の第一号が発刊となった。まさに関係精神分析と愛着理論との融合を象徴するような学術誌であるが、その第一号に登場したPeter Fonagy が熱く語っているのは、愛着に関する研究の分野の進展であり、それの臨床への応用可能性である(White, K., Schwartz, J. (2007)。Fonagy は最近は特徴的な愛着を示す幼児とその母親を画像診断記述を用いて研究をしているという。かのJohn Bowlbyの生誕100年に発刊したこの学術誌は、彼の研究と臨床とをつなぐ強い意思を現代において体現しているといえる。
現在愛着理論に関する研究は華々しい進展を遂げているが、その出発点としてのBowlby(1988)は かなり明確に分析批判を行っている。

「精神分析の伝統の中には、ファンタジーに焦点を当て、子供の現実の生活体験からは焦点をはずすという傾向がある。」(Bowlby, 1988, p.100) この批判は現在の関係精神分析の論者の言葉とも重なるといえよう。

2017年6月4日日曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑪

(1)「関係論的旋回」およびそれへの批判

関係精神分析の歴史を簡単に振り返ろう。関係精神分析の動きはいわゆる「関係論的旋回relational turn」と呼ばれ、1980年代にJay Greenberg と Mitchellよる著書により、事実上先鞭をつけられた(Greenberg and Mitchell, 1983)。その「旋回」の特徴として前出のMills は幾つかを挙げている(Mills, 2005)。それらは第一に、従来の匿名性や受け身性、禁欲原則への批判であり、第二に治療者が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたことであり、第三に関係精神分析の持つポストモダニズムという性質である。
 これらのうちの第一については、ある意味では当然と言えよう。従来の精神分析で一般に非治療的とみなされていた介入、例えば自己開示などは、これが治療可能性を含んでいる以上は、関係精神分析においてはその可能性がさらに追及されることになろう。また第二については、関係精神分析は臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたと言える。関係精神分析の分析家たちは、学会でも自分自身の心についてより多くを語り、また臨床場面でも自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまり彼らは治療者としてよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求める立場からは明らかに距離を置くことになる。第三に関しては、関係精神分析における治療者のスタンスは紛れもなく解釈学的でポストモダンなそれであり、そこでは真実や客観性、実証主義などに関して明らかに従来とは異なる態度が取られている。
さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?まず非常に明白な事柄から指摘しなくてはならない。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。Freudが精神分析において目指したのは無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
Freudは次のように言った。「無意識こそが真の心的現実であるthe “unconscious is the true psychical reality” 」(Freud , 1900. p. 613)。あるいは「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるthe science of unconscious mental processes」(Freud, 1925, p. 70) とも言っている。意識的な体験を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは反論できないことになろう。この問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の俎上で扱うことの適切さにさえ議論が及びかねないので、この問題は一時棚上げにし、関係精神分析に対する批判の幾つかを挙げたい。
関係精神分析に対する批判は、ほとんどは「外部」から来ていると言っていいだろう。つまり従来の精神分析な立場を守ろうとする分析家や学派からのものである。しかし例外として初期の段階での批判がまさに「身内」から生じていたことは特筆に値する。関係精神分析の火付け役となった「精神分析理論の展開」の共著者の一人であるGreenbergは、1993年にその著書「Oedipus and Beyond エディプスとそれを超えて」(Harvard University Press,1993)で、関係論が欲動の問題を十分に否定されてはいないと主張した。そして「果たして『欲動なき精神分析drive-free psychoanalysis』は可能なのか?」という根源的な問題を提起している。これは欲動と関係性という、ある意味では明確に分けることの出来ない問題について関係精神分析が対立構造を持ち込んだ以上、必然的に起きてくる議論であり、このGreenbergの著書はそれに先手を打ったと見ることもできるかもしれない。
また欧州の精神分析においては、「関係論的旋回」が分析理論における著しい退行を意味するという激越な批判もある(Carmeli, Blass, 2010)。それによれば関係論的な旋回は伝統への挑戦であり、これまでの精神分析における技法や慣習を蔑ろにし、分析家の持つ権威を奪うとともに、かえってある種のパターナリズムに陥っているという。英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、関係精神分析に対してこのようなほとんどアレルギーに近い反応が見られるのもわからないではない。
しかしより微妙な文脈で行われる批判には、それだけ注意が必要と思われる。ここでは関係精神分析に対して詳細な批判を行っているMills(2005)の論文を手引きにして論じたい。このMills の関係精神分析に対する批判の中で筆者が妥当と思われる論点をひとつ選ぶならば、それはいわゆる「間主観性」の概念に関するものである。それは「精神の構造は、少なくとも精神療法の場面で扱う限りにおいては、他者との関係に由来する」(The International Association for Psychoanalysis and Psychotherapyのホームページによる(http://iarpp.net/who-we-are)とする関係精神分析の方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。
間主観性の概念は、関係精神分析においてはRobert Stolorow, Thomas Ogden, Jessica Benjamin らにより精力的に論じられている。論者によりそれぞれニュアンスは異なるが、概してその論調は存在論的であり、「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24) という理解に代表されよう。そしてこの意味での間主観性は心が生じる一種の場としてとらえられる。
Millsはこのような間主観性の概念は、それが個を埋没させる傾向にあるという点で問題であるという。そして例えばOgden (1994) の次のような主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは非分析者、そしてもう一つは第三主体the analytic thirdである (p. 483)」Mills はこれについて、「そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency の存在はどうなるのだろうか」と問うのだ。Millsはここで随伴現象epiphenomenon という概念を引き合いに出す。随伴現象とは全世紀初頭にWilliam Jamesにより提唱された概念で、心は脳という物質に随伴するものあり、物質にたいしては何の因果的作用ももたらさないという説である。「間主観性も結局は随伴現象であるが、それに対してなぜそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」(p.162)というのがMillsの批判の骨子であるが、これは本質的な問題提起ともいえる。Giovacchini(1999)は、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」といういい方すらしているという。

ちなみにここで筆者の考えを差し挟めば、この関係精神分析への批判は、「無意識が人間を支配する」というFreudの考えに対する異議に通じるという印象を受ける。無意識の重要性を前提とする精神分析を外側から批判する人々の多くは、人間の持つ主体性が無意識という装置やリビドーの影に埋没することに不安や疑義を持つであろうし、精神分析の内部にある関係精神分析の立場もそこに発している。ところが今度は関係精神分析における関係性や第三主体は単なる随伴現象であるにもかかわらず、その「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。
 この関係精神分析批判とFreud批判がパラレルに考えられるという事情は、関係性のマトリックスないしは第三主体もFreudの無意識も、結局はあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰着されるのであろう。人間は一方では脳や中枢神経ないしは生理学的な基盤に既定され、他方では他者との関係性や社会の中に埋め込まれている。両者はきわめて複雑で予想しがたい動きを示す。これらのいずれのみに焦点を合わせることは人間を総合的に理解することにはつながらない。関係精神分析がリビドー論を棄却しえているのかを問うたGreenberg と、上述の間主観性批判は、あたかもその二つの視点から関係精神分析を牽制していると考えられるのではないだろうか。