2016年11月12日土曜日

新・無意識の性質 ①

新・無意識の性質

●フロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を突き動かすと考えられた。しかし「新・無意識」においては欲動に相当するものは存在しない。その代わり報酬系と本能を備えている。
   フロイトの無意識に詰まっている欲動は、それが人を衝き動かすと考えられた。ところが「新・無意識」のどこを見渡してもリビドーも欲動もない。そもそのようなエネルギー源に相当するものがないわけだ。しかし正常な人の脳は適度の活動量が見られる。おそらくそこには動因システムや報酬系が関与しているのであろうが、その正体は複雑すぎてわかって十分わかっているとはいえない。赤ん坊は生まれてから不快には泣き、快には満足そうに反応し、やがて笑顔を見せるようになる。自然界に見られるあらゆる動物と同じように動き回り、外界や内界からの刺激に反応する。おそらく生命体のデフォルトのあり方はそのような元気に動き回る存在なのである。おそらくそれはフロイトが考えたようなリビドーという名のエネルギーが充満した状態にも見えるわけだ。ちょうど100%に充電したスマホのように。しかしそれは食欲や性欲などの内側から来る動因だけでなく、面白いものを見て笑い、興味を引かれる、美味しそうなものを見ると食指が動く、というような外界への反応性という形も取るのだ。 つまりそのエネルギーの量は外界に対する反応としても生じてくるわけである。

l        新・無意識は、事実上「自我」そのものといっても良く、フロイトの自我、超自我、エスのほとんどを包含してしまうであろう。他方では「意識」はワーキングメモリー程度でしかない。
さてここが重要なのだが、この新・無意識を考えた場合は、絵を見ていただくと分かるとおり(省略)、意識の部分はきわめて小さい位置を占めている。新・無意識は事実上自我そのもの、といっていいのだが、それはエスや超自我と無意識レベルで強く結びついている。超自我には前頭葉機能だけでなく扁桃核も関係している可能性がある。前頭葉や側頭葉機能の犯されたアルツハイマーやピック病では、あらゆる破廉恥な行動が生じる可能性があるし、扁桃核を両側切除するとクリューバービュッシー症候群隣、なんでも口に入れたり見境のない行動をしたりする。つまり超自我とはどこかに機関があるというわけではなく、人が短絡的な行動に走ることを防ぐような、皮質上、皮質下のあらゆる装置の総称といえる。



 さて以下に述べるように、意識に上ってくる行動はその候補が新・無意識のレベルで上がってきて、最後のサイコロを振るのも新・無意識の役割だとすると、意識はそれを受け取るという非常に受身的な役割を取ることになる。その意味では意識とは巨大な新・無意識に僅かに開いたのぞき窓、といえるかもしれない。PCではRAMスペースに当たるこの意識は、ちょうどワーキングメモリーの広さだと考える人もいる。だから最近の心理学では、意識をこのワーキングメモリーと同等とみなす考え方をする人もいる。私はそれにほぼ同意するが、一つ極めて重要なのは、意識は自分は能動的だ、という幻想はしっかり守るということだ。そう、意識とは外界の知覚刺激を映し出す窓、そして起きた行動については自分が主体的にそれを選択したという感覚を持つという大切な任務も担っている。

2016年11月11日金曜日

退行 再推敲 最後の部分

トランプの当選の一つの背景には、彼の言動が、人々が普通は抑制するようなことに関わっているために、一種のカタルシスを味わっていた … そういうことなのだろうか?

治療が促進するときに治療者が抱いているイメージは、治療者患者の双方にとって安心感が生まれ、患者にとっては自分の感情やファンタジーの表現が危険ではなく、受容されるという感覚が生まれることである。要するに治療者に心を許し、甘えられるようになることだ。ところが問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしてそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味で私が提案するのは、新しい「退行」の概念であり、そこには幾つかの条件が満たされなくてはならない。
(特に治療者に対するものを含む)感情やファンタジーの表出が安心して行われる状況の成立すること。実はこれは土居の「甘え」が生じる環境と言い換えてもいい。
 結論として退行の概念は以下の点を留意しつつ注意深く用いることで、治療的意義を保持するというのが筆者の考えである。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、あくまでもそれは関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。退行とはあくまで、臨床的な現象なのだ。そしてそこには明白な転移が介在する場合もしない場合もある。
第二には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が実際には体験したことがない状態でありうる。その場合に患者は一種の嗜癖に近い状態を起こし、治療者との依存関係を解消することにきわめて大きな抵抗を示し、治療は膠着状態に陥るであろう。
この退行が生じた状況を思い浮かべることが難しい臨床家にとっては、甘えの概念が役に立つ。要するに患者の側も治療者の側も互いに甘えの感情を持ち、それを適切な形で表現できるような関係性なのである。
ここで棚上げにしておいた、Winnicott と Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点について最後に述べたい。基本的には患者に依拠すると言いたい。悪性の抵抗は BPD の病理と深い関連がある。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」という DSM の診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。
良性の退行は土居の甘えの理論のように、治療に不可欠といえるが、問題は今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおすことと考える。では悪性の退行を引き起こすのはどのような要素なのだろうか?それには患者の持つこの嗜癖傾向あるいはボーダーライン心性と、治療関係の両者が関与することが考えられる。場合によっては治療者がごく常識的な対応をしていても悪性の退行が生じることもある。しかしその場合その悪性の退行を放置する治療者には何らかの逆転移、ないしは知識不足がなくてはならないであろう。

2016年11月10日木曜日

退行 再推敲 土居の部分

トランプ勝利の衝撃。恐ろしいけれど興味深い事実が示されたと言えるだろう。それはアメリカ人(人間一般?)の一部が、自分たちが持っている差別心を、投票という匿名性の保たれた行動により表明したということである。トランプはアメリカ人が潜在的に持っている差別心(これがない人はいないのだ)に働きかけた。恐るべき狡知であり、究極の●●●パス的行為といえないだろうか?これはたとえば「虐め」にも通じる現象だ。誰かをいじめたいが表立っては出来ない。そこで隠微な形で虐めを実行する。苛められる当人しかわからない形で。

退行概念と甘え

この論旨の流れて触れておかなくてはならないのが、甘えと退行との関連性である。我が国の精神分析家土居により提唱された甘えの概念は、子供が表現する情緒ないし態度であるとともに、大人になってもしばしば体験されるが、それがある種の依存状態、精神的に退行した状態で生じることが知られている。それを臨床的な概念として抽出した点に土居の功績がある。
 甘え理論の提唱者である土居は、甘えを治療論と結びつけている。土居は E.Kris の概念である「自我に奉仕する退行」(Kris, 1952) に触れ、「精神分析療法自体このような『自我に奉仕する退行』を組織的に一貫して行なうものである、ということができる。」(土居、1961,p.43)と述べている。土居が患者が治療者に健康な甘えを示すことを治療の一環と考えた以上、治療場面における退行はむしろ土居にとっては必然ということになる。
Kris, E. (1952) Psychoanalytic Explorations in Art. Int. Univ. Press,New York. (馬場禮子訳・芸術の精神分析的研究。岩崎学術出版社 1976.)
「精神療法と精神分析」(金子書房、1961)において、土居は以下のように述べている。「・・・われわれが物心つき始めた幼児について、彼は甘えているという時、この幼児は甘えられない体験を既に知覚しているので、そのために甘えようとしている、と考えられることである。いいかえれば、日本語でいう場合の甘えの現象は、原始的葛藤と不安の存在を暗示していることになる。その葛藤は受身的対象愛が満足されないことによって生起したのであり、そのために意識的にこれを満足させようとする時に、甘えの現象が観察されると考えられるのである。」すなわち患者は甘えという受け身的な対象愛を満たされたかったといういわばトラウマを抱えたままで治療に参入することになる。
ここで土居の言及する「受身的対象愛」は Balint の概念であるが、それを土居自身が精神分析における甘えと同等の概念として位置付けている。そして自らの理論と Balint のそれとの共通点を強調する。土居は Balint について「同じ発想をし」「考えが同一線上にある」と認めている(甘えさまざま 弘文堂、1989、p.112)。

また土居の発想は、彼がほとんど言及しなかった Winnicott 理論とも深くつながる。現在の英国における Winnicott 研究の第一人者である Abram, J は土居の甘え理論を詳細に読み込んだうえでこの点を強調し、「土居とWinnicott は基本的には全く同じ路線に立っている。土居がむしろ Balint の方に接点を見出したことの方が不思議である。」と論じているAbram, 2016)。

2016年11月9日水曜日

退行 再推敲 松木先生の部分

松木の見解
次に松木邦裕の退行に関する論考に触れたい。松木は以前から退行の意義を問い直す論考を発表している。松木はその2015年の論文で、精神分析の中でも特に退行概念を無視しているのが、英国クライン派であるという。ただし Klein, M 自身は妄想-分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしており、むしろその後継者たちの中には、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちも多いという。そして松木は Bion, W の次の言葉を引用する。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う」(Bion,1960)
 松木は自らの退行理論を述べるにあたり、Menninger, K., Balint, M., Winnicott, D の3名の分析家の退行理論をまとめる。そして Balint にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であり、比較的単純な議論であるとし、むしろWinnicott の退行理論により大きな意義を見出す。
ちなみに松木が退行についての考察を進めた経緯が書かれているが、興味深い。彼は1994年に「精神分析研究」誌に掲載された「退行について―その批判的討論」がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情などにも触れつつ論じる。彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」が過激すぎて物議をかもしたというのだ。彼は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向であるため、幼児帰りした母親の面倒を見る、というニュアンスを生むという。それに比べて転移なら二者心理学的で、未来志向である。そして松木はそのような視点は、Balint にはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、Winnicott は転移の視点を入れている点で、評価に値するとする。その上で松木が問いかけるのは、退行の概念が現代の精神分析においてはたして価値を依然として持ちうるのか、という点である。そして退行の概念は転移の概念の中に発展的に吸収される可能性を示唆している。

松木邦裕(1994)退行について―その批判的討論 精神分析研究 38(1) p.1~11
松木邦裕 (2015) 精神分析の一語 第8回 退行 精神療法 41(5) p.743-753 
Bion(1960)Cogitation, Karnac Book, London


治療への応用可能性について-筆者の考え

最後に筆者の考える退行の概念について論じたい。退行の概念は、その意義を認めるのであれば、精神療法への応用において最も重要となろう。松木(2015)の指摘するとおり、退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。すなわち退行も治療関係上に生じた転移の一つの形態として理解しうるのだ。
 ただしそれは転移を退行に優先されるべきものとして理解することを必ずしも要請しない。転移関係の中には退行が明白な形では生じないものもあるからだ。一つ端的な例を挙げるならば、治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを解釈した、という場合はどうだろう? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、このままの治療関係ではどこにも着地点が見つからないのではないか? なぜなら治療のある時点で患者が「先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるような関係性の成立は必須となるからである。そしてそこで成立しているのはある種の親しみと安心感、リラックスした状態の成立を意味し、それを表現する用語としては結局「退行した状態」が当たらずとも遠からずということになる。土居の文脈では、それは甘えられる関係と呼んでよく、また Balint の分類では、それは良性の退行に相当するであろう。

2016年11月8日火曜日

分析学会の印象

 精神分析学会が終わった。11月の3,4,5と広島市で開催されたのだ。分析学会は私が唯一フルで出席する学会である。気がついたらもう20年以上も、フル参加を続けている。今回もいろいろ考えさせられたが、やはり印象的だったのは、そこは独特の空気が流れる空間であるということだった。「ある前提」が支配している感じがある。そしてもちろん私もそれに影響を受ける。その前提とは、患者のファンタジーにも言動にも、転移的な意味があるということだ。
 抄録を読むと、定番のターム、表現が並んでいる。これがないと精神分析ではない、といわんばかりに。投影性同一視、分裂排除、患者の攻撃性、転移の解釈・・・・。あたかもそれ以外の路線は精神分析ではないかのようだ。
 最後の日のシンポジウムは夢がテーマであった。クライエントが持ち込む独創的で意外性に富む夢。それをいかに巧みに解釈するかが問われる。もちろんその夢を見たクライエント自身が持つ連想も論じられる。しかしその夢の内容が印象的であれば、当然その内容に揺り動かされ、それに様々な意味を付与し、あるいは読み込みたくなる。議論自体はとても刺激的であることは確かである。しかし少し気になるのは、それがある意味では治療者のナルシシズムの反映でもありうるということだ。だって、夢がどのように構成されるかはまったく不明なのに。(作曲家にとってメロディーがどうやって構成され、降ってくるかはまったくわからないのと同じだ。)
 分析として正しいこと、その真理を追うことがやはりクライエントにどのように還元されるのかという認識がやはり弱い。分析を志すものとしていかに正道を歩むかが問われる。しかしどうして夢、なのであろうか?どうして転移なのか?いや、夢や転移は大切なのはわかる。しかしどうしてそれだけになってしまうのか・・・・。
 今回の学会がいつにも増して盛況だった一つの原因は、ちょうど中日(なかび)である4日に行われた広島カープの優勝パレードである。そのために平和大通りに一時大幅な交通規制が行われた。私も人ごみにまぎれて遠くから天井のないバスに乗り込んだ選手たちを目にすることが出来た。
 カープファンは私には信じられないような熱狂振りで選手に声援を送る。精神分析の学会に集う若く優秀なセラピストたちも同様なのだろうか?私はおそらくその熱狂には最初からついていっていない。それでいてよく20年以上も出席するものだ。私も実は「隠れ」分析ファンなのかもしれない。
 会場では旧知の和田秀樹先生にも会った。多作の彼からまた著作を一冊いただいた。医師のつく嘘についての面白い本であった。彼は実はカープファンで著作まで出していることを知らなかった。彼もまたそれなりの分析のファンとして会場を訪れたようだった。
 分析学会は、来年は名古屋でまた11月に開かれる予定である。

2016年11月7日月曜日

退行 再推敲 Balint の部分

バリントの退行概念 
Winnicott と同様に退行を治療論の文脈で扱った分析家としては、Balint,M. の名を欠かすことはできない。彼の「治療論から見た退行(中井久夫訳)」に沿って以下に検討したい。
 Balint の退行理論は、Ferenzci,S. の臨床経験についての詳細な考察に基づいたものである。そして治療状況における退行を良性と悪性に分類する。Balint によれば、良性の退行とは、相互信頼的な、気のおけない、気を回さない関係の成立が難しくないものであるという。その退行は心の「新しい始まり new beginning 」を導くものであり、現実への開眼とともに、退行は終わる、とする。退行は患者の内的な問題を認識してもらうためのものであり、その際の要求、期待、ニードの強度は中等度である。さらには臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がない、とされる。
他方悪性の退行では、相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回さない雰囲気は何度も壊れ、しばしば、またもや壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線、補償として絶望的に相手に纏りつくという症状が現れる。悪性の退行は、新しい始まりに到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険と嗜癖類似状態発生の危険が絶えずある。
この悪性の退行は、外面的行動をしてもらうことによる欲求充足を目的としている。要求、期待、ニードが猛烈に激しく、また臨床像に重傷ヒステリー兆候が存在し、平衡状態の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わる。(以上同著p.193より抜粋。)
 Balint がさらに強調すのは、退行の関係論的な側面である。「退行とは単なる内界の現象ではなく対人関係現象でもある」(p.193)。そしてFreud およびそれ以後の分析家のほとんど全員が対象関係における退行の役割に目をくれなかったと批判する。そのおそらく唯一の例外は先に見た Winnicott ということになろう。
その Balint の退行理論にあり、Winicott になかったのは、この悪性の退行の記述である。そしてこれが貴重なのは、臨床家は常にこの悪性の退行を起こしかねないクライエントと直面しているからである。
しかしWinnicott, Balint のいずれもが示しているのは、患者が持つある種の治療者への依存関係が、治療にとって大きな意味を持つという視点である。ただしWinnicott が適切な環境が与えられることにより、過去のいわばトラウマ状況の記憶の解凍につながるというやや楽観的な見方を提供するのに対し、Balint はそこにある種の嗜癖状態に陥るという意味での釘を刺したといえるであろう。
ちなみにこの良性の退行、悪性の退行という分類についてBalint は「分析家の技法と振る舞いが万能的であるほど、悪性退行に陥る危険は高まる。逆に分析家が患者との間の不平等を残らせるほど、分析家が患者にとって押しつけがましくない普通の人に見え、退行が良性になりやすくなる。」(ibid, p. 226)と主張している点に注目すべきであろう。要するに治療者の扱いにより、良性にも悪性にもなるという理屈である。これは前出の Winnicott と対比的といえる。彼にとっては、「分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来する」のだからだ。この両者の対比は極めて重要な論点をはらんでいる。
この点について述べれば、結局は退行の性質を決めるのは、素質と環境因の双方である、という比較的素朴な結論に落ち着く。ただし比率としてはやはり素質の方におかれるべきであろう。というのも人間関係には様々なものがありえ、退行促進的であるものからの誘惑も私たちは常に体験していることになる。Balint の言う万能感の強い対象に対してそれに誘い込まれることなく、むしろそこに怪しさや危険を感じ取り、接近しないことも重要な能力であり、それはおそらく生育環境により育まれていることであろう。その意味ではやはり「患者にすべて由来する」というWinnicott の考えが近いように私は思う。


2016年11月6日日曜日

退行 再推敲 Winnicott の部分

対象関係論における退行

Winnicott の退行理論

Winnicott の退行の理論は、それを治療の根幹に据えたという点で特筆すべきであろう。彼の理論の骨子は比較的明快である。幼少時に親からの侵害を受けることで偽りの自己が生じる。患者の病理の理解や治療は多かれ少なかれ、この偽りの自己の程度やその社会生活に及ぼす影響に関係する。そして分析的な治療は治療関係において、その侵害が起こった時期までさかのぼることと不可分であると考える。Winnicott は分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来すると考える。治療において治療者は必然的に何らかの失敗を含むことになるが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現される。その際患者は解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になる。
 このように治療と退行とは不可分であるものの、Winnicott は同時に、最初から退行を促すような治療態度を是とはしない。「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(1955)とも述べる。すなわち治療者が意図的に「患者を退行させよう」というのは結局はそれ自体が侵害になってしまうことを示唆する。
さらに詳しく見てみよう。Winnicott の退行の理論は「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」(北山修(監訳)「小児医学から精神分析へ―ウィニコット臨床論文集―」岩崎学術出版社 pp335-357)に詳しく論じられているが、その論旨は必ずしも明快ではない。その中で彼は症例を3つのグループに分けている。第1は、Freud が治療したような神経症グループ、第2のグループは、人格の統合性がようやく成立した段階の人たちである。そして第3のグループ、すなわち「単一体としての人格が確立される以前ないしそこに至るまでの情緒発達の初期段階を、つまり時空間の統一状態が達成される以前のものを分析が扱わなくてはならないようなすべての患者たち」に当てはまるという。そしてこれらの症例については「通常の分析作業を中断し、取り扱い management  がそのすべてとならざるを得ない」(p336)とする。その場合は退行が十分に促進されることが治療に必要とされる。
 Winnicott の退行理論の特徴は、患者が退行できることを一つの能力として捉えている点である。そしてそれは「初期の失敗の修正の可能性を信じること」であることと言い表される。
Winnicott はさらに二種の退行についても論じている。ひとつは環境の失敗状況への退行であり、その際は個人的な防衛がそこで行われたことを意味し、分析の対象になる。しかしより正常な、早期の成功した状況の場合は、個人が後の段階で困難が生じたときに、よい前性器期の状況に戻る。そこでは個人の防衛の組織ではなく、依存の記憶、環境の状況に出会うのだという(P341)。そしてFreud が扱い記述した症例は乳児期の最早期に適切に介護された症例なのだとする。
分析作業において「依存への退行」が生じる際に備わるべき条件は以下の通りとされる。
1.信頼をもたらす設定の提供。
2.患者の依存への退行。
3.患者は新しい自己感覚を持つ。
4.環境の失敗状況の解凍。
5.想起の環境の失敗に関連した怒り。それが現在において感じられ、表現される。
6.退行から依存に回帰し、自立に向かって順序正しく前進する。
7.本能的なニーズや願望が、正真正銘の生気と活力を持って実現可能になる。これが何度も繰り返される。
この解凍ということについては少し説明がいる。ある特定の環境の失敗に対して、個人がその失敗状況を凍結することによって自己を防衛することができるのは、正常で健康なことであるという。改められた体験の機会が後日生じるだろう、という無意識的過程がそのことには伴っているという。
この凍結、および解凍という言葉の使い方、実は解離性障害の文脈からは特別の響きを感じる。つまりそれは過去の外傷記憶は治療における再固定化を減ることで解毒化に向かうという方向性を示唆しているのである(岡野、2014)。
ちなみに筆者にとって一つ気になるのは、Winnicott はのちに紹介するBalint, 土居と異なり、「愛」について強調していないというところがある。愛というそれ自体曖昧な概念の代わりに母親の原初的な没頭や世話、マネージメントなどのタームで治療を論じているのが彼の理論の特徴といえる。