2010年11月30日火曜日

ニューラルネットワーク その1. 前野隆司氏の「受動意識仮説」

私のこのブログには、ほとんど引用文献がないことが特徴だろうが、それは私が読書が嫌いで勉強不足だからだ。ただしもちろん注目する理論、参考にすべき学術書などはある。最近の慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」という、名前だけ聞いたら非常にとっつきにくい理論もそのひとつだ。何しろ明快で、私がニューラルネットワークや、創造性、不可知性として考えている内容にそのまま重ねあわすことができる。解離について考える上でもとても有効な考え方だ。
私も「前野理論の専門家」ではないから誤解している部分もあるだろうが、その代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 前野 隆司 (著) 筑摩書房、2004年)
で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。
どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
前野先生の心の理論を一言で言うと、それは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)
そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。
さてここからは、私が追加する部分である。このような考え方からは、多重人格の由来やその振る舞いもきわめて合理的に説明される。DIDの人の心は少し特殊で、ニューラルネットワークの中がいくつかに分かれ、それぞれの活動が連絡を取り合わないような仕組みが存在している。するとそのいくつかのグループのどの活動が、トップに到達するかにより、誰が現在活動しているかということが変わってくるのである。これが、どうして現在の人格Aが、突然別人格Bに取って代わられるか、ということを説明しているというわけである。
さらにはそれぞれの人格の持つ自律性、つまりそれぞれが個別の人間として振舞う、という性質についてもこの前野氏の仮説により説明される。そもそもボトムアップモデルの特徴は、自己の持つ自律性とは末端のニューラルネットワークにより生じるさまざまな活動の産物であるとして捉える。するとニューラルネットワークがいくつかに分離されている状態は、そこに異なるいくつかの自立性を持った意識が生じるということを意味するのである。

2010年11月29日月曜日

治療論 17 常に直感とは反対を考える Think counter-intuitively

精神療法を行っていると、普通の人との普通の会話というのが、時々わからなくなる。こういうところが私が社会性がないところだと思うが、面倒になったり、まだるっこしくなったりする。おそらく私が酒を飲めないことも関係していると思うが、延々と終わりのない会話、というのはとてつもなく疲れる気がして、初めからパスしているところがある。(うちの神さんは、気があった人となら、何時間でも話し込むという天才的な能力を持つ)。
関係性が定まっている人との会話はそれなりに楽しめる。患者さんとの会話も、学生との会話もそれなりに楽しい。神さんとの会話も楽しい、というよりは同居している以上、楽しくしないと意味が無いので、それなりに楽しいものにするよう、心がけている。冗談を言い合うとか。学生と患者さんとは楽しいが、目的と内容が限定されていて、内容を伝え合ったり、こちらから伝え終わることで会話が終わるというところが重要である。それ以外の、時間に制限がなく、それが心地よく楽しいから話し続ける、ということは、年齢と共にますますできなくなっていく。むしろ一人でいるのが一番気楽である。これはやはり社会性の欠如である。
ところで精神療法家としての会話について書こうとして、書く前から脱線したわけだが、理由のない脱線ではない。精神療法においては、クライエントへの反応の仕方は「直感とはいつも反対」を考えているところがあり、それが何か特殊な注意力を必要とする。それは疲れるが、同時に醍醐味がある。すると「直感に素直に従い、つまり気の赴くままに交わす会話、普通の会話というのが刺激が少なく単調に感じられるわけだ。
なぜ治療者の交わす会話が直感とはいつも反対を目指す、ある意味で非常に不自然な思考に基づくものとなるかというと、直感的な思考は、患者さんが日常生活でいくらでも出会っているからである。それが何らインパクトを与えなくなって患者は治療者を訪れている。当たり前の反応をしてもむしろ「またか」という反応を招きやすい。
直感とは反対のことを言う、ということは、すなわち天邪鬼な思考をする、ととられては困る。患者さんの言葉から誘発されるさまざまな反応から、通俗的で誰でも考えるような反応を濾し分ける、というところがある。そして当たり前の反応しか出てこないのであれば、むしろ黙って聞いているというほうを選択するだろう。
たとえば患者さんが「もう何をやってもうまくいかない。誰も理解してくれない。先生もわかってくれない」といったとしたら、おそらくそれに対して思い浮かぶあらゆる反応は、彼が出会った反応の繰り返しに過ぎなくなるであろうし、それよりは黙って聞いているほうがいいのである。それで何かが解決する、というわけでもないが、少なくともこちらが患者さんの言葉を重く受け止めていることを示すことになる。
通俗的な反応、それは結局は感情的な反応ということになる。同じことを神さんから言われたらどうだろう。「もう何をやってもうまくいかない。誰も理解してくれない。アナタもわかってくれない」これを聞いて私は「またいつものが始まったか・・・・」とかつぶやいて、ムッとした態度を取るかも知れない。あるいは「そういうアンタも、こちらの気持ちをわかっている、とでも言うの?」と返すだろう。これは正直で、直感的にすぐ思い浮かび、感情的な反応であり、ゴミ以下の価値しか持たない反応なのである。
ただし精神療法家として仕事をするとしたら、このような価値のない言葉をやり取りするような環境もまたある程度は必要と言える。それは相手のためにはならなくても、自分自身の何かを排出して、重荷を下ろす上では何らかの意味を持っているということになる。

2010年11月28日日曜日

治療論 その16 「冗談」(症状、ではなく)にこそ無意識が表れる

市川海老蔵がこれからマスコミに叩かれるのだあろう。父親の団十郎は激怒したとか。でも生まれつき定められた道を歩むプレッシャーも大変なものである。それをある意味で押し付けた団十郎が本気で怒っているとしたら、それもどこか違う気がする。(彼自身も同じような運命だったのかも知れないが。)海老蔵があのような形で羽目を外す事でしかバランスを取ることが出来ないとしたら、今度の「失敗」にもある種の必然性があるのかもしれない。

私にまだ精神分析に対する理想化が今よりずっと残っていたころ、言葉や症状が無意識内容を象徴しているという考え方はとても魅力的であった。これは標準的な知的レベルのある理科系人間の心をいたくくすぐる可能性がある。ほんの僅かなサインが、広大な無意識の領域に潜んでいる問題の鍵を握っていて、その人の将来の行動すらも暗示するというのだ。コップに残された後からDNA鑑定で犯人を割り出してしまうような、スリルもそこにはある。それがフロイトの提唱した決定論的な考え方の悩ましいところだった。
メニンガーに留学していたころ、ある非常に高名な精神分析家がカリフォルニアから訪れた。グロッツテインというアメリカには珍しいクライン派の分析家である。極めて知的でおおむね話の内容をフォローできないような講演を聞いたが、その後に彼によるケースのスーパービジョンがあった。その中でグロッツテインは、患者の最初の挨拶の言葉一つを分析することで、セッションの進行具合が分かる、というような話をした。ちょうどケースを出すレジデントが一つのセッションの最初の部分を報告したときに、彼がそんな話をしたのだ。
はたして彼が予言したとおりに、そのセッションが展開したのかは何とも言えなかったのだが、とにかくその風貌(私の中では全盛期のカラヤンみたいな威厳があったが、本当は全然違うかもしれない。)と高度に知的な講演の内容から、「うーん、さすがに高名な分析家は違う」と思ったが、その頃すでにフロイト的な決定論に対しては疑いを持ち始めていた私はどうしても疑問に思えた。本当にそんなことはできるだろうか?そしてそれは意味があるのだろうか? (そのセッションだって、その後どうなったかは、ケースのプレゼンターの原稿が読まれていくうちにどうせ明らかにあることである。それを予言することに意味があるだろうか?)
こんな時に素朴な質問をして、納得のいく答えをもらえるバイザーを持っていた私はラッキーだった。私のサイコセラピーのバイザーであるドクター・キューリックは「どの程度彼が予言できたかは、何とも言えないが、そういうことを言うのは、恐らく分析家のナルシシズムだろう。」と喝破した。メニンガーのスタッフであった彼も、グロッツテインのセッションに出ていたのだが、彼がそう言うのを聞いて、私は頭の中がひっくり返った思いだった。「そ、そんな事なの? 偉い分析家なのに、そんなのアリ?」 もしそうだとすれば、分析家とはなんという人種だ、と思った。
いまではドクター・キューリックの言ってくれたことは、少し誇張が入っていたとはいえ、あながち間違いではないという気がする。患者の挨拶の仕方一つからセッションの行方を知るには、心の構造は複雑すぎ、ノイズが多すぎる。ビルの屋上から一枚の枯れ葉を落とし、下の舗道のどのブロックに着地するかを正確に言い当てるようなものだ。
ところで私がいつも思うのは、それとは別のことだ。ちょっとしたジョークに、その人の本心が実に現れることがある。これはほとんど例外がないのではないか? こういう部分に、一言が本心を表しているという決定論は結構当てはまるように思える。
私が朝出がけに見ている「朝ズバ」で、みのもんたさんがしばしばジョークをいう。「(石川)遼クンが優勝だって?すごいですよねえ。私が教えたとおりにやったからね。」そしてゲストの笑いを誘う。もちろんこれはジョークだが、実に彼らしい。「みのさん、ゴルフがそれほどうまいんですね」とでも言ったら、彼は「何いってんの?ジョーダンに決まっているじゃない」という反応をすることは間違いないが、やはりこの種のジョークは何かを表していることが直感的にわかる。某テレビ局でかつて高視聴率を取り、裸の王様になりかけていると聞くみのさんのナルシシズムを垣間見せてくれるのだ。
何かを自慢したいという願望や性的なファンタジーは、いつもその表現をうかがっているようなところがある。そしてジョークという形を借りてでも姿を現すところがある。だから治療者の語るジョークというのは注意が必要なのだ。
グロッツテインが問題した挨拶でも、その語尾や調子に、治療者や患者のお互いに対する気持ちが表れることだったらしばしばあるだろう。患者さんが入ってきたときに治療者が 「今日は時間どおりですね。」と言ったとしよう。それは「いつもは遅れるあなたが、今日は定刻通り入らっしゃいましたね」という驚きや避難を表している可能性がある。これは「患者さんの毎回のちょっとした遅れについては言及しないでおこう」と治療者が思っていたとしても言葉として紛れ込んでしまうというわけだ。
では私はフロイト張りに「言葉のちょっとした特徴は、無意識を象徴している」とでも言っているのだろうか?それは違う。ジョークや挨拶に表される人の気持ちは、その言葉が発せられた両者によって、実際に感じ取られることが多いからだ。その意味では漏れ出たもの、enactment 、そしてその意味ではあまり無意識、ではないということになる。これはフロイトが「夢判断」で披露したような、謎解きのような、アナグラム的な分析とはかなり異なった、非常に実感を伴った体験に基づいたものなのである。

2010年11月27日土曜日

治療論 15 治療者の言っていい冗談と悪い冗談

今日はフロイト全集(Standard Edition)の一冊をPDF化してみる。私にとっては、本をばらしてスキャンして捨てる、という罰当たりな行為をするのに一番ためらいのある本である。

治療者は冗談を言っていいのだろうか?もし言うとしたら、何がその素材となるのだるか?これが結構むずかしいのだ。ある意味では数日前に論じた柳田法相の失言問題とすこし似ている。政治家が人前で行うスピーチは、かなりの気分の高揚をともなうものだ。ある程度テンションを高めないと、通勤や買物の途中でわざわざ足を止めている聴衆も付いてきてくれない。そしてスピーチモードにある心は、通常の心のあり方とはかなり異なったものとなる。それは彼らの街頭演説の仕方を見ても分かるだろう。あの小沢さんも、夏の民主党の代表選ではあれだけ雄弁になり、サービス精神を発揮したではないか。そして政治家が熱に浮かされて通常の判断能力を失いかけている分だけ、そこに不用意な発言が紛れ込む可能性も高くなる。 
それに比べれば、一対一でクライエントと向き合う治療者の場合は、事情はかなり異なる。しかしそれでも治療者は時には患者との話を盛り上げようとして冗談を言うこともある。患者をリラックスさせ、また親しみを示そうとする過程で、口が軽くなり、ふと余計な言葉が出てしまう場合もあるのだ。また治療者は、治療中にざっくばらんに冗談でも言って、患者と大きな声で笑いたいと思うこともある。私が昔属していた診療所で、よく隣のオフィスから患者さんと一緒になった笑い声を上げていた治療者がいたが、彼女はとてもいいセラピストだったことも確かである。
しかし治療者にとって患者はサービスを提供する対象であるから、笑いを誘うにしても慎重さが必要となる。まず患者さんの身なり、身体的な特徴、癖などを話題にしたジョークが禁句なのは当然だ。そんなことをするのはよっぽど意地悪な人だと思うかも知れないが、私たちの日常生活では、夫婦間や気のおけない仲間同士の会話には、かなり相手を「いじる」ジョークがかわされる。お互いに相手があまり気にしていないと分かっているようなくせとか特徴をほのめかす会話はかなり多いことにあらためて気付かされる。
しかし治療者患者間では、お互いにかなりの時間を共有し、気心が知れた様な関係でも、その種のジョークは禁忌である。治療の場ではいかなる形でも、治療者が患者を意図的に傷つける行為は許されない。治療は外傷的な要素を孕むことは、純粋な不可抗力を除いては許されないのだ。
このことは裏を返せば、治療者は自分を嗤うジョークであればとりあえず「安全」であるということになる。しかし治療者が自分について語り、いわば自虐ネタで笑いを取ろうとすることも実は問題になることが多い。自虐ネタは当然治療者の自己開示をともなう。治療者の方は、私は特に何も隠すことはない、というおおらかな気持ちかもしれないが、患者の身になったらそんなこと「聞きたくもない」かもしれないのである。治療者の存在は、いろいろな意味で気になるのであり、自分を表現するとしても、著書なりブログなりですればいいことだ。(といってこのブロクを正当化する。)
そんな条件下で治療者は安全で患者と楽しむことの出来るジョークを言えるのかと思うのだが、私には時々気がついたら患者さんと大笑いをしているということがある。そういう時は実に楽しい瞬間なのだが・・・・・。今思い出そうとしても、何の話で笑ったのかがさっぱり思い出せない。まったくの偶然の産物なのだろうが、何かについて一緒に笑う機会があるのは確かだ。ただひとつ言えること。冗談を言って患者と共に笑うという「技法」などは、どの精神療法の指南書にも載っていないだろうということだ。

2010年11月26日金曜日

「気弱さ」ということ

私のブログは「気弱な精神科医」ということになっているが、そもそも「気弱」とは某出版社の編集者の口から出た言葉である。数年前に「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」という本を出したときに、その内容を読んだ上で題についてのアイデアを出したのが、その編集者だった。私はそれを聞いて、ふたつ返事でOKを出したのである。「題に『気弱』、という表現が入っていいんですか?」と念を押されたことを覚えている。実際に本が出まわってから、作者から「こんなタイトルじゃ嫌だ!」というクレームが付くこともあるのかもしれない。「気弱」であると認めているということは、実は本当は気弱ではないと思っているからなのだが、では気が強いかというとそうではない。ある種の弱さを自覚しつつ、それを補っているものがあるのを自覚しているので、大丈夫だ、と感じているらしいのだ。人事のように言うが。そこでこれを「気弱さ」と表現して、通常の意味での気弱さと区別してみる。
海外体験のおかげで、私の「気弱さ」が欧米人にどのように映り、どのように扱われるかがわかったところがある。最終的に私は米国で人並みには適応できて帰ってきたつもりなので、「気弱」でも適応する方法がある程度はわかったつもりである。そして治療者として働く上でも「気弱」であることは私にとっては重要な意味を持っている。アメリカでも日本でも、だ。

ただし「気弱」であることは日本人の間ではそのポジティブな意味も含めてある程度は理解されても、欧米人との間でそれが通じたという思いは決してなかった。米国で唯一ある程度その路線で通じ合えたのは、私が担当した患者さんたちだったという経緯がある。その結果気弱さは文化を超えて人が持つ心のあり方であり、恐らく欧米の社会ではそれを表現することがかなり抑制されているということを感じた。患者さん達は精神科医の前で、強気さの仮面を脱いで自分の気持を語るから、そこで私の気弱さや「気弱さ」と反応し合ったことになるだろう。ともあれ欧米社会では、それこそ臨床場面で患者を扱う場面以外では、弱気で自信がないことは、それを表現することで何一つメリットがないということを知ったのは、大きな収穫だった。

「気弱」な私の立場から見た人々は、非常に自信を持ち、「そんなに風呂敷を広げていいの?」と問いたくなるような振る舞いをする。それなりに地位を得て、リーダー的な立場にたっている人を見ると、ほとんどの人がそのように映るのだ。そう、日本で活躍しているリーダーたちの多くは、気弱では決してないということになる。むしろ傍若無人なほどだ。ということは私がそのような立場にたっても「全然自信がないし、少なくともそこまで風呂敷を広げる勇気はない」ということになる。風呂敷を広げる、とは人に自分の主張や考えについて雄弁に語る、安請け合いをする、ということであり、見方を変えると私はそのようなことに対してよほど気弱で臆病ということになるだろう。

それでは私の気弱さを補って「気弱さ」にしているのは何かといえば、一種の自己表現の欲求、ということになる。例えばこんなブログを書くことだ。これはしかし「自己顕示」とはならないのは、「顕示」することに臆病だからである。

自分がそれに属すると思うからかも知れないが、傍で見ていて面白いのは、「恥ずかしがりやの目立ちたがりや」の人というのは見ていて飽きない、という発見が元になって、「恥と自己愛の精神分析」(岩崎学術出版社、1998年)が生まれたのである。

2010年11月25日木曜日

治療論 14 セラピストとしての生きがい

セラピストの生きがいとは何かを考える。これは案外むずかしい。医者、それも例えば外科医の生きがいなどと比べると、はるかに複雑だ。有能な外科医はとてつもないハードスケジュールをこなしているように見える。外科手術はそれこそ一昼夜以上かかって行うようなものもある。外科医の貴重な時間の多くが手術室で費やされることもあり、およそ常人とはかけ離れた生活パターンを持つ人が多い。夜遅く手術を終えてから、深夜まで外来をこなし、その後に診療録を書く、などということもある。どうしてそんなハードスケジュールをこなせるのかと思うが、実は彼らは手術の成功を祈っている患者自身やその家族から「ありがとう」という感謝の言葉のために生きているようなところがある。そしてそれを彼らは隠さない。

テレビでよく「天才外科医の激務の一日!」とか銘打って、彼らの手術室内外での活躍を紹介すると、私はつい見てしまう。彼らは何時間もの間手術に全神経を注ぎ、一ようやく仕事を終えた後、間をおかずして家族の待合室を訪れる。そして嬉々として手術の成功を伝えるのだ。彼らは家族に「きっと良くなりますよ。よかったですね。」と言っているように聞こえ、また「私はこんなに見事に手術ができましたよ。すごいでしょう?」と得意になって手柄話をしているようにも見える。

外科医はたいてい家族にはよくわからない用語を用いて手術の様子を説明する。どんなに大変な術式だったかを訴えているようでもある。二年ほど前にうちの神さんが歯科で上下の顎の骨を削るという大手術を受けたことがある。若干疎通性の悪かったその歯科医は、手術中に撮影したというおどろおどろしいポラロイド写真を持って、まだ意識がぼっとしている神さんのもとに現れたそうだ。そしていかに手術がうまくいったかを説明したのだが、その顎の骨が露出し、血だらけで、上下の方向すらも分からなくなっている口の写真は、見ていてもただショッキングなだけであったという。

さて、セラピストも外科医と同じサービス業である。同じように困っているクライエントを扱う。出来れば「ほら、こんなにうまく治療が行きましたよ」と報告したいのだろう。しかしクライエントがどうなった状態が治療の成功かを見定めることは、外科手術よりはるかに難しい。なぜなら一度の面接で具体的に何が改善したかを明確に示すことは事実上不可能な場合が少なくないからだ。それにそのセッションでクライエントが快適な体験をしたということは、その治療がうまく入ったことを必ずしも示さない。たとえばセラピストに会うことがあまりにも楽しみになってしまった場合には、決してそれから先の順調な治療プロセスを暗示しているとは限らないのである。こうしてセラピストは、外科医に比べて、何をやりがいにしているかが非常に難しくなってしまうことも了解できるだろう。

そんな事情から、セラピストの生きがいは、外科医とはかなり異なったものになるが、そのなかでも特徴的なものは、次の問いにより表されるものだ。

「自分は、正しい治療をしているのだろうか?」

セッションごとにクライエントがどのように改善を見せているかは非常に見えにくい。そこで「正しい治療をしている限り、患者は改善するはずだ。」ということになる。そして精神療法の世界では、様々な学派が、「正しい」治療法を唱導しているのである。

世界に600種以上存在すると言われている精神療法。その多くが技法と呼べる治療方法を示し、それに従ったセラピストたちを抱えていることになる。そしてそれぞれが自分たちの治療法こそ「正しい」と認識しているとしたら不思議な話であるが、そのような事態が生じる大きな原因が、上に述べた「効果が見えにくい」という事情なのである。

セラピストが毎日のセッションで「生きがい」「やりがい」を求める気持ちは大きい。外科医が患者さんや家族からかけられる「ありがとう」の言葉の分を、治療者がなにか別のものに求めようとすることを責めるわけにはいかない。しかしその結果として自分が「正しい」と思われる治療法をクライエントに一方的に押し付ける結果になるとしたら、実に皮肉な話である。

2010年11月23日火曜日

快楽の条件 8. おそらく最も理想的な快楽としての「創作」

私の患者さんに非常に、手先の器用な男性Aさんがいた。某有名時計会社で、長年修理技師をしていたAさんは、引退したのちも年金暮らしをしながら仕事をもらい、持ち込まれた時計のうち、在職中の技師が治すことのできない難物をただで自宅で修理し、若い技術者を驚かせながら時間を過ごした。しかし不幸なことに時計のデジタル化とともに仕事がなくなり、彼の楽しい日々は去り、その後は空虚な日々を過ごすことになり、うつ病を発症してしまった。
Aさんの不幸なところは、時計を直すという、彼にとっては非常に楽しい作業が、その注文がなくなるという外的な条件に翻弄されてしまったことである。もし作業が誰に左右されることもないものであり、それに熱中できるのであれば、そしてそれにより生計を立てることができるなら、これほど幸せなことはないであろう。その一つは創作である。仕事として創作にかかわることのできる人生は、人間が人生を持続的に燃焼させ、最も快楽的に送ることのできる人生といえる。
もちろん創作にかかわり続けることで人生を終えることはできない場合が多い。創作した者はたいがい金にならない。創作するのには、材料に金がかかるかもしれない。(指輪職人、などという例を考えればいいだろうか?)創作したものを置く場所がないということもある(捨てられた割りばしをもらてきて束ねて固めて、それを削って創作をするおじさんをテレビで見たことがある。「作品」はもちろん飛ぶように売れる、ということはなく、もらってくれる人の数も限られているだろう。「作品」に埋まっていく部屋に複雑な表情の奥さんの顔が忘れられない。)創作するためには体が動かなくてはならない(石像作りを創作する人は、材料費はあまりかからないだろうが、ハンマーを握れなくなったらおしまいだ)。ユーミンのように出せばヒットするようなCDを気長に作り続けるような人生は、だから最高といえるのだ。

実はひそかな私の趣味は「本づくり」だが、これは実はすごい追い風が吹いている。書いたものが原稿用紙の束として置き場所を求める時代は過ぎた。電子化すればよい。鉛筆やペンを握る力がなくなっても、キーが打てれば大丈夫だ。そうして書いた駄作を出版してくれるような出版社を探す努力も、これからはあまり要らないかもしれない。ただの自費出版である「E出版」がある。実に恐ろしいことだ。半身不随になっても、寝たきりになっても、パソコン(スマートフォン?)さえあればこの趣味を続けることができる。
ところでネットを散歩していたら、この上なく幸せな人を見つけた。創作の材料は何と鉛筆。カッターナイフや縫い針が材料。作品が場所をとることは決してない。それは鉛筆の先の大きさにすぎないからだ。そしてその作品の素晴らしいこと。

ブラジル出身の米国在住のダルトン・ゲッティDalton Ghettiさんのことをご存じだろうか?本業は大工であるという彼はこの作業を、一説では裸眼で行うというのだ。私が一番感心したのは、上の「のこ切り」。私は彼はこの世で一番幸せな人の一人ではないかと思う。題材は無限。材料はタダ。使う体力はわずか。後は気力と忍耐力、そして創造性だけで人生を楽しむことができる。
彼のため息が出るような作品をいくつか。(http://kronikle.kidrobot.com/pencil-tip-micro-sculptures-by-dalton-ghetti/より)