2019年9月17日火曜日

フェレンチ再考 6


ラックマンはこの論文でフェレンチが患者と性的な関係にあったことを示唆するエピソードは二つあるという。一つはエルマ・パロスとの関係、そしてもう一つはクララ・トンプソンの「フェレンチ・パパはいくらでもキスをしていい、と言ったのよ」という言葉だ。この問題で業績の多い André Haynal はしかし、彼は患者との性的な接触は結局は持たなかったという主張を繰り返している。
という事でラックマンの論文はセバーンとの相互分析の話に入っていく。フェレンチの相互分析は、彼がコントロールを失ってしまったという一つの証拠として論じられることが多い。彼女はフェレンチの「臨床日記」ではRNとしてしょっちゅう登場する。フロイトはサバーンのことを知っていて、彼女についてジョーンズやトンプソンから伝え聞いてとてもネガティブな感情を持っていたという。もちろんフェレンチも彼女のむずかしさを自覚していた。彼女は米国で分析を受けて失敗に終わっている。オットーランクは彼女にコンサルテーションを行ったが、フェレンチに分析を受けたらどうかと言ったという。この頃のフェレンチは、難しいケースを扱うという事で知られていたのである。結局分析は1925年から33年まで行われた。その間サバーンはブタペストで働いていたのである。1933年の2月に分析が終結となったのは、フェレンチの悪性貧血による健康状態が悪化したからだ。サバーンはこの終結を不服とする手紙を娘に送っている。そして結局フェレンチは1933年5月22日に没している。この頃同時にフェレンチの分析を受けていたトンプソンは、サバーンがフェレンチの時間とエネルギーを吸い取っていく様子を見て非常に腹立たしく思ったと言われる。
さてラックマンはそれから7段階に分けて詳しくフェレンチとサバーンの分析を解説する。第1段階は敵意の感情により特徴づけられるという。それはフェレンチがサバーンについて、とても強引で気が強いという印象を持ったことが書かれている。そしてそれに続いて第2段階は「症状の展開」とされる。つまり分析により不眠や呼吸困難が生じ、昔の傷跡が刺激され、叫んだり雑言を吐いたりという時期が訪れたのだ。そしてサバーンは、トラウマはそれが繰り返されることで回復するのであれば、繰り返されるべきだとも言ったという。とにかく「あなたは私に十分な関心と共感を向けてくれない」と不満を言い続けたという。そしてサバーンは特にフェレンチのネガティブな逆転移について指摘したという。もちろんフェレンチにとっては、それを持つことも、それを指摘されることも無理のない話だったわけだが。

2019年9月16日月曜日

フェレンチ再考 5


フェレンチの悪名高き「相互分析」
私自身はフェレンチに対して相当寛容であり、味方であったと思っていたが、いろいろ読んでいくうちにそれでも彼に対する偏見があったと思わせられる。米国でフェレンチの復権に大きな貢献をしている分析家 Arnold Rackmanの論文を読むうちに特にそう感じさせられる。彼はフェレンチ研究センターのボードメンバーだが、彼が「フェレンチは実は性的な逸脱をしていなかった」と主張をしているのを読んでも、「ほんとに?」という感じだったのだ。
おそらくフェレンチの悪名の極めつけは、「相互分析」だろう。患者さんと分析をしあったというエピソードだが、大部分の精神分析家は「そこまでやっちゃあ、おしまいだね。」「やはり晩年のフェレンチは悪性貧血で頭をやられていたんだね。」となってしまうのだろうし、私もそんな感じを持っていた。しかし少し話が違うようだ。
長くなるが事の顛末を追おう。まずフロイトの1910年の論文「『乱暴な』分析について observations on Wild Psychoanalysis」という論文がある。「素人がよくわからずに分析をしてもよくないですよ。」「よい子はまねしないでね」的な、正しくない分析のやり方に警鐘を鳴らす内容の論文だ。しかしそこでフロイトが出す例は実はあまり「乱暴」という感じではない。
たとえば極度の不安症状を抱える中年女性の例。ある若い分析家が、時期尚早の解釈を加えたというのだ。それは女性が離婚したあとに性的な満足を得られないことが不安の原因だという解釈であり、その結果としてその女性の不安は治まるどころかより高まったという。そこでその若い分析家はフロイトのもとにやってきてコンサルテーションを請うたという。フロイトはこれは間違った技法の用い方であり、患者の抵抗や抑圧や関係性を考慮していない、としている。つまり正しいやり方をしなかったから効果がなかったのだというわけである。
私の考えでは、この女性の反応はひょっとしたら「なんですって?私の性的欲求不満が不安の原因ですって? ワケわからないわ!」というものであったのかもしれないが、フロイトによれば「解釈自体は正しい、でも早すぎたのだ。(もっと受け入れるための準備や素地が必要なのだ」ということらしい。想像するにフロイトはおそらく同様の疑問を呈されたことがこれ以外にもあったのかもしれないのだろう。「先生の言ったとおりにやってもうまく行きませんよ。」という不満が弟子たちから聞かれたのかもしれない。フロイトは内心ひどく驚き、プライドを傷つけられる。そして「いやいや・・・・」となったわけで、フロイトは解釈を受け入れることへの抵抗という考えを進めていかざるを得なくなる。解釈は正しくても、否、正しいからこそ、患者はそれを受け入れることに抵抗する。だから扱うべきはまずこの抵抗である、という風に彼の思考は進んでいった。
さて問題はこの乱暴な分析への警告が高まった1925年から33年の期間は、ちょうどフェレンチが難しい患者の治療に着手し、その独自の手法をいろいろ試すという動きと重なっている。そしてフェレンチが「乱暴な分析」の申し子となってしまったということである。

2019年9月15日日曜日

日本における母子関係 3


結論から言えば、SSPの研究はこれから下火になって行ったわけである。どうしてだろうか?日本でAがゼロで、Cが少し多かったという三宅の研究は、要するにそれが愛着の失敗を表しているというよりは文化差を表現しているという事になった。という事はこの研究の前提が崩されるというニュアンスがあった。要するにそれほど期待を持つべき手法ではない、という事になったのだ。またSSPを施行することそのものが子供にとってストレスであり、好ましくないという事も言われるようになった。結局日本の母子密着の議論はどうなっているのだろう?
 ところで私の子育ての話は途中だったが、私が妻と息子の密着度を見て心配になっていた時期から数年ほどして何が起きたかを話さなくてはならない。
(以下略)

 私の考えでは、子供は思春期を経て別の人間になってしまうのである。もちろんしっかりもとの癖や思考パターンを持っている。そしておそらく親と密着したいという願望を親の側から拒否されたという体験はない場合も多く、そうなるとむしろ「もう関わって欲しくない」というのが正直なところではないかと想像する。言い換えればこうである。愛着の問題に関しては、子供はそれを十分に提供してもらえなかったという気持ちを引きずりながら大人になるよりは、過剰な機会があり、食傷気味になって自分から出ていく、というパターンの方がより健全ではないか、という気がする。

2019年9月14日土曜日

フェレンチ再考 4

ところでAron, Harris が強調しているのは、フロイト・フェレンチ関係において、フェンチは後の精神分析に向けて極めて重要な問題を提起しているという事だ。経験か洞察か、主体性か理論か、共感か解釈か、二者心理学か一者心理学か。もちろんフェレンチはこれらのうちそれぞれ前項を強調する立場だ。そしてそこにはさらに深い問題があった。フェレンチはフロイトの患者に対するやや蔑視的な態度にいら立ちを覚えていた。たとえばフロイトが「患者は rabble だ」と言ったことを問題にしたという。この rabble という単語、どうも意味がつかめない。辞書的には「暴徒、やじ馬、大衆」などと出てくる。それほど悪いニュアンスはないが、まあリスペクトに欠けるというところか。もちろんフェレンチもフロイトから同じように思われていたのではないかという事を気にしていたのだろう。そしてフロイトはいつも自分は正しい、という姿勢を崩さない。それに対してフェレンチは、そういうフロイトを変えようとして、なんと「先生、私が先生を分析いたしましょう」と申し出たわけだが(A,H, p16)、プライドの高いフロイトが受けるはずもない。もちろんフェレンチにとっては悪気があろうはずはない。先生も分析を受けることで一介の市井人となって私たちのもとに下りてきてください、というわけだ。これはフェレンチにとっては当然の発想だったが、フロイトにとってはとんでもないという事になる。これではフロイトにウザがられるのも仕方ないというべきか。
ところでフェレンチの功績として Harris たちが挙げているのは、逆転移を必ずしも病的なものとは考えないという姿勢である。これはフェレンチが始まりと書いてある。そして後にウィニコットなどを通じて広がって行ったという事だ。この流れで言えば、フロイトは逆転移は病的なものであり、自らに逆転移が存在するという事は受け入れなかったという事になる。フロイトはその意味では「精神分析以前」の状態であったと言える。
ところで技法上フェレンチと同様フロイト流の精神分析に反対していた同時代人は言うまでもなくオットー・ランクである。彼らはベルリンでアブラハムやザックスのフロイトの教えを守るべし、という影響を嫌っていた。そのランクとフェレンチは、彼は理論的なことではなく、まず実践を重んじた。フロイトがだんだん分析家の卵たち(すなわち一応は社会適応を遂げた神経症レベルの患者達)を分析したのに比べ、フェレンチはあくまでも重い患者さん、BPD の患者さんの治療に徹したのだ。
フェレンチが治療論を展開していったプロセスは私にもとても納得が行くものである。彼は要するに精神分析的な手法がいかに迅速に効果を発揮できるかを考えた。最初は患者にフラストレーションを与えるという事をもっと迅速にやろうとした。いわゆる「積極療法 active technique」というわけだが、これを試みた気持ちはよくわかる。私も精神分析を学び始めた時は、治療者の受け身性や中立性、ほとんど応答をしないという態度が患者のフラストレーションを助長するという事が、実は治療の決め手になるのだという印象を持ったが、フェレンチも当然そう考えた。ところがこれがうまく行かないことに気が付き、今度はその逆へと向かった。ここら辺がフェレンチの極端で向う見ずなところだ。そしてその後彼は弾力性 elasticity つまり積極療法と弛緩療法の間のバランスを考えるようになった。これも素晴らしい考えだ。

2019年9月13日金曜日

日本における母子関係 2

  ここで愛着についての少し学問的な話だ。これがないとアカデミックな論考にならない。日本人の母子は結局一緒にいることでどのような違いが生まれるのだろうか。その参考となるのがストレンジ・シチュエーション・プロシージャ―である(長いので今後は SSPと表記)。例のエインスワースが考案して一大センセーションを引き起こしたこの実験(と呼んでおこう)では、ある部屋に母親が子供と一緒に入り、次に見知らぬ他人が入って来て、母親は子供をおいて出て行き、それに対する幼児の反応を見、次に母親が戻ってきて、それに対する子供の反応を見る、という一連の出来事からなる。エインスワースは子供の反応について、それをA型 「不安定(回避)型」、B型 「安定型」、C型 「不安定(両価)型」に分類したのである。このA,B,Cの分類とは、
A.
 回避型 母親に無関心。母親が出て行っても戻ってきてもあまり関心を示さないというパターン。
B.
 安定型 どうして行っちゃったの! と抗議するが、すぐ落ち着く。
C.
 アンビバレント型 お母さんが部屋に戻ってきたときに抵抗を示す。身体接触は求めるが同時に抵抗も示す。たとえば抱き上げようとすると泣き、おろそうとすると怒ってしがみつく。お母さんが部屋から戻って来るとお母さんを求めて泣きだすが、お母さんのもとへ近寄ろうとしない。お母さんが近付くと、抵抗を示す。その後、メインとソロモンが上記3つに当てはまらない愛着のタイプを発見し、D 型 「無秩序型(無方向型)」を追加した。このA,B,Cの並べ方は少し混乱するかもしれない。B は「安定型」なら、最初のA に指定すればいいだろう。しかしアインスワースからすれば、一番反応を示さない(つまり手がかからない???)回避型をA に持ってきたというわけか?ともかく彼女自身の研究による各タイプの比率構成は、A タイプが 21%、B タイプが 67%、C タ イプが 12%というものであった。ちなみに、この比率は、その後、世界 8 カ国で行われた 39 の研究、約 2000 人の乳児のデータを総括して得られた、各タイプの比率とほとんど変わらないものである(van IJzendoorn & Kroonenberg,1988)。だったらなおさら A に安定型を持ってくればいいのに(比率も一番高いから)と思うのだが、まあそれはともかく。
 さて問題になったのは、社会文化による違いが存在しないという訳ではなく、例えば、ドイツでは A タイプの比率が、またイスラエルのキブツや日本ではC タイプの比率が相対的に高いということが知られている。この日本での研究についてであるが、1980年代に行った三宅、高橋先生は、日本のサンプルでは、A 型がなんとゼロで、C型が30 パーセントであると報告した。彼らが言うには、日本の母子はいつも一緒にいるので、SSP という設定自体に驚いてしまう、というのだ。 だからC 型が多いからと言って、不安定な愛着が起きているとは言えない、と説いた。この背景に、社会文化間に存在する子どもやその養育に対する基本的考え方(Harwood et al.,1995)および実際の家族形態や養育システム(van IJzendoorn & Sagi,1999)の差異などが関 与している可能性は否定できないという。ところで私にはこのC型は子供がパニックになり、母親に対してすごくアンビバレントになっている状態と思える。だから結局三宅先生の考えに賛成なのである。ちなみに面白いのは日本ではAがゼロ、という点だ。私には A は母親においておかれる体験にすごくなれた子供であると同時に、アスペルガーの子にも見える。という事はどの社会にも一定数存在するはずなのに、日本だけゼロって本当だろうか。まあ一つ言えるのは、見知らぬ人と一緒の部屋から母親が出ていくという事態そのものが、日本では考えられないので、それに無関心の子供はゼロであった、という事だろうか。
 さてこの件、それからもう30年以上たっているが、どうなっているのだろうか
?

2019年9月12日木曜日

フェレンチ再考 3


さてフロイトとフェレンチとの対立が何に由来するのかについては議論が多い。ここでは3つの説を唱えたい。
1.     フェレンチの患者を愛で救おうとする治療技法をフロイトが問題視した。(多くの分析家の意見)
2.     フェレンチのトラウマを病因とする態度をフロイトが問題視した。(マッソン、など。)
3.     三つの要因があって、どれも重要だった。つまり治療技法、理論、そして個人的な問題である。この個人的な問題とはフェレンチの転移の問題である。


   私の個人的な意見としては、マッソンに少し近い。というのもユングもかなり患者と近い関係にあったし、フェレンチも何しろ母娘の両方と関係を持っている。トンプソンが「フェレンチ先生はいくらキスしてもいいって言ってくれたの」と言ったくらいでフロイトはカッカしなかったはずだ。私は残念ながらフロイトが「あなたは患者に対して間違ったアプローチをしている!」という怒り方をする人ではないと考える。彼は患者のために一肌脱ぐことにそれほど生きがいを感じなかった人である。フロイトは何よりも自己愛の人で、自分のプライドが傷つけられることに極端な反応をする人だった。だから外傷論の棄却、精神分析の確立、という既定路線に異を唱えるフェレンチは反逆者であり、フロイトはそれを決して看過できなかったのだろうと思う。それともう一つは、フロイトの後の記載からは、フェレンチの方からフロイトに喧嘩を売っていたというニュアンスがあるのだ。フロイトはフェレンチとの体験について、晩年に書いた「終わりある分析、終わりなき分析」の中で触れている。岩波の著作集から抜粋する。

これに関連してわたしは、すぐつぎの実例で示そうと思うのだが、分析の実践から直接に得られた二つの問題についてとり上げたい。自らも分析を行って大きな成果を収めていた一人の男性がいる。彼は、だれに何と言われようと、自分の、男性に対する関係、女性に対する関係が ―― つまり彼の競争相手である男性たち、および彼が愛している女性に対する関係が ―― 神経症性の障碍から自由になっていないと判断する。そのため彼は、自分よりも優っていると見なしている別の分析家の分析対象となって、分析を受けることにする。このようにして自らの人となりを批判的にくまなくスキャニングしたことは、彼に十全な成果をもたらすことになる。彼はその愛する女性と結婚し、さらに、自分が誤ってそう思っていたところのかの競争相手たちの、友となり教師となるといった変貌をとげる。かつての分析家との関係についても、なにも損なわれないまま多くの年月がすぎる。しかしその後、はっきりとした外的な理由は不明なまま、一つの困難が生じる。被分析者は分析家に対して敵対的な態度をとりはじめた。彼は、分析家が自分に対して完全な分析を行うことを怠った、といって分析家を非難する。すなわち、「だってあなたは、転移関係というものがただ単に陽性のものだけであるはずがない、ということを知っていなければならなかったし、考慮に入れていなければならなかったですよね。つまり、陰性の転移の可能性を気にかけていなければならなかったですよね」と。それに対して分析家はつぎのように釈明する。「分析を行っていたときは陰性転移なんてまったく気づかなかったのだ。しかし、そういった陰性転移のごく微かなサインがあつたにもかかわらず、わたしがそれを見逃した、ということがたとえ認められたとしても ―― 分析のあのような早い時期の地平のまだ狭い状況下にあっては、そういった見逃しがあることは否定できないわけだが ―― なんらかの主題、あるいはわたしたちの言う、なんらかの「コンプレクス」に対して、ただ指摘するだけでそれを活性化させることができたかどうか、疑わしい限りだ。患者自身のなかでもそれは現勢的ではなかったのだから。しかし、それを活性化させるためには確かに、患者に対して現実的な意味で非友好的な行動をとる必要があったかもしれない。また、ことのついでに言えば、分析家と被分析者の ―― 分析中および分析後の ―― 仲のよい関係をことごとく転移と見なすべきではなかろう。現実的に基礎づけられ、生きる力のあることが明らかとなる友好的関係もあるのだから」と。

ちなみにこの文章で下線を引いたのは私(岡野)である。要するにフェレンチはフロイトに喧嘩を売っているという感じなのだ。「先生はどうして僕のことをわかってくれないんですか?」というフェレンチの不満が、実は「先生のことをこれほど好きなのに、どうしてもっと可愛がってくれないんですか?」というメッセージだという事にフロイトは気が付かなかったようなのだ。
それはさておき・・・・。バリントは1969年になり、フロイトとフェレンチの書簡集、そして臨床日記を出版しようとするが、まだそのような雰囲気は出来ておらず、1970年に両者を妻の Enid に託してなくなる。Enid は臨床日記はフロイトとフェレンチの書簡集が出版されないと意味をなさない、というより誤解を受けると感じていた。そして結局アンナ・フロイトという超自我の死去により、臨床日記はフランス語で1985年、英語で1988年に出版された。ところが書簡集はそれより遅れて1992年にフランス語で出て、1993年に第一巻1996年に第2巻の英訳が出版されている。日本語では無理だろうなあ。何しろ1000通あるというのだから。

2019年9月11日水曜日

日本における母子関係 1


日本における母子関係

このテーマで書かなくてはならない事情がある。もちろん論じるべきテーマは数多くあるが、問題は日本における母子関係は徐々に変わりつつあるという事である。だから「日本の母子関係はこうである!」というものはなかなか提示できない。「それは昔の話でしょ?」と言われかねないからだ。そのことを前提としたうえで、結局は私自身の異文化体験がメインにならざるを得ない。一番実感を持って体験したことだからである。私と妻が子育てを行ったのはアメリカのカンサス州トピーカという、米国の中でもド田舎だった。大きな都市なら日本人のコミュニティもできやすいが、この町はメニンガー・クリニックという精神分析のメッカがあるためにそこに集まる数家族をのぞいては日本人は数えるほどしかいなかった。そこでもちろん息子は学年で唯一の日本人という事で子供の成育環境を通して異文化体験を豊富に持つことになった。

(以下略)

更にもう一つの顕著な違いは、私たちは baby sitter を全く信用できないと思えたという事である。しかし典型的なアメリカの家族では、それは子供がたとえ一歳未満でも、信頼できるベビーシッタ-に預けるという事は、むしろ普通の体験と言えた。
ただしこればかりは米国において密着が強いと感じられたのは、登下校である。基本的には外ではどのような危険にあうかが分からないという米国の環境では、どこに行くにも親が車で送り迎えし、しばしば親がその間付き添っているという状況である。また遊ぶのはどちらかの子供の家という事で、常に親の目がある。子供たちが単独で遊ぶという事がなく、それは逆の意味で日本とは大きな違いであるといえた。