2017年2月3日金曜日

錬金術 ④

今推敲しているところ。

・・・帚木先生によれば、ギャンブル依存に陥った人は、財布にお金がなくなり、銀行はおろかサラ金も相手にしてくれないという状態になると、キャッシュを求めて盗みを働くということもあり得るという。更衣室でたまたま同僚の所持品を見つける。中から現金を抜き取った際に思うことはおそらく「ああ、俺は悪い人間だ」ではないのだ。「ああ、これでパチンコがやれる」なのである。つまり人間として普通に感じるはずの罪悪感は、後回しになってしまうのだ。
ここで私の仮説を述べたい。
私たち個人が持つ倫理観は、報酬系を刺激する事柄を善、痛み刺激となる事柄を悪、とみなす傾向にある。
  もちろん社会通念としての善、悪を私たちはふつうわきまえている。しかし人は同時に自らにとっての快楽が善である、という方向付けを常に行っている。だから自らに都合がいいことを社会的に正当化するような口実を常に見つけようともくろんでいるのだ。そして依存症においては依存対象に向かうことは無条件に肯定されるべきこととして扱われる可能性がある。そうとでも考えないと、自らの行為があまりに大きな矛盾を背負ってしまうために、心が壊れてしまうだろう。

もちろんギャンブル依存に陥った人は、「善悪が分からなくなっている」と考えることもできるであろう。しかしより合理的な仮説は、その人にとっては、パチンコ屋で玉を弾くことが最高の善、そのためには家庭を顧みないことも、お金を盗むことも正当化される、という風に行動規範が改編されてしまっているというものである。・・・

2017年2月2日木曜日

錬金術 ③

今日はこのあたりを遂行、じゃない推敲した。

遂行システムにおける「慣性の法則」

遂行システムにおいては、一つの始まった行為は(ほかのどのような行為にも優先して)完結するという原則が存在することは間違いなさそうである。ある本を読みだす、ある行為を始める、するとそれが止まらない、という現象がある。なぜだろうか。なぜ遂行システムは、それを首尾よく終わらせることに貢献してくれるのだろうか?答えはネットワークの励起(興奮)にある。そもそもネットワークは、それ全体が励起するためにエネルギーを要する。いったん温まったネットワークの興奮は、それ自身が快楽となる可能性がある。しかしそのためにはネットワークが立ち上がるまでが大変なのだ。しかしいったん興奮すると、そこにいわば慣性の法則が働くようにして、一気に最後まで行き着く可能性がある。
私は最近浦沢直樹の漫画「Monster」を読む機会があるが、明らかに一冊を読んでいると次の巻も読みたくなる。(全部で18巻ある。今9巻目の初めの部分を読んでいる)。これは例えばしばらくぶりに読み直そうとして、9巻目の35ページから読み直そうとすることとは異なる。なぜだろうか?それは読むことで物語全体の登場人物やストーリーの流れのネットワークが興奮して、その全体が新たなストーリーの展開を次々と欲するからである。慣性が生まれているのだ。しかししばらくぶりに読み直し、全体の流れを忘れかけていて、ネットワークの一部しか興奮していないと、そのストーリー展開により得られる興奮の一部しか感じられないだろう。同様の現象は、音楽を聴いていても、絵画を見ていても、すべて起きることだ。これはネットワークの興奮という初期投資を行うことで初めて可能なのである。そしてこの事情が遂行システムの機能に深く関係しているのである。
報酬勾配や探求モデル、遂行システムの問題は、私たちの持つこだわり、ルーチンを守る傾向と深く関係している。それはまたアスペルガー障害などでは特に顕著であろうし、もちろん強迫性障害などにおいてもそれが顕著に見られる。しかしとりあえず健康な生活を送っている私たちも、程度の差はあっても皆この反復の傾向を持つ。皆お気に入りのワインがあり、行きつけの店があり、病み付きになっているスナック菓子があり、何度も聞いているCDがあるだろう。
 なぜ私たちは同じことを反復するのか? 私は問題は反復というよりは「常同性」であると考える。いつも同じ事を行うと、結果として反復になるのだ。だから反復強迫という言葉があるが、むしろ「常同強迫」なのだ。私も同じような傾向があるから良く分かるが、同じことをするのは心地よく、安心感を与えることが多い。
ただし全くの反復は面白くない。少しバリエーションがなくてはならない。しかしバリエーションは、こちらから意図しなくても、向こうから与えられるというところがある。同じ曲を聞いても、毎回聞こえ方が違うかもしれない。毎日同じ道を通勤しても、雨が降る日も風が吹く日もある。ルーチンをこなすこととは、そのようなほうっておいても襲ってくる変化から身を守るための手段、平衡状態 equilibrium を作るための手段という気もする。そう、常同性の追求は実は奥が深いのだ。
大リーガーのイチロー選手などはこの文脈でよく引き合いに出される。なぜ毎日決まった時間に球場に表れて同じ練習のメニューをこなすのか。おそらくそれを行うことの快があるのであろう。脳のネットワークを容易に想像することが出来る。脳の中に、たとえば広大なネットワークがある。イチロー選手は、車で球場に向かうあたりから、もうある種のスイッチが入ってしまい、あるパターンに入り込み、そのあとは殆どオートマチックであるというようなことを、テレビのドキュメンタリーで語っていた。まさに水路を伝って水が流れるがごとく、回路が興奮を続けていく。
このルーチンをこなすからこそ、彼はその練習を積み上げることが出来、冒険をしない分だけ怪我も少なく、現役を何年も続けることが出来るのだろう。そのネットワークは刺激を受けて興奮することをいわば待っている状態であり、途中で止めることなどできない。イチロー選手なども、彼の野球用具を誰かが間違って触れたりすると、それが分かるというが、それが少しでもいつものところに置かれていないと耐えられないであろう。目が、手がすごく敏感なセンサーのようになっているのだろう。
それにしても習慣とは不思議である。私はアメリカ生活が長くて、コカコーラを好んで飲むが、数ヶ月のあいだ、頻回に飲む時期が続いた後、見向きもしなくなるということが起きる。そして二、三年してまたコーラに戻るということを繰り返す。全く意味が分からないのだ。しかしこれも一種の平衡状態の維持と考えることが出来るかもしれない。同じ植物や獲物を食べ続けることには弊害があるということだろうか。環境自体が大きく変化をしない限り、ある場所で取れる獲物には限りがあるだろう。当分はそれを食べている限り安全だろうし、目新しくて毒を含む可能性のある獲物に目移りをするような個体はそれだけ身を危険にさらすことになる。しかし同じものにこだわることで、その獲物や植物を取り尽くして資源の枯渇を招くことも避けなくてはならない。あるいはその獲物が少量持っていた毒物が蓄積されてしまうかもしれない。結局生命体は生き延びるために摂取する獲物に対して、同様の物にこだわる傾向を持ちつつ、どきどき別のものに目移りするという、常同性と変化への希求の共存を併せ持つものなのであろう。

2017年2月1日水曜日

錬金術 ②

もう何度も出てきた話だな。

第1章 頭医者は不埒な夢を見る

昨夜、おかしな夢を見た。その中で私は癌を宣告され、余命いくばくもない。自分でも体力が明らかに落ちてきているのがわかる。しかし私は特別死を怖くは思っていない。むしろ楽しみなくらいだ。それには秘密がある。死ぬ前に「最後の楽しみ」が取ってあるのだ。
 思えばずいぶんしゃかりきになって走ってきた人生だった。先のことばかり考えていたような気がする。少しでも前に進めないか、そればかりを考えていた。でも最後はゆっくりと、本当の「休息」を取るのもいいのではないか。努力の結果として受け取る快楽しか自分に許さないという考え方を変えてもいいのではないか?
 ふと目の前の予定表を見る。このところ何も予定は書きこまれていない。カレンダーはまっさらだ。ただ一箇所、一か月後の日付に「X」と書かれている。そうだ、この日が私の「Xデー」だと主治医に宣告されていたのだ。でもその日まで待つ必要もないだろう。これからさらに強まっていくであろう病の苦しみに耐え続けることを思えば、もうこの世に未練はない。それに私にはまだ「最後の楽しみ」が残されている。

<以下略>

2017年1月31日火曜日

錬金術 ①

まえがき

本書は私がこれまでで一番書きたったことをまとめたものである。
何が人を動かすか? What makes a human being tick ?
人を見ながら、そして自分を見ながら「どうしてこんなことをするんだろう?」と素朴に思いをめぐらす。そんなことを私は物心つくころからいつも考えていたと思う。心を扱う仕事についてからもずっとそうである。私は治療者としての一言に相手が喜び、失望し、いらだつことを感じながら、そのことを問い続ける。ある薬を投与し始めてから顔色が急によくなり、話し方が違ってくるのを見て驚く。若者がある書を読んで突然発奮して夢を追い始めるのを見て考え込む。そしていつも行き着くのは、「快、不快」の問題である。
私たちの脳の奥に、ある大事なセンターがあり、それは「快感中枢」とも「報酬系」とも呼ばれている。そこがある意味では人の言動の「すべて」を決めている。心身の最終的な舵取りに携わるのが、このセンターだ。
報酬系はもちろん人間にのみ存在するわけではない。おそらく生命体の最も基本的な形である単細胞生物にも、その原型はあるのだろう。しかしそれはおそらくドーパミンという物質が媒介となることにより始めてその正式な形を成す。たとえば原始的な生物である線虫の一種は、脳とはいえないほどシンプルな神経系を備えているが、そこにはすでに数十の細胞からなるドーパミンシステムが見られる。線虫(本書では「Cエレ君」の名前で登場する)は快感を覚えてそれに向かって行動しているのだ!
人を、あるいは生き物を快、不快という観点から考えることはおそるべき単純化といわれかねない。しかしそれでこそ見えてくる問題もある。私たちが行う言語活動は、ことごとく快を求め、苦痛を避ける行動を正当化するための道具というニュアンスがあるのだ。そう考えることで私たちは私たち自身を一度は裸にすることが出来るのだ。その意味では本書が示す考えは、精神を扱うどのような理論に沿って考えていても、いったんその枠組みから離れ、より基本的な視点から捉えなおすことが出来るものと考える。
本書を御一読いただくことで人の心を考える上での一つの視点を取り入れていただければ幸いである。                  著者


2017年1月30日月曜日

BPD 推敲 ⑤

統合失調症、そのほかの精神病 歴史的にはBPDは精神病と神経症の中間に位置する病理を有するものと考えられた。BPDには明白な幻覚や妄想は見られないものの、被害念慮や関係念慮を抱くことが多く、また思考につじつまの合わなさや一貫性のなさが見られることもある。それらの症状に対して少量の抗精神病薬が奏功することもある。ただしBPDは現在では精神病とは異なる病理として理解されている。
その他のパーソナリティ障害 DSMに記載されているいわゆるクラスターBのパーソナリティ障害、すなわち自己愛、演技性、反社会性パーソナリティ障害はいずれも、そこに高い情動性や他者を巻き込む傾向がBPDに類似する。自己愛人格障害の多くはその防衛がBPDに比べてより堅固で、自己破壊性や空虚感が見られないことで区別される。演技性パーソナリテイ障害もまた、操作的な言動、強い情動の表出等はBPDに類似するが、そこに空虚感や抑うつ、自己破壊性が伴うことは少ない。さらにBPDは不安定で激しい対人関係という典型的な様式によつて、依存性パーソナリテイ障害と区別することができる。さらにはBPDは、持続的な物質使用に関連して現れる衝動性や気分変動とも区別されなければならない。その場合薬物の使用時と不使用時での思考や行動の顕著な差や、薬物からの離脱後にそれらの行動を記憶しないか否か、などが鑑別の際に重要となる。
いわゆるボーダーライン反応:岡野はBPDの診断を特に有しない人においても、他者から去られたり、自分のプライドを著しく傷つけられるなどの際に相手を攻撃し、結果を顧みない行動をとることがあり、それをボーダーライン反応として概念化している。思春期に不安定なとき、飲酒が重なった時などに生じることが多いとする。

<経過>
BPDの経過はかなり多様であるが、従来考えられていたほどにはその症状は持続しない。ザナリーニらの研究(2002)によれば、BPDの患者は2年後には35%、4年後には50%、6年後には70%が寛解の条件を満たし、それらの人たちの6%しか再発がなかったと報告する。BPDの症状としては時間とともに衝動性が一番低下し、情動症状は最後まで残り、認知、対人間は中間だった。うつ、慢性的な怒り、孤独、退屈、空虚さは6年後も70%にみられたという。
Zanarini MC, Frankenburg FR, Hennen J, Reich DB, Silk KR Prediction of the 10-year course of borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2006; 163:827-832 
  
<BPDの治療>
BPDの治療は精神療法と補助的な薬物療法が用いられることが一般的である。
精神療法
BPDの力動的精神療法に関しては、治療者の受身性が退行を過度に促進したり、自由連想を促すことが思考やファンタジーの混乱を誘発したりすることが早くから知られていた。洞察を求める古典的な分析療法よりは、治療者の柔軟性がより求められる支持的療法が重んじられる。この療法では解釈や直面化はむしろ控え、患者自身の治癒力を助け、また自己価値観を高めることを目的とする。またBPDでは発達早期にトラウマを経験をしている場合が多く、それに伴う解離症状を扱う用意も必要となる。そのためマネージメントを目的とした支持的な精神療法を行うことが一般的である。 またBPDの治療においては治療者に強い逆転移感情を引き起こされることが多い。治療者は患者に対し怒りや恐怖、無力感、または好意や救済願望を抱く傾向が大きい。そこには患者が用いる投影性同一視などの機制がしばしば見られる。BPDの治療には病棟のスタッフやそのほかの医療・福祉従事者なども多くかかわることがあるが、それらの援助者がBPDの患者に感情的に巻き込まれたり操作されることも多く、それを防ぐためにも治療構造や治療契約が大きな意味を持つ。ただしそれをかたくなに守るのではなく、柔軟性を発揮しつつメリハリをつけることが重要である。
なお精神療法には様々な種類のものが提唱されている。それらは力動的精神療法以外にも、認知療法、認知行動療法(CBT)、認知分析療法(CAT)、家族療法、対人関係療法(IPT)などがある。
認知療法・認知行動療法においては、BPDの特徴的な極端な二分法的思考が、気分の変動や急激な行動の変化につながると考えられている。明確な治療目標を設定しつつ、クライエントが、二分法的思考法ではなく中間的あるいは多角的にも物事を捉える、感情や行動を自身で冷静かつ客観的に評価するなどの認知を獲得し、それに伴う適切な思考や行動が出来るようになるのが目標である。
対人関係療法(IPT)は本来はうつ病のために開発されたものだが、BPDにも応用されるようになってきている。対人関係療法では、家族や配偶者、友人など身近な人との対人関係の築き方を修正する一方では、本人の性格変容を目的とはしない。
イギリスで1999年にベイトマン、フォナギーにより開発されたメンタライゼーション療法(Mentalisation Based Treatment - MBTは弁証法的行動療法と共に、現在最もエビデンスのある精神療法である。
また米国では1990年代に自殺行為の治療のために開発され、境界性パーソナリティ障害の治療に応用されている認知行動療法の一種である、弁証法的行動療法(DBT - Dialectical Behavior Therapy)が知られる。この療法は主に感情調節スキルの獲得、ストレス耐性の強化、対人関係能力の向上などを目指す。またそこに組み込まれた「マインドフルネス・トレーニング」は、日本禅や森田療法と類似している。ただしその治療は大掛かりで保険診療内におさまらず、実用性は高くはない。

薬物療法
後者に関しては、このBPDの概念が提出された当初考えられていたような精神病的な要素は少なく、抗精神病薬を中心とした薬物療法も著効は示さず、また精神安定薬については嗜癖を促しやすいという傾向があり、むしろ気分障害などの併存症への薬物療法を用うことが多い。
米国精神医学会の2006年のガイドラインによれば、副作用の少なさなどの観点から、第一選択としては副作用の少ない選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)を考え、被害念慮のある場合などは、低量の抗精神病薬が有効である(平島、2008)。
また気分安定薬に関しては、バルプロ酸ナトリウム(デパケン)やトピラマートが衝動性に対してある程度の効果が確認されている(平島、2008)が、筆者は個人的にはラモトリジン(ラミクタール)の効果に注目している。
なおの治療では中断率が高い。ガンダーソンの調査では、半年間での中断率は患者の50%、一年では75%であり、初期から終結まで一貫して治療する例は少なく10%程度だった。
なおBPDは高い治療中断率(44-66%)が指摘されている(Skodol et al, 1983; Gunderson et al, 1989; Kelly et al, 1992) が、これらの 治療を維持するためには、まずは安定した治療関係が前提となることを示していると言えよう。
平島奈津子、上島国利、岡島由香 「8章 境界性パーソナリティ障害の薬物療法」『境界性パーソナリティ障害―日本版治療ガイドライン』 金剛出版、2008年9月、p135-152

Chiesa, M, Drahorad, C. & Longo, S (2000) Early termination of treatment in personality disorder treated in a psychotherapy hospital Quantitative and qualitative study. The British Journal of Psychiatry Aug 2000, 177 (2) 107-111; DOI: 10.1192/bjp.177.2.107

2017年1月29日日曜日

BPD 推敲 ④

<鑑別診断>
ある精神疾患のBPDとの鑑別の際にしばしば聞かれるのは、「これはBPDか否か」という二者択一的な見方である。しかしBPDは他の精神疾患と併存している場合が多い。ある報告では、 BPDは生涯平均4.1の第一軸診断(DSM-IV-TR )と1.9の第2軸診断(同)を有するという(2)。その場合BPDの症状は併存症のそれを互いに強く影響しあい、より複合的な臨床像を示すことになるだろう。

感情障害(うつ病、双極性障害) BPDはしばしば感情障害と並存する。BPDのうつ病の生涯罹患率は71~83%とも言われる(2,3)。BPDによる慢性的な抑うつ気分と、双極性における(軽)躁的な気分や衝動性の昂進はBPDにおける逸脱行動に類似することがある。ただしうつ病とBPDが併存した場合、片方の回復はもう片方の回復を伴うことが多い(7)。

不安障害 米国の研究では、BPDの88%に不安障害が見られ、そのうちパニック障害は34% から48%、PTSDは47% から56%が有し、またアルコールや薬物依存は50%から65%に見られるという(2,3)。
2. McGlashan TH, Grilo CM, Skodol AE, et al. The Collaborative Longitudinal Personality Disorders Study: baseline Axis I/II and II/II diagnostic co-occurrence. Acta Psychiatr Scand. 2000;102:256-264.
3. Zanarini MC, Frankenburg FR, Dubo ED, et al. Axis I comorbidity of borderline personality disorder. Am J Psychiatry. 1998;155:1733-1739.
7. Gunderson JG, Morey LC, Stout RL, et al. Major depressive disorder and borderline personality disorder revisited: longitudinal interactions. J Clin Psychiatry. 2004;65:1049-1056.
解離性障害 BPDと解離性障害はしばしば診断上の問題となりやすい。解離性障害における自傷傾向や自殺念慮、人格交代の際に見られる衝動性や他者への攻撃性は、しばしばBPDの症状とみなされる傾向にある。さらには両者には類似する生活史が見られることもある。またBPDの第9診断基準に解離症状が掲げられていることも、混同に一役買っている可能性がある。無論併存が見られることもまれではない。しかし両者には前者には外在化傾向、後者には自罰傾向といったきわめて異なる性格傾向が見られることも事実である。





2017年1月28日土曜日

自己愛と怒り 推敲 ②

フロイトへの提言-自己愛と怒りの本質
さてフロイトはなぜ、自らが身をもって体験していた自己愛の問題を精神分析理論に反映させなかったのだろうか。フロイトはフェレンチにもユングにも、その離反について、エディプス的な解釈をした。
「ユングは父親コンプレックス(エディプス葛藤)を解決していない。だから私を殺して私の座に取って代わろうとしているのだ。フェレンチも結局はそうなった。」
ここに現れているのは、フロイトが弟子たちのエディプスの問題に注目しているという事実である。それはフロイトが自己愛の問題を意識化していなかったことを示しているというわけではない。ただ重視していなかったからだ。なぜだろうか?それは自己愛の問題は、少なくともフロイトの目には、無意識を介していない、ありのままの、見たままの問題だったからである。フロイトは初めから露わになっているものには興味がなかった。「あたりまえ」だからであり、それ以上の価値がない。
そこで生前のフロイトの時代に戻って、フロイトにこう尋ねたらどうか?「フロイト先生、お尋ねします。あなたがそれだけ誰かの注目を浴びたいのは、実はお父さんから十分に認めてもらえなかったからではないですか? そのことの自己愛の傷つきを十分に意識化されないままにほかの人に向かっているということはないのですか?」
これに対してフロイトはこう言うだろう。「私が父に抱いていて、意識化していなかったのは、殺したいほどの憎しみだよ。私は父の死の際にそれに気が付いたのだ。それに私にはおそらく無意識に同性愛願望があるのだろう。父親に愛されたかったということだろうね。言っておくが、人に認められたい、という願望は勿論ある。でも病理とは無関係なんだよ。何しろセクシャリティーと無関係だしね。私が父親を憎んだのは、母親に対する性的願望を禁止されたからだよ。少なくとも私の説ではね。それ以外は意味がないのだよ。・・・・」 そう、おそらく議論はかみ合わないままなのである。
ここで100年の歳月が流れてフロイトに提言するとしたら、以下のようになろう。フロイト以降様々な理論が生まれた。侵害(ウィニコット)・基底欠損(バリント)・愛着トラウマ(ショア)・共感不全(コフート)・甘え体験の欠如(土居)などに表されるような事態は何か?それはいわば原初的な自己愛トラウマなのである。自己愛の原初形態は身体であり、そこから派生するパーソナルスペースである。その境界は母親との情緒的、身体的接触により定まるのであろう。それが破綻した場合、「自分は取るに足らない、生きていても仕方がない存在である」という感覚を生むことなのである。
では原初的なトラウマに対する乳児の反応はどうであろう?それは以下の通りだ。
●  反撃 (ボクは今このおもちゃを欲しいんだ!と泣いて抗議する、など。)
●  反撃ができない(無効な)際の怒りや恥 (ボクはおもちゃが欲しかったのに。チクショー!)
●  迎合及び偽りの自己の形成 (ボクはいい子だから、おもちゃなんていらないよ。)
●  凍結(解離) (・・・・・・・。)


最後にもう一度結論を述べよう。怒りとは「原初的な自己愛トラウマ」に対する一つの表現形態なのである。