2019年10月14日月曜日

はじめに 推敲 4

サメ事件とツチボタル

2000年にアメリカ南部のフロリダ州の海岸で、海水浴客が短期間に連続してサメに襲われるという事件があった。当然の事ながら、専門家は何か原因があるはずだ、と考えた。海水温の変化か、潮流の変化か、サメのえさとなる海洋生物の増減か、などといろいろ原因が探られた。しかしどれひとつとして決定的な原因とは言えなかった。これについてペンシルバニア州立スミール大学のデービッド・ケルトン David Kelton 博士はこんなことを言ったという。「これは結局は『ポワソン・バースト』なのだ。」そしてケルトン博士の説明を聞いた住人は一応納得したという。要するにケルトン先生はこのような現象は純粋に偶然でも生じると、説明したのだという。いったい彼の言うこの「ポワソン・バースト」とはなんだろうか? 
純粋に偶然に発生する出来事を時系列で追っても、かなりばらつきがあることが知られている。平均すると3日に一度しか起きないことが、いきなり3日間続けて起きたりする。それがポワソン・バーストとかポワソン・クランピング(かたまり)と呼ばれるそうなのだ。そしてこのサメの襲撃も結局はその類だったということで話が落ち着き、幸いなことにその後はサメの襲撃は頻発することはなかったとのことだ。そしてこれが揺らぎの問題と関係しているのである。
ポワソン・クランピングについて、スティーブン・ピンカー氏(Pinker2012)が描いたものから拝借しよう。彼は下の二つの絵を示して、このうちどちらかが、画面上にまったくランダムに点を打ったものだと言った。読者の皆さんはご覧になってどちらがより偶発的な点の集まりだと思うだろうか?
この種のことを考えたことがない多くの人は結構右を選ぶかもしれない。左の絵はバラつきに不自然さがあり、いくつかの点の塊も、線状の分布の見られる部分も見られ、そうかと思えば点がまばらでやたら広いスペースもあちこちに見られる。こんなことは偶然にはおきそうもないと考えるかもしれない。
実は左側がランダムにプロットされた点だ。ところどころに点の固まった部分があり、なんとなく不自然な気がするものの、これは全くの偶然の産物であり、すでに述べたポワソン・クランピングというわけだ。他方右側の図はニュージーランドのある洞窟の天井に止まっているツチボタルという虫の位置をプロットしたものだそうだ。ツチボタルの方は自分のテリトリーを確保するためにお互いに距離を取り合っているわけだ。後者はある程度のランダム性が個々のツチボタルによって補正され、ならされた状態といえるだろう。
もしこれが例えばパーティ会場に集まった人間であったら、あちこちに人の輪が出来てバラつきはもっと不自然なものになるだろう。かえってポワソン・クランピングに似てくるかもしれない。しかしまったくの見ず知らずの人々がダンス会場に集まったとしたら、少なくとも最初のうちは右の図のようになるのかもしれない。
ちなみにポワソン・クランピングについては、英語の Wikipedia の説明が簡潔だ。ポワソン分布とは純粋なランダム性に基づいた物事が発生する際の分布を意味するが、それが塊を作るという現象は避けられないということである。確かにここに掲げられた図を見ても、いくつかの塊がみられる。そしてこれはおそらく何度同じような図を作成しても見られる「ダマ」なのだ。
私がピンカーの絵で示したかったことは、この一件不自然なバラつきが感じられるような左の図は、結局はランダム性を伴った出来事の推移で生じる揺らぎを二次元空間で表したものだということだ。一つの揺らぎに、あるいはピンカーの図のかたまり(ポワソン・クランピング)に私たちは一喜一憂し、大概はそこに意味を見出そうとする。「どうもここら辺は、あるいは昨今はサメが出没しやすい、どうしてだろう?」とか「またこの株が上昇してきたぞ。~がその理由だろう」などのように、である。揺らぎやポワソン・クランピングは、いわば私たちの想像力が生み出したものに過ぎないだろう。
 現にこのポワソン・クランピングこそが、私達のヒューリスティックの重要な決定要因であるという説がある。

2019年10月13日日曜日

はじめに 推敲 3


偶発性という名の揺らぎ

揺らぎの未来を予想できないということについて、ある私の思い出話を披露したい。人は驚いたりつらい思いをした体験は、結構いつまでも覚えているものである。私が30歳代の前半のころ、アメリカの精神科のレジデントとなって夜の当直をしていたときの話だ。レジデントはまだ見習い中の医師のレベルなので、月給も安く、それだけに当直は結構な臨時収入になった。週に一度、月に4,5晩の当直をし、それを給料に加えることでようやく生活に余裕が出来るという感じだった。それでレジデントたちが分担し合って総合病院精神科の当直を行っていたわけだが、これは結構緊張する体験でもあった。
大きな総合病院のER(救急治療室)には多くの内科、外科の患者に交じって時々精神科の患者が訪れる。その多くは自殺企図や深刻な自傷行為のためにERに送られてくるが、中には状態が重いために入院が必要になる。その場合は空きベッドがある限りはその総合病院の精神科に入院となる。その場合はアセスメントから診断の決定、投薬の開始、入院の手配まで、おそらく一人の患者に2時間は優にかかる作業が当直医を待っているのだ。当直医は当直室でそのような呼び出しが救急室からくるのを待っている。もし運がよければ精神科の患者は訪れることなく、備え付けのテレビでもゆっくり見ながら夕刻5時から翌朝8時までの15時間の当直帯をゆったり過ごせる。睡眠も数時間は取れ、読書もできてテレビも見れて、当直代も受け取り、「ラッキー」と呟きながら翌日の業務につくのだ。ところが大抵は夜間に一人、二人の精神科の患者が現れ、24時間はそれに費やされることになる。
問題は夜中の急な入院で、例えば夜中の2時に突然救急室からの電話があり駆け付けると、やっと眠りに就いた頃に起こされて明け方の4時までは入院作業を行わなくてはならない。そして当直室に戻っても追加のオーダーなどの電話がかかることもあり、ほぼ徹夜の状態で翌日の通常業務につかなくてはならない。当直をもっぱら引き受ける精神科のレジデントにとって最も恐怖なのは、数件の入院の業務をすることで夜中じゅう全く休みが取れずに翌日の通常業務に就くという最悪なパターンだ。当直帯に入るまでにすでにその日の仕事の疲れがたまっているから、それから休む暇もなく徹夜をして仕事をし、翌日も夕刻まで仕事をするというのはかなりの精神的、身体的なストレスを伴う体験ともいえる。
当直医はうまく行ったら安楽に過ごせるかもしれず、しかしいったん電話が鳴ったら地獄に突き落されるような(実に大げさな表現で、救急に来られる患者さんに対して他意はないが)状況で、それこそ息をひそめながら過ごすことになる。救急の患者さんの受診のパターンは本当にバラバラで予想が付かない。平均一晩に1.5人の入院がある、と一応データは取ってあり、そのくらいの労働の「覚悟」は出来ているが、例えば2人すでに入院業務を行ったということは、もう3人目が訪れない、という保証はどこにもない。
ある時一学年上の精神科のレジデントのジョンが、夕刻の当直の始まりである午後5時に救急室に様子を見に行っていたら、すでに7人の精神科の入院予定者がドアで列を作っていたのを知り、「首を吊りたくなった」という「事件」があった。そしてそれがメモリアル・デー(米国の戦没将兵追悼記念日、通常は5の最終月曜日)の翌日だったために、メモリアル・デーの翌日の精神科の当直はやばい、という都市伝説が生まれたのだった。おかげで翌年の該当日はどのレジデントも当直を引き受けることを嫌がって大変だったわけだが、その日には一人も入院がなく、入院患者数とメモリアル・デーとはおそらく無関係であるということが判った。
私が面白いと思ったのは、人間はそういう時あらゆるジンクスを駆使するのだが(例えば、もう2人来たからこれ以上は来るはずがない、とか、12時まで全く入院がなかったから、これから明け方までに必ず一例はあるはずだ、とか、ハラハラして待っていれば逆に来ない、等・・・・) 現実は全くそれに従わず、予想外に(予想外のことが起きるだろうという予想も含めて!) 様々な出来事が待っているということだった。そしてその入院件数を長い目で追ってグラフにでも書いてみると、おそらくそれは決して平たんではなく、何らかの波が、揺らぎが見えてくるはずであろうということだ。
なんだかここに至るまでに長い解説が必要になったが、結論は実はシンプルなのだ。おそらくは偶然の産物で発生する精神科救急は、次にいつ訪れるのかが全く予想がつかないものなのだ。昨日はゼロ人、今日はいきなり4人、ということはざらにある。そしてこれが揺らぎの実際の姿なのだ。ただしそれにもかかわらず、私たちはそこに何らかのパターンを読み、心の準備をするのに必死なのだ。そして極まれに、何らかの「原因」が本当に存在したりする。上級生のレジデントのジョンが絶望的になった年は、実は本当にメモリアル・デーにかかわる事情があったのかもしれない。そうして何らかの原因を常に考える癖のついている私たちには、揺らぎの本質として存在する偶発性の姿が見えにくくなっているのだ。
ただしここで揺らぎの本質は偶発性だ、と言われても読者は少しもピンと来ないかもしれない。それについて説明する前に、もう一つ似たような現象としてニュースになったものから例を取り上げてみよう。

2019年10月12日土曜日

はじめに 推敲 2

未来は予測できない
株価を長い目で見ても短い目で見ても結局揺らいでいる、ということは、結局「株価は予測できない」ということだが、このことの理解が、おそらく揺らぎの面白さを支えているのではないか。ある事柄について、その事柄が揺らぎという性質を持つ、ということは、その未来を正確には予想できないことだ。そしておそらく将来を予想できないような性質のものは同時に揺らぎを示していることが多い。
正確には予測がつかない、という言い方は奥歯にものが挟まったような言い方だが、次のような意味だ。以下に二つの波を示す。株価の変動を表しているとしよう。縦軸は実際の価格()、横軸はひと目盛りが一年を表している。時間は左から右に進んでいく。ABは結構似ているという人もいるかもしれない。ただBが結局は同じ波の繰り返しであるのに比べて、Aは何処を取ってもその波形が一致せず、フラフラしている。それはある種の規則性を持つようで、正確にはそうではない。周期性がありそうなのでそれを測ってみるが、一定していないのでそれをもとに株価を予想することが出来ない。そしてこのAの方が揺らぎ、というわけである。(この図はある株価の実際の変動Aをもとにして、その最初の部分を繰り返す形で作成したのがBである。

では株価は予想が出来ない、ということを示せば、それが揺らぎの性質をいやおうなしに有するということにもなるのだが、株価が原則的には予想不可能であることは、簡単な思考実験から示すことができる。

2019年10月11日金曜日

はじめに 推敲 1


「揺らぎと心」と題して、心を揺らぎという観点から説明し、理解したい。しかしそのためにはおよそこの世に存在しているものは、ことごとく揺らいでいるという事実の説明から入る必要がある。
「この世に存在するもの」と私はサラッと書いたが、あくまでも現実世界に存在するものだ。つまり抽象的な概念は除いている。さすがに抽象概念までもことごとく揺らいでいるというわけではない。たとえばユークリッド幾何学における「点」は揺らいでいるだろうか?「点」とは「位置以外のあらゆる性質を持たないもの」と定義される。ベクトルと異なり、「点」は大きさとか方向性とかは持たないし、もちろん質量などない。そして当然ながら、決して揺らいではいない。なぜならもし「点」が揺らいでいたら、その存在条件である位置を失ってしまうからだ。このように抽象概念なら揺らがないものなどいくらでもある。早い話が「揺らがないもの」という概念が示すものは「揺らがない」のである。
 でもこの世に実在する事物はことごとく揺らいでいるようだ。例外があるかどうかは知らない。この世に例外を発見するのは至難だからだ。ただこの世に存在するものすべてが結局は素粒子により構成されている以上、それが揺らいでいることはほぼ確定しているだろう。と言ってもかなり特殊な意味での「揺らぎ」なのだが。素粒子論の中でも
超弦理論 super-ring theory にという仮説によれば、素粒子はことごとく有限の長さの紐 string の振動状態により構成されるからだ。だから「この世に存在するものはことごとく揺らいでいる」というよりは「揺らぎ(振動)がこの世を構成している」というほうが正確なのかもしれない。この目に見えないレベルの揺らぎの話は後に回すとしてもう少し私たちになじみのある揺らぎに話を戻そう。
自然界に存在するものとは、たとえば石ころであり、空気であり、惑星であり、時空である。観測方法さえあれば目でみて確かめることが出来るようなものだ。マクロ的なレベルでも揺らぎを伴わないものなど見当たらない。最近はなんとブラックホールまで「見えて」しまっているから驚きである。(写真(省略)は М87銀河の中心にある巨大ブラックホールだが、もちろんこれも絶え間ざるガスの噴出という形で激しく「揺らい」でいる。あたかも揺らぐことが自然の理(ことわり)であるかのようだ。
そしてそれだけでなく、私達の心も揺らいでいるのである。
いま私は「それだけでなく私達の心も・・・」とまたもサラッと書いたが、これは「だから」ではない。心はこの世に実在する事物と同列に扱っていいかは難しい問題だし、そうなると心が揺らいでいる必然性はない。というより私は人の心も揺らいでいるらしい、ということに気が付き始めた時(ほんの数年前のことである)も、「でもどうして心まで揺らいでいる必要があるのだろうか?」と問いたいくらいだった。あるいは「自然物が揺らぐことと、心が揺らぐことは全然別の事情ではないか? たまたま、ではないか?」と問いたいくらいであった。
でも最近考えるようになったのは、心の揺らぎは、自然物の揺らぎと実は深く関係しているのではないか、ということなのだ。心はたまたま自然物と一緒に、ではなく、自然物の揺らぎの結果として、必然的に揺らいでいるのではないか? そう問い出した時に、心の揺らぐあり方がもう少しわかりやすくなるような気がしてきたのである。

周りを見渡してみる

先ほどブラックホールにまで言及してしまったが、目線をもう少し近くのものに戻し、身の回りを見渡してみよう。街角を眺めれば、木の枝も、煙突からの煙も、旗も揺らいでいる。空の雲もゆっくりとではあるが揺らいでいる。どれひとつとして一つ所にとどまってはいない。
もちろん揺らぐどころか、一定の方向に動き去ってしまうものもある。雲の動きだってそうかもしれない。あるいは季節が過ぎ去ってしまうも、揺らぎという感じはしないかもしれない。しかし空気は循環し、今過ぎ去っていった酸素の分子は何年か後にはここに舞い戻ってくるだろう。あるいは過ぎ去っていく夏は、また来年は戻ってくる。結局長い目で見ると、ある同じような繰り返しを行っていることがわかる。
「揺らぎ」、とは英語では fluctuation (フラクチュエイション)である。水面が揺らぎ、風に揺れて木の葉も揺らぐ。英語でもそんな意味だ。普段ならだいたいひとところにとどまっているはずの物事が、時間の経過を追っていくと細かく、ないしは大きく揺れて、再びもとの位置に留まるような現象を私たちは「揺らぎ」としてとらえている。大体同じところに戻ってくるというところがポイントで、その物事のだいたいの位置は定められている。大地震の後に余震が続き、いわば大地の揺らぎがしばらく治まらないことがあるが、大体は時と共にそれは収まり、大地は静かになる。(もちろん地震計には体感できないような微小の「揺らぎ」は観測され続けるだろう。)
しかしそれは本当の意味での揺らぎの理解ではない。揺らぎは実は「スケールフリー」である。つまり揺らぎの程度を測る目盛り(スケール)など、あってないようなものだ。どんな微小なものも、どんなに巨大なものも揺らいでいる。縮尺をどんなに変えても同じような景色が見えるような地形のようなものだ。
ただ大まかな原則としていえるのは、小さなものほど揺らぎの幅も小さく、速さも途方もないということだ。また大きなものほど揺らぎの幅は大きく、ほとんどとまっているとしか思えないようなゆっくりとした動きを見せる。
だから「小さな地震もあれば大きな地震もある、でもやがては治まる。揺らぎは一時的なものだ。」という見方は甘い。マグニチュード1以下の極小地震なら、ほとんど常に起きている。大きな地震ならめったに襲ってこないが、将来もっともっと大きな地震が来て「これが大地の本当の揺らぎだったのだ!」と私たちは思い知らされるかもしれない。ただし地震に関して言えば、マグニチュード8以上の地震は数百年に一度という頻度になってしまうために、正確な観察は出来ないようだ。でもおそらく地球が生まれてからの45億年の間に、マグニチュード12 程度の地震はあったかもしれないではないか。定義からするとそのような地震はマグニチュード8  程度の大地震の1000倍のエネルギーであり、またその頻度は数万年に一度ということになる。
実は記録上はこれまで確認された最大の地震はマグニチュード9.5チリ地震(1960年)で、これ以上の規模の地震は実測でも地質調査でも発見されていないという。つまり大地の揺らぎがスケールフリー、といっても私たちが体験しうる大きさには上限があることになる。ただしはるか昔に巨大隕石が地球に衝突してその一部がちぎられて飛んでしまい、そのようにして月が生まれたときの衝撃を「地震」の中に含むのであれば、マグニチュード20くらいの地震はあったことになるだろう。
話を戻す。ともかくも「揺らぎ」は自然現象にいくらでも見られ、いわばごくありふれた現象と言える。しかしこの「揺らぎ」がなぜ現在これほどまでの関心を集め、またいわゆる「複雑性理論」にとって重要な意味を持っているのだろうか? あるいはなぜ現代まで、私たちは揺らぎに関心を持たなかったのか。揺らぎこそ存在の普遍的な性質といっても過言ではないほどなのに、である。
 私は「揺らぎ」現象の面白さは、理屈ではなく感覚的なものと考えている。だからこの「揺らぎ」の面白さを感覚的にわかっていただくところから出発したいと思う。そのために私が最初にこの概念に出会って心を惹かれたいくつかの揺らぎの例を出してみよう。その前にこの「揺らぎ」のめんどうな「」は、ここからは外すことにする。) 

●株価の揺らぎ 

私が今から20年ほど前に、最初に揺らぎの不思議さや面白さを感じたのは、株価の変化についての興味であった。まず以下の図[省略]を見ていただきたい。これは高安 秀樹先生の  高安 秀樹() 経済物理学の発見 (光文社新書、2004)から取ったものだが、同様の図はいくらでもネットで探すことが出来る。左右では時間のスケールが違う。左は数か月間の間のある株価の変動であり、右はそのうちの数週間分を取り出して拡大した際の株価の変動である。(もちろん縦の時間のスケールも調整してある。) そして左の図の直線に近いと思われる部分を拡大しても、やはり波打っていることを示しているという図である。揺らぎは「スケールフリー」だといったのはこのことである。)
私は株の売買などの投資をまともにしたことがないので経験に基づいて語ることは出来ないが、おそらく投資家の方なら、この揺らぎに特別の思いを持たれるだろう。株価の少しの上昇、下降は、大勢の人がわずかの間に行ったその株の売買を反映している。特定の個人にとっては、株を買った直後の上向きの揺らぎは儲けを、下向きの揺らぎは損失を意味することになる。そしてそこで株を売るか、買うか、あるいはそのまま持っているかの判断は、その後の揺らぎがどの方向に向かうかによって決めればよいのですが、決して誰も正解を教えてくれない。そしてそれだけにその揺らぎの方向が気になるのだ。私たちはよく思う。
「こんな風に時間とともにギザギザに推移して来ている。ということはこのぐらいの幅でそろそろ上向きかな?」
おそらくそうなるかもしれない。しかし株価は時には予想以上に大きい幅で上向きに動いたりする。そしてそれ自体が今度は少し大きな揺らぎを形成していくのだ。つまり揺らぎは小さな揺らぎと大きな揺らぎの複合体のような動きをしているのである。そしてここが規則的な振動との決定的な違いだ。そして面白いのは、時間のスケールを大きくしても、小さくしても、依然として株価は「同じように」揺らいでいる。(何度も繰り返すが、これが「スケールフリー」ということだ。」つまりそれは同じ程度の揺らぎ方を示す。これは実は私たちが通常考えるランダムで規則性のない動き、というのとは決定的に違う。ランダムならひと月ごとの株の上下は、一年とか10年のスケールで見れば平坦にならされているはずだ。ところがそうならないのが、揺らぎの実に不思議なところなのだ。 
このスケールを大きくしても小さくしても、結局揺らいでいる、という性質は、別の章で論じる「フラクタル」という概念と関わってくるが、揺らぎの大きな特徴である。そしてその特徴は心理学的には「未来は予測できそうに見えて、出来ない」と言い換えることができるのだ。

2019年10月10日木曜日

べき乗則が支配する 推敲 2


実は私はこのべき乗則が実感的につかめずに、私はここ10年くらい悩まされているのだ。ご存知の方はお分かりだと思うが、これはフラクタルの問題とほとんど同等と言っていい。有名なマンデルブローの幾何学図式を思い浮かべよう。何処まで拡大していっても自己相似形が続いていく。つまりその図式のサイズを小さくしていけば、そこに含まれる相似形の数は無限大に向かっていく。ネットで公開されているようなマンデルブロー図式(たとえばMandelbrot set - online generator などのサイトで自分で作ることができる)をいくら拡大して行っても、無限に同じ図式を見ることになる。いわゆる入れ子構造とはこのことだ。そこであらゆる地震を集めた集合を考える。巨大な地震が一回起きた後、数えきれないほどの中型、小型の地震が起きているはずだから、それを大きな地震の中に書き込んでいこう。するとどんどん拡大して行っても、そこにはたくさんの小型の地震が詰め込まれているのを見出すだろう。つまりマンデルブローの図式と同じなのだ。
有名なマンデルブローの図式
そこでマンデルブローの図と同じようにとことん入れ子状になっている地震群を考えるならば、その場合グーテンベルグ・リヒター則は完璧に成り立つわけだ。でも自然現象はマンデルブローの図形とは違う。純粋なフラクタル性を発揮するのはその一部の区間だ。巨大なマンデルブローの図式を印刷して遠くから近づいて拡大すると、ある程度以降は印刷されたピクセルが並んでいるだけになってしまうのと同じだ。そしてそれは地震についても同様だ。地球の地震の規模はある範囲においてフラクタル的な分布をする。しかし地球の大きさを超える規模の地震などありえないだろう。だから一定範囲の話で、である。それを承知で一定区間でもフラクタル性を帯び、リヒター則が成り立つような自然現象は自然界にあふれているのだ。
私の愛読書の一冊に、「歴史は『べき乗則』でうごく」というのがあるが、英語の原題は“Ubiquitous” (遍在)である。つまりどこにも見られるというわけだ。自然のどこにもかしこにも見える冪法則。世界に偏在していて、それがようやくここ数十年で理解されるようになって来たのはどうしてだろう?
ここからしばらくは私の思考実験が延々と続くことをお許しいただきたい。
たとえばこんな感じだ。天体の大きさにはおそらく冪乗則が成り立つ。そこでこの世に存在する天体を一列に並べて1,2,3・・・と番号を振ってみる。あなたはその天体の一つ一つのサイズを測り、その平均値を取ろうとする。そこでそして順番に一つ一つ登場してもらう。最初はどのような計測装置が必要かわからなかったが、登場する天体がみな余りに小さく、目に見えないくらいなので、顕微鏡が必要になることがわかるだろう。なぜなら天体の大多数は、目に見えないほどの宇宙のちりだ。いわゆる「宇宙塵」と呼ばれるものの大きさは、0.01マイクロメートルから10マイクロメートル程度であるとされる。すると土星のリングなどに含まれる塵などが数としては圧倒的に多く、それらの行列が延々と続くことになる。
ところが単調な計測の仕事を延々と続けていると、時々ちょっと大き目の、ひょっとしたら砂や小石程度のものが登場するだろう。そしてそれよりももっと希に、米粒大の天体が現れて、あなたをびっくりさせる。顕微鏡に乗せなくても、定規ではかれる大きさだ。そしてその作業を延々と、気の遠くなるほどの時間をかけて続けると、何年かに一度、それこそとんでもない大物が紛れ込む。数センチ、あるいは数十メートルという宇宙の塵(というよりは宇宙岩?)と言うべきものもごくごくまれに登場する。そしてもっともっとごくまれに、とんでもない大物が出てくる。木星の衛星くらいになると、79個あるものの大きさは数キロ程度だという。しかしもっともっと希に、たとえばあなたが気がつけば 5000万年も計測作業を続けていて始めて、なんと月が登場する。そういえば月も宇宙の天体のひとつだ。ということは、地球も太陽も・・・・。しかし次の日からは毎日塵レベルの測定に没頭されて、気がついたら数光年が過ぎる。そしてようやくある塵の次に地球サイズの天体が現れる・・・・。
ここまで書いて気晴らしにネット検索をしたら、日本のある天文学者がとんでもない巨大天体(「ヒミコ」)を発見したとある。ウィキ様に登場してもらう。
「ヒミコはハワイのすばる望遠鏡で大内正己によって発見された。発見された場所はすばるXMMニュートンディープサーベイフィールドであり、この範囲で他の207個の銀河候補とともに見つけられた。・・・データに基づけば、この天体は『早期宇宙で次の大規模な物体に比べ10倍以上の大きさで、太陽質量の400億倍の質量』を持ち、『大きさは55千光年でわれわれの銀河の半分くらいの直径』を持つとされている。なお、距離については巨大ブラックホール銀河衝突の影響によって赤方偏移の数値が変わる可能性がある。ヒミコの発見によって、宇宙の初期に現代の平均的な銀河と同じ程度の大きさの巨大天体が存在したことになった。・・・・・」(ウィキペディア、「ヒミコ」
「太陽の400億倍の質量」とサラッと言うけれどどうなのよ、と言いたい。そしてこの想像上の天体の列を考えると、冪乗則のニュアンスがつかめるのではないか?大きくなるにしたがって出現頻度はそれだけ少なくなる。大きさと頻度の両方の対数をグラフに描くと直線が得られる、とは実はそういうことだ。そして私たちの生活にこのような例はいくらでもある。話はいきなり飛ぶが、私たちが有する所得について考えよう。人が持つ所得の行列を考える。するとおそらくほとんど一文無しの人の列が延々と続いて、たまに小金もちが並んでいる。かと思うとごくごくまれにそこそこのお金持ちがいる。そしてその額によってそのお金持ちのレア度が増していく。ごくごくまれに億万長者が混じっている。
あるいはCDを売れ行き順に並べる。すると自費で出した売れないCDの列が延々と続き、時々ヒットが混じっている。そしてヒットの大きさと同時にレア度が増していく。それらを暇な人が売り上げ順に並べると、以下のような表ができる。これがいわゆるロングテール(長い尾)の図式で、左端に行くほど天体の大きさ、所得の大きさ、CDの売れ行きは小さくなり、該当する天体、人、CDの数は莫大になる。他方右端はおそらくとんでもなく永遠に続いていく。

2019年10月9日水曜日

べき乗則が支配する 推敲 1


冪乗則が支配する-ユビキタス、あるいは「冪(べき)乗則」の世界と揺らぎ
揺らぎとは実に不思議な現象だが、その背景の一つとしてとても大切な仕掛けがある。それが「べき乗測」と呼ばれるものだ。英語では power law(力の法則)。なんとシンプルな名前だろう。しかしこの持つ意味は深淵だ。この世はべき乗則が支配しているといってもいいが、それが揺らぎの本質につながっていると考えるしかない。そこでしばらくはこの不思議な冪乗則、あるいは冪(べき)乗則の話になる。冪、と言いうのは不思議な感じだが、要するに10の何乗、という時の「乗」に相当する、同じ数字を何度も掛け合わせるという意味である。ある値が1,2,3,4と自然数で進行すると、それに対応する値がたとえば2×2、2×2×2、2×2×2×2・・・・という風にとんでもないスピードでどんどん進行していく、という意味である。ネズミ算式に増えていく、というあのニュアンスである。
揺らぎとべき乗則の関係を説明しよう。揺らぎの基本的な例として、地面の動きを考えよう。極めて繊細な地震計を設置してその動きを観察する。すると地面はほとんど常に揺れ動いていることがわかる。以前は地震と言えば人が体感するものを指していたが、最近は「震度ゼロ」の地震、すなわち地震計にのみ感知され、体験はされない自身も含めている。そして分かったことは結局は微震も含めた地震は常に起きており、私たちが体験したり、災害を引き起こしたりする地震は、そのうちの例外的に大きいものなのだ、ということになる。「揺らぎ」という言葉を用いるならば、大地は常に揺らいでいるのであり、私たちが呼ぶ地震はそのうちの特に大きな揺らぎだということになる。ではいつ大きな揺らぎが起き、それがどの程度予測可能かということについては、実はよくわかっていないのだ。そしてここが最大のポイントなのである。
こんな風に書くと、地震における「揺らぎ」とは予測不可能ででたらめな動きを示すのだ、という印象を与えるだろう。でも揺らぎは決してでたらめ、無意味、ランダムというわけではない。実はこの地震について、驚くべき事実がわかっているのだ。そしてそれがこの「べき乗則」ということと関係している。例えば皆さんにはこんなことが理解できるだろうか?
1.地震の大きさに「典型的なもの」ないし「平均の大きさ」はない。(あえて平均すると限りなくゼロになってしまう)
2.地震の大きさとその頻度は、それらを対数で表すと直線状に並ぶ。
つまり地震の大きさは実はでたらめではなく、極めて整然とした秩序とともに起きているということなのだ。
 この1の「平均的な大きさがない」という事実はおそらくほとんどの人にとって理解に苦しむものではないだろうか。そしてここがランダムとの違いである。例えばサイコロをでたらめに振って出てくる数値を平均することはたやすい。1234566で割って、21/6 = 3.5 というわけだ。
実はこのうち2の方は、いわゆる「グーテンベルグ・リヒター則Gutenberg–Richter law」、つまり地震の発生頻度と規模の関係を表す法則である。片対数グラフで表すと直線関係になるという関係があり、この世界では有名な発見であった。
この2の問題の意味を突き詰めると1もおのずと理解される。このグーテンベルグ・リヒター則を厳密に当てはめると、地震の規模が小さくなると、その頻度は膨大になっていく。つまりは「地震」の数で言えば、微震の頻度は膨大になり、逆に巨大な地震は極端に少なくなる。だから平均すると圧倒的に微震の方が数で勝ってしまい、結果として地震の大きさの平均は限りなくゼロに近くなるというわけだ。

2019年10月8日火曜日

共に揺らぐこと 4


人々が揺らぎを共にすることにこれほどの快楽を覚えるのはなぜだろうか。おそらくこれに関する定説はないだろうが、(というより共揺れによる快についてはそれに関する説を聞いたことがない、ということは私が勝手に言い出しているに過ぎないことになるわけだが) 私は次のようなモデルを考える。
鳥の集団や魚の集団があたかも一つの生命体のような歩調を合わせた動きを見せることはよく知られる。サメに追いかけられた

イワシの大群などは、遠くから見ればそれ自体が一つの大きな黒い生物のように見えるだろう。イワシが脳内のプログラムに従って集団の動き全体を常にモニターしているかといえば、実はそうではなく、かなり単純なメカニズムに従っているらしい。彼らは直近の周囲の個体の動きを模倣しているのである。それは一種の反射として生じ、だからこそその動きは時差がほとんど生じない一糸乱れず統一されたものとなる。そしてそれが彼らを天敵から守ることにつながる。群れから外れることは、必ずといっていいほど天敵の餌食になることを意味する。ということは生き延びてきた個体は必然的に周囲と合わせる能力にたけたもの、と言う事になる。だとすれば周囲の個体とともに動き、同時に共に天敵を恐れ、ともに天敵から逃げおおせたことに安堵する。
実際に集団生活をする動物が自らの身を守るための原則は、全体が一致した行動をとりながら相手に向かい、あるいは相手から逃げる必要がある。そしてそれはその集団内での生存競争とは異なる原則に基づくものである。この「ともに喜ぶ」ことへの志向性は前者の基本になっていると私は考えるが、これは愛他性とは少し異なる。愛他性はときには自己犠牲を伴い、その為に自己保存本能と真っ向から対立しかねない。アンパンマンが自分の頭の一部をちぎって人に与える時(子供に愛他性を例示するときに絶好の例だ!)、アンパンマンはその為に顔の一部が欠けてしまい、体力も衰えるだろう。(詳しい設定は知らないが、おそらく次回の放送分までには再生するはずだ)。そして「ともに喜ぶ」には自己保存が込みになっている場合もあるし、両者が矛盾を含むこともある。オリンピックのある競技で金メダルを取った選手と銀メダルを取った選手が「ともに喜ぶ」かどうかを考えればいい。自分が金を取ることは、ほかの人が金を取る機会を奪うことである。二人のメダリストがともに喜ぶとしても、それは複雑な気持ち、あるいは葛藤を伴いかねないのだ。だから「共に喜ぶ」は集団が共通の敵を倒したときなどに最も効率よく体験されるであろうし、そのためには共通の敵を作り出すことでそれを達成する可能性すらあるのである。