残心の話は、臨床的にはいろいろ広がる。今日は少し真面目な話だ。
例えばカルテや臨床記録。私たちは通常は診療録が患者自身に読まれることを想定していない。しかしあるセラピストの診療録を読むことで、そのセラピストの持つ基本的な治療姿勢が伺えることがある。早い話が、いじわるな書き方をするセラピストの治療は信用できないということになる。「いじわるな」、とはそれを患者自身が読んだときにトラウマになるような記録と考えればいいだろう。
ところで患者には読まれないことになっていたはずの診療録が、今や患者の側の情報開示の考えが進むことで、患者が要求して読むことが出来るものになってきている。一足先にアメリカでそのような動きが見られ始めた際、セラピスト達はその対処に困った。時にはカルテは患者からの開示の要求だけでなく、裁判所から提出を要求されたりする。そのためにセラピスト達はいわば「本音」を記録することができなくなったと感じた。私自身は患者がセラピストの書いた記録をすべて読む権利があるとは思えない。それではまるで、セラピストは自分の心をすべて患者に開示する義務を負うことになり、そんなことは現実的ではない。しかしまあここではそのような議論は置いておこう。
この問題と残心がどう関係するのか。記録を書く際にも、それが患者の目に触れる可能性を忘れないということ。それではセラピストは患者に対してネガティブなことを考えることすら許されないということか?そうではない。残心を持ちつつ書かれる内容がネガティブなものであっても、それはいずれ患者に伝えられる運命にあるべきものであり、患者が本来読むことにはなっていない(と私は依然として考えるが)カルテを通して、時期早尚に伝えられてしまったというだけである。そしてそれはトラウマとは異なるインパクトを持つのだろうと思う。
2010年7月31日土曜日
2010年7月29日木曜日
失敗学 その4 残心は失敗学につながる
私は武道などで言われる「残心」について決して深く理解しているという意識はないが、臨床的には非常によく体験する。またまたどうしても頼ってしまうwikipediaによれば、
「・・・・技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。・・・」
ある患者さんと電話で話していて、疲れといら立ちを感じた。受話器を置いて思わず「アーア」とため息が出た。そしてふと受話器が完全に置かれていなくて、まだラインがつながっているということに気づいた時、「あ、このため息を聞かれたかもしれない」」とヒヤッとしたことがある。おそらくタイミングから言って、多分相手は私のため息を聞くことなく受話器を置いただろう。しかしタイミングとしては結構危うかった。
もちろん相手が友達や家族なら、これはありである。時には目の前の母親に聞こえるようにため息をつくこともあるだろう。しかし患者さんを相手にこれをやるのは明らかにこちらの落ち度である。明らかに不快になる可能性のあるような電話なら、それをとらないという選択肢もあったであろうし、もし治療者として電話での応対が必要であるならば、それは仕事なのだから、ため息などつかずに、そこでの感情は処理できなくてはならない。もちろん、「そうはいっても治療者も人間だから…・」という声聞こえないわけではないだろうが、仕事上のことならおよそどのような場合にも当てはまる。タクシーに乗って、初乗り程度の距離の行き先を告げて、運転手が「ハァー」とため息を付いたら?レジで小銭をゆっくり取り出して言われた額を正確に払おうとした客に、レジ係の口から「アーア」と思わず出てしまったら?客の側が逆上してもおかしくない状況である。
仕事としてするなら、覚悟を決めて気持ちの余裕を持たなくてはならない。「カスタマーに失礼があってはならない」、と言い聞かせる程度ではおそらく足りない。ふとその注意が途切れると「自然な」反応が出てくるからだ。「カスタマーを常にいかに心地良くするか」くらいで丁度いいのかも知れない。ちょうど目的地に向かうのに、「遅れてはいけない」ではなく「いかに約束の一時間前につくか」を考えることでミスを防げるように。
残心って、「余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念・・・・」とかwiki では言っているが、そんなにカッコつけなくても、失敗を減らす工夫や知恵だと思えばいいのである。ただしもちろん目的地に一時間前につくようにしていても、やはりたまには遅刻は起きる。それを意識しておくことが失敗学である。人間のやることに失敗がなくなることは決してない・・・・・。
「・・・・技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。・・・」
ある患者さんと電話で話していて、疲れといら立ちを感じた。受話器を置いて思わず「アーア」とため息が出た。そしてふと受話器が完全に置かれていなくて、まだラインがつながっているということに気づいた時、「あ、このため息を聞かれたかもしれない」」とヒヤッとしたことがある。おそらくタイミングから言って、多分相手は私のため息を聞くことなく受話器を置いただろう。しかしタイミングとしては結構危うかった。
もちろん相手が友達や家族なら、これはありである。時には目の前の母親に聞こえるようにため息をつくこともあるだろう。しかし患者さんを相手にこれをやるのは明らかにこちらの落ち度である。明らかに不快になる可能性のあるような電話なら、それをとらないという選択肢もあったであろうし、もし治療者として電話での応対が必要であるならば、それは仕事なのだから、ため息などつかずに、そこでの感情は処理できなくてはならない。もちろん、「そうはいっても治療者も人間だから…・」という声聞こえないわけではないだろうが、仕事上のことならおよそどのような場合にも当てはまる。タクシーに乗って、初乗り程度の距離の行き先を告げて、運転手が「ハァー」とため息を付いたら?レジで小銭をゆっくり取り出して言われた額を正確に払おうとした客に、レジ係の口から「アーア」と思わず出てしまったら?客の側が逆上してもおかしくない状況である。
仕事としてするなら、覚悟を決めて気持ちの余裕を持たなくてはならない。「カスタマーに失礼があってはならない」、と言い聞かせる程度ではおそらく足りない。ふとその注意が途切れると「自然な」反応が出てくるからだ。「カスタマーを常にいかに心地良くするか」くらいで丁度いいのかも知れない。ちょうど目的地に向かうのに、「遅れてはいけない」ではなく「いかに約束の一時間前につくか」を考えることでミスを防げるように。
残心って、「余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念・・・・」とかwiki では言っているが、そんなにカッコつけなくても、失敗を減らす工夫や知恵だと思えばいいのである。ただしもちろん目的地に一時間前につくようにしていても、やはりたまには遅刻は起きる。それを意識しておくことが失敗学である。人間のやることに失敗がなくなることは決してない・・・・・。
2010年7月28日水曜日
失敗学 その3
ゆうパックが7月の初旬に遅れたことの理由が、今日の朝日新聞(インターネット版)にあった。失敗学の良い例である。
「・・・・ 遅配は「ゆうパック」が「ペリカン便」と統合した7月1日の直後から発生。お中元シーズンの出ばなに統合したことで取り扱い荷物量がほぼ倍増し、6日までに34万個超の荷物の配達が遅れた。総務省は日本郵便に対し、30日までに書面で遅配の経緯を報告するよう求める一方、聞き取り調査も実施してきた。・・・ 日本郵便の説明では、「ゆうパック」と「ペリカン便」は荷物を仕分けるためのコード番号が異なるため、統合後は新たに6ケタの数字が書かれた共通ラベルを荷物に張ることにした。百貨店などの大口顧客には6月中旬、伝票を打ち出すシステムの新しいプログラムを提供し、共通ラベルを印刷して張ってもらうように要請した。 ・・・・
だが、大口顧客の中にはシステムの更新が間に合わないところがあり、ラベルのない大量の荷物が全国70カ所の集配拠点に押し寄せた。「区分機」と呼ばれる機械で自動仕分けができなくなり、急きょ手作業で仕分けることになったが、手順や人員の配置が明確に決まっておらず、現場が混乱。あふれた荷物が仕分け場所をふさぎ、作業が遅れた。「ゆうパック」「ペリカン便」の集配拠点の機械の違いも混乱に輪をかけた・・・・。」
特に太字部分(私による)が問題箇所だ。ここに書かれたことが予見できなかったのが問題、というよりはこのような予見しにくい問題が起きるということを想定した上で、必要と思われるよりはるかに多くの人員と時間の余裕を見ておかなかったのが問題といえる。これなどは、人は理屈どおりに動き、計画はしっかり立てればその通りに進行するだろう、という姿勢自体が誤りであり、その結果として問題がおき続けるということを示していると思う。
仕事に采配を振るう人は、少しでも段取りが気になれば自分で実際に現場を視察をして、大丈夫かを確かめるだろう。そして余裕の上に余裕を見る。なぜならば人は理屈では説明できない失敗もするからだ。予見できない失敗をするということを予見して準備をする。予見できない、ということを予見する。これは失敗学の極意でもあり、一番難しい(実行できない)部分でもある。
このブログは妻は見ない(これだけはありがたい)から書くが、彼女はよく遅刻をする。彼女は最近ではインターネットで綿密に時刻を調べてから異動するのに、である。一方私はめったなことでは遅刻はしない。(最近はね。昔はよくしたもんだ。)私は乗り換え時間などは非常にテキトーであるが、少なくとも一時間前には目的地つくようにして、時間をつぶすようにしているので、周囲の喫茶店などにあらかじめ当たりをつけておく。この違いが面白い。
妻は作業効率が非常によく、そのために自分を過信する傾向にあるから、一生懸命乗り換え時間などを調べていても、結局ちょっとの時間の遅れが到着時間の遅れに繋がる。私の「一時間前に着いておく」という方針は、「どんなことがあってもさすがに一時間以上は遅れないだろう」ということで、そこには説明の付かない、予想の出来ない失敗も想定している。失敗学に基づいているのだ(エヘン)。
あるとき痛い思いをした。ある場所に行くことにより、例によりとんでもなく早く出かけようとしたところ、妻にたしなめられた。「何でまたこんな時間から行くの?おかしんじゃない?」「いや、初めての駅での乗換えがあるから」、というと「じゃアタシが調べてあげるよ」と手っ取り早くネットで乗り換えの駅と電車をリストしてプリントアウトまでしてくれた。それを見るとすばらしい。A駅でのJRから私鉄への乗り換えは、15分ほど余裕がある。これなら大丈夫だろうと思い、ギリギリ出だかけた。A駅について余裕で私鉄のホームを探すが、これがなかなか見つからない。どこにも表示が出ていないのだ。ホームを歩いているうちに表示が見つかるだろうと思うが、これがなかなか見つからない。時間がたつうちにどうもおかしいということになる。そして同じA駅でもJR駅とと私鉄駅とでは500メートルほど離れているということが気が付いたのは、もう私鉄の電車が出る5分前であった。私は必死で走って事なきを得たが、元々運動が嫌いな私がこのようなことで走らされるのは、かなり痛い経験であった。この種の焦りを少なくとも大学生くらいまでは私は始終していた(遅刻の常習犯で、待ち合わせに一時間遅れる、などということも結構あった)が、それをしないようになったことが、人生における私の数少ない進歩だとおもっていたのに。だから私のほうが失敗学を妻に説くことになっている。最近は学生によく言う。「ストレスの解消法の一つは、準備をよくしておくことです。」実に年寄りくさい話だ。
「・・・・ 遅配は「ゆうパック」が「ペリカン便」と統合した7月1日の直後から発生。お中元シーズンの出ばなに統合したことで取り扱い荷物量がほぼ倍増し、6日までに34万個超の荷物の配達が遅れた。総務省は日本郵便に対し、30日までに書面で遅配の経緯を報告するよう求める一方、聞き取り調査も実施してきた。・・・ 日本郵便の説明では、「ゆうパック」と「ペリカン便」は荷物を仕分けるためのコード番号が異なるため、統合後は新たに6ケタの数字が書かれた共通ラベルを荷物に張ることにした。百貨店などの大口顧客には6月中旬、伝票を打ち出すシステムの新しいプログラムを提供し、共通ラベルを印刷して張ってもらうように要請した。 ・・・・
だが、大口顧客の中にはシステムの更新が間に合わないところがあり、ラベルのない大量の荷物が全国70カ所の集配拠点に押し寄せた。「区分機」と呼ばれる機械で自動仕分けができなくなり、急きょ手作業で仕分けることになったが、手順や人員の配置が明確に決まっておらず、現場が混乱。あふれた荷物が仕分け場所をふさぎ、作業が遅れた。「ゆうパック」「ペリカン便」の集配拠点の機械の違いも混乱に輪をかけた・・・・。」
特に太字部分(私による)が問題箇所だ。ここに書かれたことが予見できなかったのが問題、というよりはこのような予見しにくい問題が起きるということを想定した上で、必要と思われるよりはるかに多くの人員と時間の余裕を見ておかなかったのが問題といえる。これなどは、人は理屈どおりに動き、計画はしっかり立てればその通りに進行するだろう、という姿勢自体が誤りであり、その結果として問題がおき続けるということを示していると思う。
仕事に采配を振るう人は、少しでも段取りが気になれば自分で実際に現場を視察をして、大丈夫かを確かめるだろう。そして余裕の上に余裕を見る。なぜならば人は理屈では説明できない失敗もするからだ。予見できない失敗をするということを予見して準備をする。予見できない、ということを予見する。これは失敗学の極意でもあり、一番難しい(実行できない)部分でもある。
このブログは妻は見ない(これだけはありがたい)から書くが、彼女はよく遅刻をする。彼女は最近ではインターネットで綿密に時刻を調べてから異動するのに、である。一方私はめったなことでは遅刻はしない。(最近はね。昔はよくしたもんだ。)私は乗り換え時間などは非常にテキトーであるが、少なくとも一時間前には目的地つくようにして、時間をつぶすようにしているので、周囲の喫茶店などにあらかじめ当たりをつけておく。この違いが面白い。
妻は作業効率が非常によく、そのために自分を過信する傾向にあるから、一生懸命乗り換え時間などを調べていても、結局ちょっとの時間の遅れが到着時間の遅れに繋がる。私の「一時間前に着いておく」という方針は、「どんなことがあってもさすがに一時間以上は遅れないだろう」ということで、そこには説明の付かない、予想の出来ない失敗も想定している。失敗学に基づいているのだ(エヘン)。
あるとき痛い思いをした。ある場所に行くことにより、例によりとんでもなく早く出かけようとしたところ、妻にたしなめられた。「何でまたこんな時間から行くの?おかしんじゃない?」「いや、初めての駅での乗換えがあるから」、というと「じゃアタシが調べてあげるよ」と手っ取り早くネットで乗り換えの駅と電車をリストしてプリントアウトまでしてくれた。それを見るとすばらしい。A駅でのJRから私鉄への乗り換えは、15分ほど余裕がある。これなら大丈夫だろうと思い、ギリギリ出だかけた。A駅について余裕で私鉄のホームを探すが、これがなかなか見つからない。どこにも表示が出ていないのだ。ホームを歩いているうちに表示が見つかるだろうと思うが、これがなかなか見つからない。時間がたつうちにどうもおかしいということになる。そして同じA駅でもJR駅とと私鉄駅とでは500メートルほど離れているということが気が付いたのは、もう私鉄の電車が出る5分前であった。私は必死で走って事なきを得たが、元々運動が嫌いな私がこのようなことで走らされるのは、かなり痛い経験であった。この種の焦りを少なくとも大学生くらいまでは私は始終していた(遅刻の常習犯で、待ち合わせに一時間遅れる、などということも結構あった)が、それをしないようになったことが、人生における私の数少ない進歩だとおもっていたのに。だから私のほうが失敗学を妻に説くことになっている。最近は学生によく言う。「ストレスの解消法の一つは、準備をよくしておくことです。」実に年寄りくさい話だ。
2010年7月27日火曜日
加藤智大被告のこと、そして失敗学その2
加藤智大被告が、「母親からの育てられ方が影響した」という証言をしたというニュースが今日流れた。精神科医としては複雑な心境。このメッセージが沢山の誤解をまねくのだろう。少なくとも「やはり母親の育て方か・・・・」という単純な考え方に陥る人が多く出ないことを望む。その上で言えば・・・・・客観的に見ればそこそこの育て方をした母親のことを深く恨む子がいる。それほど人間の主観世界は千差万別だということだろう。幼い子にとって親は絶対的な存在であるという時期がある。そこでの親は、愛情の源泉ともなれば、限りなく冷酷で恐ろしく、しかし絶対服従を強いられる対象ともなりうる。こうなると親になるというのはつくづく大変なことだ。自分の始めた仕事を受け継ぎ、深い感謝の念を持ち続けてくれる存在をこの世に持つことを意味するかも知れない。しかし自分を一生恨むという存在をこの世に送り出す可能性もあるのだ。
失敗学の続き。失敗学は、人は失敗を一定の確率や頻度でしでかすという前提から始める。しかしこの「失敗」には広義のそれ、つまり倫理的な堕落や慢心も含まれると考えるべきだ。失敗や過ちにも色々あるのだ。
例えば相撲界の野球賭博。政治家と金。これらのことが決して見過ごされていいというつもりはない。しかし彼らが心を入れなおし、清く正しく相撲道(だったっけ?)に精進し、政治を行ない、一切の悪に染まらない決意を固めることで済むわけはないことを認めるべきだろう。相撲界から賭博や暴力団の影響を駆逐するのなら、あるいはクリーンな政治を望むのであれば、途方もない資金と労力を使ってそれらを取り締まるしかないという事実を受け入れるべきだ。その認識がない人のコメントは実に空疎である。聞いていて知的レベルを疑う。(とは明らかに言いすぎだ。)
失敗学の続き。失敗学は、人は失敗を一定の確率や頻度でしでかすという前提から始める。しかしこの「失敗」には広義のそれ、つまり倫理的な堕落や慢心も含まれると考えるべきだ。失敗や過ちにも色々あるのだ。
例えば相撲界の野球賭博。政治家と金。これらのことが決して見過ごされていいというつもりはない。しかし彼らが心を入れなおし、清く正しく相撲道(だったっけ?)に精進し、政治を行ない、一切の悪に染まらない決意を固めることで済むわけはないことを認めるべきだろう。相撲界から賭博や暴力団の影響を駆逐するのなら、あるいはクリーンな政治を望むのであれば、途方もない資金と労力を使ってそれらを取り締まるしかないという事実を受け入れるべきだ。その認識がない人のコメントは実に空疎である。聞いていて知的レベルを疑う。(とは明らかに言いすぎだ。)
2010年7月26日月曜日
失敗学的な世界観 1
今日から新しい話題である。失敗学。畑村洋太郎先生の創始した学問である。これも私がよく話すことなので、ゼミ生などは食傷気味かもしれない。でも私の世界はこれを中心に回っている(大袈裟か。)とにかく大事なテーマなのだ。
たとえば皆さんはこんなことを考えないか?安倍さんも、福田さんも、麻生さんも、それから鳩山さんも菅さんも(ええっと、この順番でいいんだったっけ?)なぜみな政権についてからは、数々の失態ですぐに人気をなくしてしまうのだろう?
ここで「それは政治家がおろかだからだ」という発想に行ってしまう人は、失敗学とは縁が薄い人である。失敗学的にはこう考える。「あの程度の失敗をするというのが、本来の人間の姿ではないか?(したがって自分がやっても同様の結果になる可能性が高いだろう。」)
まあ上に述べた方々は立派な大人だし、高学歴でもあるし、それにそのときまでに対人関係でもまれて勝ち残って言った人なのだから、サンプル群としては立派なものである。そこから抽出したほぼすべての人が、失態をしでかすのだ。ということは人間とはたかだかあんな程度と考えるしかないのではないか?
たとえば皆さんはこんなことを考えないか?安倍さんも、福田さんも、麻生さんも、それから鳩山さんも菅さんも(ええっと、この順番でいいんだったっけ?)なぜみな政権についてからは、数々の失態ですぐに人気をなくしてしまうのだろう?
ここで「それは政治家がおろかだからだ」という発想に行ってしまう人は、失敗学とは縁が薄い人である。失敗学的にはこう考える。「あの程度の失敗をするというのが、本来の人間の姿ではないか?(したがって自分がやっても同様の結果になる可能性が高いだろう。」)
まあ上に述べた方々は立派な大人だし、高学歴でもあるし、それにそのときまでに対人関係でもまれて勝ち残って言った人なのだから、サンプル群としては立派なものである。そこから抽出したほぼすべての人が、失態をしでかすのだ。ということは人間とはたかだかあんな程度と考えるしかないのではないか?
あるいは列車の車両事故、警報機の故障、信号の機能の障害など。あれだけの複雑なシステム、問題が起きて当たり前なのだ。それなのに目的地への到着が遅れると言っていちいちハラを立てるのは(もちろん私も腹をたてるのだが)、あまりにも失敗が起きないのが正常、と考えすぎるのではないか?
これらの例が示すのは、私たちが持つある性質だ。それは失敗は異常なこと、恥ずべきこと、望むべくは全くなくすべきだと考えることである。そしてそれを前提として世界を観察し、日常の生活を組み立てていく。…. どうだろう?可能だろうか?実はこれに「失敗」することも、前提なのである。
2010年7月24日土曜日
おタクについて 11 さかなクンについての補足
さかなクンについての話が、ちょっと尻切れのままだった。大学院のわがゼミでこの話をしたところ、M1の岡●君が,かつて彼が読んだというさかなクンの情緒あふれる文章について話した。それをあとでメールでまわしてくれたものが以下のものだ。(無断転用だが、さかなくんが作者であることは明記)
「いじめられてる君へ」
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。
いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。
突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。
たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。
せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。
いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、
なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。
ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。
でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。
学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、
その子はほっとした表情になっていました。
話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、
だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。
大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、
悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。
外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。
広い空の下、広い海へ出てみましょう。
東京海洋大客員助教授・さかなクン
すばらしいよね。やはりさかなクンはASP●●●●と思う。そういうことになる。そして彼は私の分類に基づけば、おタク(いい意味での)と呼べるのだと思う ・・・・・。
しかしもういい加減にASPとかおタクとかのレッテル貼りについては飽きてきた。私はただただ彼らの時折示す不思議な脳の機能に魅了されるところがある。そしてこれはまさに私にとってないものねだりというところがある。私は「かも」おタクになり、コレクションをすることに決めたが、つくづくおタクの才能がないことがわかる。まだ3つしかアイテムが集まっていないし・・・・・。
「いじめられてる君へ」
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。
いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。
突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。
たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。
せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。
いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、
なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。
ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。
でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。
学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、
その子はほっとした表情になっていました。
話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、
だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。
大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、
悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。
外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。
広い空の下、広い海へ出てみましょう。
東京海洋大客員助教授・さかなクン
すばらしいよね。やはりさかなクンはASP●●●●と思う。そういうことになる。そして彼は私の分類に基づけば、おタク(いい意味での)と呼べるのだと思う ・・・・・。
しかしもういい加減にASPとかおタクとかのレッテル貼りについては飽きてきた。私はただただ彼らの時折示す不思議な脳の機能に魅了されるところがある。そしてこれはまさに私にとってないものねだりというところがある。私は「かも」おタクになり、コレクションをすることに決めたが、つくづくおタクの才能がないことがわかる。まだ3つしかアイテムが集まっていないし・・・・・。
2010年7月23日金曜日
オタクについて 10 ダニエル・タメット氏の例
実はもう一人私が期待しているASPさんがいる。こちらはかなり有名な人で,私は彼の本を読み,ユーチューブでその実際の表情や物腰を見て気に入った人だ。彼は実に優しく穏やかな印象をあたえるが,その持つサヴァンとしての能力はとてつもない。超能力といった感じがする。ダニエル・タメット31歳。彼の自叙伝“Born on a Blue Day” は日本語で訳されている。(「ぼくには数字が風景に見える」 講談社2007年)
彼は例えば数桁同士の掛け算を、いくつかの色を伴った図形同士の結合のように捉え,二つの図形が混じり合った図形の色と形がそのまま積を示しているという。実際に彼の「計算」の様子を見ていると、紙の上で指先を動かしながら図形をイメージするだけで、決して数字を扱う計算はしていない。
彼には著しいこだわりもあり,例えば毎朝食べるシリアルは,厳密に重さを計量して同じ量を食べるという。その意味で彼は立派なアスペルガー症候群なのだが,でもとても温かく繊細という印象を受ける。しかしもちろん彼の実際の人柄は知らないから、私は「期待」するのである。
実は彼の温かさと彼のホモセクシュアリティーとは関係しているように思える。米国に滞在中常に思っていたことがあるが、細やかな気遣いをする、「日本人的」な白人男性はその多くが男性のパートナーを持っていた。私は彼らの多くが好きで、親交もあった。後にタメット氏の同性愛傾向を知ったとき,彼を映像で見た時の細やかさは,それと関係していたのか,と納得がいったのである。
彼は例えば数桁同士の掛け算を、いくつかの色を伴った図形同士の結合のように捉え,二つの図形が混じり合った図形の色と形がそのまま積を示しているという。実際に彼の「計算」の様子を見ていると、紙の上で指先を動かしながら図形をイメージするだけで、決して数字を扱う計算はしていない。
彼には著しいこだわりもあり,例えば毎朝食べるシリアルは,厳密に重さを計量して同じ量を食べるという。その意味で彼は立派なアスペルガー症候群なのだが,でもとても温かく繊細という印象を受ける。しかしもちろん彼の実際の人柄は知らないから、私は「期待」するのである。
実は彼の温かさと彼のホモセクシュアリティーとは関係しているように思える。米国に滞在中常に思っていたことがあるが、細やかな気遣いをする、「日本人的」な白人男性はその多くが男性のパートナーを持っていた。私は彼らの多くが好きで、親交もあった。後にタメット氏の同性愛傾向を知ったとき,彼を映像で見た時の細やかさは,それと関係していたのか,と納得がいったのである。
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