2014年2月11日火曜日

日本人のトラウマ(6)

KTに見られる怒りの特質-アスペルガー障害の「自己愛トラウマ」

それにしてもKTの凶行は凄惨であった。命をなくした7人の方々やご遺族、10人が負傷した方々にとっては、まさに耐え難い体験であったはずだ。「どうして自分立ちや自分たちの家族がこんな目に遭わなければならなかったか・・・」とさぞかし無念であったろう。KTはこうして怒りを表現した。しかし理不尽にも犠牲になった方々の怒りはどう表現され、どう処理されるべきなのだろう・・・・。
このようにのべたからと言って、アスペルガー障害の人々は危険であるという一般化は決してできない。それだけははっきりさせておこう。しかし彼らが時に示す激しい怒りの背後には、彼らの発達障害の病理が深く関係しているお思わざるを得ない。それが人の気持ちを推し量ることの困難さである。
一般にアスペルガー障害の人々は他人の気持ちを読み取ることが不得手である。ただしそれは不可能、ということとは違う。事実アスペルガー障害という診断をつけることにあまり躊躇しないケースに関しても、多くの場面で他人の気持ちを読み取り、感じ取ることが出来ることは確かだ。アスペルガーの人たちの大部分は、対人関係を求め、それが得られないことを苦痛に感じる「寂しがり屋」である。
 ところがやはり彼らの一部においては、対人コミュニケーションには特徴、いや欠損があると考えざるを得ない。それはしばしば彼らの猜疑心や被害念慮という形で現れる。それは彼らが持つのはコミュニケーションの微妙なレベルの障害であることも関係している。全く通じないのであればまだわかりやすいのだろう。しかしそれが一見気持ちが通じているようで実は通じていない対人関係を築くということが大半なのだ。はじめは微小だった人との関係の齟齬は常に生じては徐々に、あるときは劇的に拡大していくのである。それがこの「事件」につながったと考える根拠は十分にある。そして徐々に周囲から去られる運命にある。時には明白に、時には微妙なかたちで拒絶を受ける。KTの場合には多くの友人の離反であり、最終的に頼りにしていたインターネットの掲示板における人々の無反応であった。それはKTの自己愛に対する痛烈なトラウマとなるのである。そしてそれが途方も無い攻撃性の発露に至ってしまったのだ。

KTを「自己愛トラウマ」から救えたのか?

私たちはKTに対して何かの形でのかかわりを持つことで、事件を未然に防ぐことが出来たのだろうかという問題について考えたい。これほどの事件を起こした男に「治療」は論外かもしれないが、少なくとも同様の事件の防止策については考えるに値するだろう。
「解」の最後でKTが「事件」の原因として3つあると自己分析している部分がある(p.159)。それらは彼が掲示板に依存していたこと、掲示板で実際に起きたトラブル、そしてトラブル時のKTのものの考え方(間違った考え方を改めさせるために相手に痛みを与える、という、「解」で繰り返して登場するロジック)である。そしてこれら3つが重なることで「事件」は起きたのだから、防止策はそれを防ぐこと、という風に彼は説明している。ここで一つ気が付くのは、これらの問題はあたかも彼の行動や思考上の誤りとして説明されているが、そこに感情の要素が言及されていないことだ。
「対策とは」という項目の冒頭(p.150)で、KTは次のように述べている。あくまでも再発を防止しなくてはならないのは、「むしゃくしゃして誰でもいいから人を殺したくなった人が起こす無差別殺傷事件」ではなく、「一線を越えた手段で相手に痛みを与え、その痛みで相手の間違った考え方を改めさせようとする事件」である、と。つまり彼の起こした「事件」は後者であり、そこに怒りやそれに任せた殺傷という要素を否認するのだ。そして、「(正常なら)ふつうは事件なんか起こさない、という言われ方」に反対し、「普通か否かは思いとどまる理由の有無でしかない」という。
KTのこの主張は、「事件」に至った経緯にはある種の必然性の連鎖があり、それがたまたま途中で中断されることがなかったために「ドミノ倒しのよう」に最後の「事件」に行きついたというものである。そしてそのような事態は、彼が挙げた三つの誤りを犯し、そのプロセスを止められない場合には、ほかの誰にも生じうると訴えているかのようである。
 そのプロセスを止めるために必要な策としてKTが挙げているのが「社会との接点を確保しておくこと」であるという。そしてさらに具体的には、ボランティア活動を行ったり、サークルや教室に通ったり、何かの宗教に入信することであり、さらには「自分の店を持てば『客のために』と、社会との接点を作ることが出来ます」(p.158)と述べる。
このKT自身の語る防止策を読んだ私の感想を少し述べてみよう。KTの心の動きにはいくつもの病的な傾向がみられる。特に「事件」に関連して何が決定的に問題かと言えば、それは生身の人間をナイフで無差別的に刺殺するという行為に尽きる。あるいはもう少し言えば、そのような行為を自らが行ったということに対する彼自身の自責や反省の希薄さである。それは彼がそれなりに一生懸命取り組んだであろう「自己分析」が触れていない部分であり、それゆえに彼の病理の核心であるといえよう。
 仕事がうまく行かず、だれからも顧みられず、怒りや復讐心が高まって暴力行為に及んでしまう、ということは、ファンタジーのレベルでは多くの人が体験するのだろう。「事件」の直後に、KTの気持ちがわかると述べた人々が少なからずいたという話も聞く。しかし彼らとKTとの決定的な違いは、やはりそれを実行するかしないかということだ。そしてそれを実行したKTについては、それはゆがんだ攻撃性の発露であり、そのことを彼自身が否認する傾向とも関連した深刻な病理の表れといえる。
彼の攻撃性の否認傾向を示す上で、「解」の最終項目「反省の考え方についての補足」における記述をあげたい。先に見た中学時代の殴打事件についてである。詳しい記載は避けるが、この事件についてのKTの記載の中で一つ明らかな矛盾がある。それはこの事件が「相手に間違った考えを改めさせようとした」と言いながらも同時に、「かっとなって」行った行為でもあると言っている点である。KTはこのエピソードはインターネットの掲示板における「成りすまし」とのトラブルとは異なると言っているが、殴打事件と秋葉原の「事件」の動因を同様のものとして説明している以上は、むしろ「事件」が結局は「かっとなって」行った可能性を示唆しているといえないだろうか。後者の方がもちろん冷静沈着に事件を計画したという面もあろう。しかしその背後にあるのは、成りすましからの攻撃を受けて「完全にキレ」「ケータイを折りそうになった」(p142)ほどの怒りに端を発しているとみていい。そしてその部分が否認されているのだ。
 しかし私はKTが激しい怒りを暴発させた結果がこの殺傷事件だったのであり、その尋常でないほどの怒りの度合いこそがKTの病理であると主張するつもりはない。通常の怒りは、それを直接起こした対象に主として向けられるのであり、たとえそれが暴力を伴ったとしても、その相手への攻撃が反撃を引き起こし、格闘のような形で結果的に相手を殺傷してしまうという形が一番典型的と言える。しかも相手への怒りは、相手が傷ついたことを目にすることで急速に醒め、激しい罪悪感と自己嫌悪が襲うというのが通例である。復讐を遂げた後に自殺をするという経緯がよく見られるのはそのためであろう。
 ところがKTの場合、その攻撃性の背景にあったのは怒りや恨み、復讐の念でありながら、それらの感情の存在自体は否認される一方では、歩行者への攻撃は無差別的かつ執拗で、あたかも機械的に、感情を伴わずに行われているというニュアンスがあるのだ。
 私はここに見られるKTの性質は犯罪者性格のそれと同類とみなしていいと思うが、もしそうであるとするならば、彼の示す「防止策」も、反省内容もことごとく見当外れということになりかねない。KTが中学時代にこの種の行動をとっていたということは、その時に対策を取っていればよかった、というたぐいの問題ではなく、むしろ彼は思春期の時点で犯罪者性格の条件をおそらく備えていたであろうことを意味しているのだ。そしておそらく幼少時からその兆候はあったであろうと想像する。
それでは彼は生まれつきの精神医学的な問題を抱えており、手の施しようがなかったのだろうか?
「解」を読み進めて一つ印象深かったのは、たとえ彼の病理がいかなるものであろうと、KTは他人からの肯定を強烈に求めていたということだ。他人がいて、他人の視野に入ってこそ自分が生き延びることが出来るかのようである。そして他人から無視された時には強烈なトラウマ(自己愛トラウマ)を味わっていたということである。
 彼がそばに自分を肯定してくれる存在を持っていたなら、事態はずいぶん違っていた可能性は否定できないと思う。何人もの刺殺という悲惨な「事件」をどこまで食い止められたかはわからないが。そしてそのような存在を常に持つ一つの方法としては、心理士による支持的なカウンセリングがあげられる。KTには特異な思考プロセスや、人がものにしか見えなくなってしまうという病理がある。それらを根本的に変えることはできない。しかし心の病理はある程度心が充足している場合には発現しにくいものである。その意味で支持的なカウンセリングの効果はそれなりに期待できるだろう。
もちろんカウンセリングを受ければそれでいい、というわけではない。KTが安定した治療関係を維持できていたという保証はないからだ。しかし彼が定期的に通って自分の気持ちを表現できるような場所、そこに週に一度通うことが期待されている場所を確保していたら、あれほど悲惨な結果にはならなかったのではないか。少なくとも「事件」に対する強力な抑止効果はあったのではないだろうか、と私は考える。なにしろの「肯定された」感は、友達からの「半年後に遊びに行く」という一通のメールだけで充足されてしまうという性質を持っていたのだから(p.37)。
ただしカウンセリングを受けるためには、普通は一回に数千円から一万円あるいはそれ以上のお金がかかる。それが払えずにカウンセリングをあきらめている人も多いであろう。精神科の通院精神療法を利用するという手もあるが、その為には敷居の高い精神科外来を訪れる必要がある。これは多くの方には抵抗があるだろう。KTがこれらのハードルを乗り越えることが出来たかどうかはわからない。
以上で私の考察をひとまず終えるが、この「事件」を考えることはアスペルガー障害を持つ人とかかわる意味をいくつか示唆していることを示せたと思う。しかし何度も繰り返させてほしい。ほとんどのアスペルガー障害を持つ人はこのような犯罪にかかわるほどの自己愛トラウマを体験しないのであり、彼らに対する差別的な見方を提供するのが私の意図ではないということである。 



2014年2月10日月曜日

日本人のトラウマ(5)

第3章「凶悪犯罪と自己愛トラウマ」-秋葉原事件を読み解く

はじめに
本章では、2008年に起きたいわゆる「秋葉原通り魔事件」をとおして、自己愛トラウマの問題について考える。
この事件は2008年の6月に東京の秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のためにおそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性で、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
この事件の直後、当時の官房長官は刃物の所持規制強化を検討すると述べた。また千代田区は秋葉原の歩行者天国を当分の間中止することを決め、区立の小中学校に子供達の精神ケアを行うカウンセラーを派遣することを決めている。さらに犯人が派遣社員であったことから、若者の雇用環境が厳しくなっていることが将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。事件後複数のサイトにおいて、殺人などの犯罪予告が相次いだ。ほとんどが悪戯とされているが、小中学生が行ったものもあるという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について私が考察する理由がある。それは犯人が最近になり獄中から手記を発表したからだ。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」である。そしてその手記を読む限り、犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。
ところで本章では私は犯人でもあり筆者でもある男性を「KT」とだけ記すことにする。もちろん彼は加藤某という実名で書いているわけだが、なぜか私は本章で彼の実名を出すのがはばかられる。また秋葉原で起きた事件についてもできるだけ詳述を避け、「事件」と書くことにする。それはこの事件の直接の内容に触れることに後ろめたさがあるからだと思う。軽々しく論じられないほどに多くの人々が犠牲になっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。多数の人々を殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現の機会を与えられていいのだろうか。この種の自己表現は、KT自らが認めているように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することが可能になる為に彼にとっての癒しとなる部分があるのである。それゆえこのような本は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。だから彼の「解」を読んで感想を書く私達もある意味では「同罪」かもしれない・・・・。
本書はKTが事件に至るまでの体験の記述であるが、その細部にわたり解説を加えることは紙数の関係で不可能である。そこで本章ではKTについての精神医学的な診断に基づいた議論を主に行おうと思うが、その前に彼が「事件」を起こすまでの人生についての記述の中で、二つ注意を引いた点を述べておきたい。
一つはKTの人生の中で特徴的な、極端でおそらく病的な「寂しがりや」の傾向である。彼は「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」(p.16)とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。そして埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」(p.16)であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだという。
 もう一つは、KTが心に人を思い浮かべる際の特徴である。彼は寂しさを紛らわすために、心の中に誰かを思い浮かべればよかったのではないか? これについて彼自身が書いている。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」(p.17)。そしてそのようなKTが、やがて孤独感を癒す方法としてインターネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して投稿すると、それに対して即座にメッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じることが出来、一息つけたのである。こうしてKTはインターネットの掲示板に依存し、心の支えとして行く。そしてその支えの破綻が秋葉原での「事件」を生む間接的な原因ともなるのだ。
以上の二点はKTの診断を考える上で大いに参考になるのであるが、ここからは読者が「解」についての内容は把握していることを前提として、KTについての診断的な理解へと歩を進めたい。

KTの診断は何か?

診断とひとことで言っても、それを実際の人間に下すことは容易ではない。ましてやKTに直接対面したことのない私が安易に診断を口にするのは不用意かもしれない。だから私の論述はあくまでも本書「解」を読んだ上での「診断的な理解」についての考察であることをお断りしておきたい。
人間の心理は複雑である。誰ひとりとして一定の決まったパターンに合致した思考や行動を示す人はいない。しかしある深刻な事件が生じた時に、私たちはそれが起きた原因を知りたいと欲し、犯行の動機を一元的に説明しようとする。
「何かの原因があるはずだ。」
そして「解」を読み始めた私も同様に「事件」の「解(答)」を求めて読み進めた。しかし「解」を読み終えて、それも幻想であったことをあらためて思う。「解」そのものがさまざまな、一元的には説明不可能な情報を伝えているし、「解(答)」もそれだけ複雑でファジーなものにならざるを得ない。そしてそれは私の心にある「解(答)」でしかなく、本書に登場するほかの方々のそれも、それぞれ独自なものとなっているはずだ。
人を一元的に理解し説明する一つの試みが、精神医学的な診断というラベリングである。ラベリングは一種の決めつけであり、レッテル貼りであるが、少しは理解の役に立つ。「ラベルは、剥がすために貼るものである」と私はいつも言っているが、とりあえず貼って、貼り心地を見るだけでもいいのだ。気に入らなかったらいつでも剥がせばいい。
<境界パーソナリティ障害か?>
その心づもりでKTの精神医学的な診断の可能性を考えてみよう。おそらく境界パーソナリティ障害(以下BPD)は比較的容易に当てはまるように思う。慢性的な自殺願望、孤独の耐えがたさ、攻撃性、「自分のなさ」、白か黒かの考え、感情の激しさ・・・。DSMがBPDについて挙げている結構な数の診断基準を満たしている。「KTがボーダーだって?」と言われるかもしれないし、私も自分に「本気かな?」と問うている部分がある。しかしそれは診断がラベリングであるということを思い起こせば消える疑問である。もちろんKTは一般的なBPDのプロフィールには合致しない。BPDは女性に多いことが知られているが彼は男性であり、またリストカットや自殺企図があるわけではない。しかしそれでも彼は診断基準を結構満たすのである。
<反社会的パーソナリティ障害か?>
二つ目の診断としては、反社会的パーソナリティ障害(以下ASD)が思い浮かんでもおかしくない。しかしこれは意外に当てはまりにくい可能性がある。ASDは、DSM的に言えば、法律を遵守しないなどの違法性、人をだます傾向、攻撃性、良心の呵責のなさ、の4つの柱があり、これらがその人の行動にパターン化している必要がある。このうち法律を守らない、人をだます、という傾向はKTにはあまりなさそうなのだ。借金を踏み倒すどころか、むしろ遠路はるばる返済しに行き、相手に感謝されるというエピソードが紹介されているくらいである(p.42)。KTは人と関係を結ぶためには正直にもなるというところがあるのだ。
攻撃性や良心の呵責のなさにしても、あまりすっきりとは当てはまらない。多くの人々を殺傷するなどは攻撃性の最たるものではないかと思われそうだし、それらを根拠に攻撃性の基準を満たすと考えたとしても、彼の場合それが彼の日常的な行動の中にパターン化したかといえば、そうとも言えないのである。(ただし彼のあからさまな攻撃性は中学時代にも見られたことが「解」で述べられている(p.164)。KTは中学生のころ、クラスメイトを思いっきり殴り、失明させる危険があったほどだったという。そして半年後に彼は再び同じクラスメイトに対して暴力的行為をとったという。)
良心の呵責のなさについては、これこそはKTに典型的に当てはまりそうだが、これ一つではASDの根拠としてはあまり説得力がない。
ここで念のためDSM-IVのASDの診断基準の一部を示そう。
A.他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こっており以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
1. 法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
2. 人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。
3. 衝動性または将来の計画をたてられないこと。
4. 易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
5. 自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
6. 一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
7. 良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京)

どうだろうか? KTに関しては1は微妙。2も微妙。3は満たし、4も満たすとしよう。しかし5も微妙、6もイマイチ。7は満たす、となるとギリギリ3つとなる。いちおうASDと診断してよさそうだが、あまり典型的ともいえないのだ。
<やはり可能性の高いアスペルガー障害>
さて三番目の診断は、当然ながらアスペルガー障害である。KTの精神鑑定の進捗状況は知らないが、アスペルガー障害ないしは広汎性発達障碍(PDD)の可能性についてはおそらく問われることになるであろう。私はこれを一応KTの診断とする。しかし「仮の」としておこう。というのは以下のとおり、この診断は実は微妙な問題をはらむのである。
まず以下に参考のためにDSM-IVにおけるアスペルガー障害の診断基準を示そう。

A.以下のうち少なくとも2つにより示される対人的相互反応の質的な障害:
(1)目と目で見つめ合う,顔の表情,体の姿勢,身振りなど,対人的相E反応を調節する多彩な非言語的行動の使用の著明な障害
(2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗
(3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如(例:他の人達に興味のある物を見せる,持って来る,指差すなどをしない)
(4)対人的または情緒的相互性の欠如
B.行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式で,以下の少なくともlつによって明らかになる
(l)その強度または対象において異常なほど,常同的で限定された型のlつまたはそれ以上の興味だけに熱中すること
(2)特定の,機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである.
(3)常同的で反復的な街奇的運動(例:手や指をばたばたさせたり,ねじ曲げる,または複雑な全身の動き)
(4)物体の一部に持続的に熱中する.

(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京)

このように見る限りでは、KTはこれらの基準を十分に満たさないようにも思える。少なくとも「解」から私たちが知る限り、彼は学校を卒業するまでは、「常に友達と一緒に過ごしていた」ことになっているのである。もし彼に「(A2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗」が見られるとしたら、彼の社会的な孤立は学生時代のかなり早期から起きていたはずである。しかしKTの記述からは、かなり友達にサービス精神を発揮し、友達が喜ぶのであれば自己犠牲的に物や情報を提供していた様子が伺える。
 「(A3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如」については、それどころか、KTは自分の趣味に関することではあるが、それらを積極的に友達と分かち合うことで、孤立を避けていた可能性がある。
Bの「行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式」については不明である。KTはインターネットでのゲーム等に精通しているようであり、その意味ではこのBを満たしている可能性はあるが、それを積極的に伺わせるようなエピソードは、「解」を読んでも特別浮かび上がってこない。むしろKTの頭にあったのは、いかに他人との交流を維持し続けるか、いかにそのために他人の関心を保ち続けるかということのみにあったようである。
PDDの診断基準には直接かかわってこないながら、KTの場合おそらく言語的なコミュニケーションもあまり得意でないはずだ。彼は文中で自分で相手に気持ちを伝えることがなく、いきなり行動に移ってしまうという点を自省しているが(p.93)、それがおそらく証左だろう。そのかわり彼の文章は達者な方と言っていいだろう。(もちろん「解」がゴーストによらず実際に彼の手によるものと仮定した場合である。)インターネットの掲示板への書き込みも、その思い入れの詰まった表現や、他人の書き込みのもつ微妙なニュアンスの読み取り方も、かなり芸が細かい。
それではKTはアスペルガー障害ではなかったかといえば、私の理解するアスペルガー障害には合致する面があるのである。私はアスペルガー障害の主たる病理は、共感性の障害であると理解している。共感性とは相手の気持ちを感じ取る能力である。目の前にいる人の喜びや痛みを自分の心のスクリーンに映して感じ取る力。他人を精神的身体的に傷つけることに対する抵抗もそこから生じる。人を傷つけることは、自分にとっても「痛い」ことなのだ。逆に相手の喜びは自分のものとして感じることが出来るために、相手を喜ばせ、心地よくさせることも自然に行なうことができる。そうやって対人関係が成立し、継続していく。
 共感能力には、相手が「考えていること」もその対象に含まれる。私たちがコミュニケーションをする際、相手が何を思って話しかけてきているのかを直感的に感じ取り、それに対応することが出来る。それが出来ないと「空気が読めない」ということになり、集団から仲間はずれになる。

KTの病理を考える際、ここで精神医学の専門家は引っかかることになる。彼の手記には、彼が友達づきあいをし、時には人にサービスをする為に自己犠牲精神を発揮することをいとわない点に注目し、この種の共感能力は不足していないのではないかと考える。その点は私も同感であり、したがってDSMによるアスペルガー障害の診断というラベルも「貼りつき」にくいことは認める。そのために「他に分類されない広汎性発達障害PDDNOS」あたりが無難ではないかとも思う。つまり準アスペルガーとしてその病理を位置づけるわけである。

2014年2月9日日曜日

日本人のトラウマ(4)

東京は昨日は大変な雪。でも私が子供の頃、関東ではこんな雪はあまり珍しくなかった気がする。外出の方、お気を付けて。


「抑圧-発散モデル」は、日常体験により近い

ところでここで紹介している「抑圧―発散モデル」の考えを支持する多くの人はこのモデルとフロイト理論とのつながりなど知らないのが実態であろう。そもそも一般人の大部分はフロイトの著作などは読んだことはないし、特に関心を向けているわけでもないはずだ。「抑圧―発散モデル」に表されるような考え方は、むしろ俗説のようにして、精神分析理論とは無関係に一般人の間で流布しているのである。なぜならそれが私たちの日常体験に密着しているからである。
一番典型的なのが、生理現象だろう。消化の悪いものが胃に溜まることで嘔吐反射が生じ、吐き出すことで爽快感を得る。溜まった排泄物を一気に出し切ることにより楽になる。性的な欲動もまたこのモデルによく従うことはご存知だろう。
ただしこの「抑圧―発散モデル」が当てはまるかどうかが微妙な生理現象も少なくない。単純な例として咳を考えよう。会議中などに咳を堪えていた人などは廊下に出て一気に咳をして治まることもあるだろう。しかし場合によってはそれがかえって気管の粘膜を余計に刺激してしまい、咳が止まらなくなってしまうということもある。あるいは癲癇を考えてみよう。癲癇発作の後には一時的に閾値が高くなり、かえって発作がおきにくくなることが知られている。あたかもそれまで貯まっていたエネルギーが発散されたという印象を与える。しかし時には一度始まった癲癇がとまらずに「重積状態」になることも知られているのだ。
怒りに関する「抑圧-発散」モデルについても、実はそれに当てはまらないケースが日常生活で観察される。確かに激しい怒りを表現した後、人は反省の気持ちが湧いたり、自己嫌悪に陥ったりすることも多い。また別の人にとっては怒りにより人を傷つけることで目的が達成されたことになり、怒りは消失するだろう。これらの例においては怒りは「抑圧―発散モデル」に従っていることになる。ところが人によってはいったん始まった怒りの表現はさらにエスカレートし、しばらくはその嵐を見守るか、あるいは力により押さえ込むしかないという場合もある。冒頭で述べた「ガス抜き」も、為政者はまさにこの両方の可能性を想定して注意深く用いなければ、一気に政権の転覆にまで発展するということすらおきかねないのである。
  
二つのモデルで「アスペルガー障害」の怒りを理解する
-「浅草通り魔殺人事件」を例に

  怒りの「自己愛トラウマモデル」と「暴発モデル」のどちらが正しいのか。それは難しい問題だが、モデルとして両方持っておくのは悪くない。実際怒りが問題となるケースではこの両方のモデルが必要となることもあるのである。そのことを、アスペルガー障害における怒りの問題を通して考えよう。
2001年4月30日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、友達になりたいと浅草の繁華街で見かけた女性に声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである(6)。
実際にこの例を出したのは他でもない。私たちが日常であったりメディアで接したりする怒りの多くは同様の不可解さを少なからず備えているからだ。この事件でも青年は普段はおとなしく、この種の暴力行為は予測しがたかったと言われている。そしてこの「びっくりした顔をしたのでカッとなった」という説明などはほとんど意味不明である。
私はこの事件に直接かかわったわけではなく、公に報告された情報以外は持たないが、ひととついえることは、この種の怒りの理解はやはり「抑圧―発散モデル」と「自己愛モデル」の双方(もちろんそれでも足りないといわれればそれまでであるが)が必要なのである。そして男がアスペルガー症候群(広範性発達障害のひとつ)であったことも重要な決め手となる。
ここからは私の憶測であるが、男はおそらく普段他人から相手にされていないことにいらだち、フラストレーションをためていたという可能性がある。アスペルガー症候群にしばしば見られるのはこの種の被害者意識であり、自分を理解しない社会への憤りである(7)。興味を持った女性に対して向けられた攻撃性の一部はそれに関係しているのだろう。そしてここまでは「抑圧―発散モデル」である程度説明ができる。
さらにはおそらく男はこの若い女性に「びっくりされた」ことにプライドを傷つけられた可能性が大きい。馬鹿にされた、というのが体験としては近いのではないだろうか。つまり「自己愛トラウマ」だった可能性があるのである。もちろんそう感じた思考過程はブラックボックスの中であるが、人の表情に見られる感情表現を誤認する、あるいは理解できないという問題は特にアスペルガーの患者さんたちに顕著である場合が多い(7)。レッサーバンダ帽の男が、女子短大生の驚きという、状況からは自然な表情を別のものと誤認してプライドを傷つけられたと感じ、怒りを暴発させた可能性は十分にある。そしてこちらは「自己愛モデル」による説明となるのだ。
最後に-対応へのアイデア

「抑圧―発散モデル」と「自己愛トラウマモデル」による理解により怒りに関する学問が大きく進展する保証はないだろう。ただ怒りの暴発に対応する上でのいくつかのヒントを与えてはくれる。それに簡単に触れて本章を終えたい。
怒りへの対応の重要なヒントは、怒りを爆発させている人に対する非難や叱責はおそらくほとんど効果がないということだ。なぜならば彼らはすでに被害者としての意識が高いからである。彼らをさらに非難することはその被害者意識を増幅させ、まさに火に油を注ぐような結果を招きかねない。
しかしもちろん怒りや攻撃性を野放しにすることはできない。結局彼らに対する意味のあるかかわりとは、その怒りをコンテインすること、枠組を提供することなのである。非難や懲罰のメッセージを含まずにそれ相応の処理をし、現実への直面化をうながす。そして少なくとも彼らの自己愛の傷つきの部分については共感することが重要であろう。
怒りの発散を回避するために有用なスキーマ(考え方のパターン)を提供することも時には有用であろう。もちろん「鉄は冷めてからうて」のアフォリズム(!?)どおりに、興奮が冷めたころを見計らって彼らに語りかけるのだ。あいにくアスペルガーの人たちは認知療法的なプロセスになじまないことが多いが、彼らのこだわりと戦おうとすることなく、むしろその裏を突いたり「外し」たりすることでその世界観が変わり、怒りがトーンダウンすることもある。しかしどのようなスキーマが誰にいつ役に立つかはおよそ予測が付かないことが多い。


参考文献

(1)遠藤利彦「『正当な怒り』の発達」. 児童心理. 9:1169-1174, 二〇〇六
(3)Tavris, Carol: Anger: the Misunderstood Emotion. Touchstone, 1982
(4)レオン・フェスティンガー (著), 末永 俊郎 訳 「認知的不協和の理論―社会心理学序説」 誠信書房 一九六五
(5)岡野憲一郎 「怒りについて考える-精神分析の立場から」 児童心理 9:1181-1185, 二〇〇六
(6)佐藤幹夫 「自閉症裁判- レッサーパンダ帽男の『罪と罰』」 洋泉社、二〇〇五
(7)十一元三 アスペルがー障害における臨床的問題の多様性 -年齢と精神発達に伴う変化- (講演) 第28回平成心身医療研究会 平成19年7月12日 ホテルメトロポリタンにて



2014年2月8日土曜日

日本人のトラウマ(3)

第2章 アスペルガー障害の怒りと「自己愛トラウマ」

私はかつて3年間ほど米国の州立病院の思春期精神科病棟で患者の治療に携わったが、そこでは来る日も来る日も患者の怒りの暴発の処理に追われた。もともと非行や行為障害の前歴のある少年たちが多く入院していたこともあり、病棟で患者がスタッフや他の患者に暴力をはたらき、椅子を投げたり壁を壊したりという暴行を見せるということが日常茶飯事に起きていたのである。その暴行が看護師の言葉による説得だけではおさまらない時は警備員が駆けつけ、少年は四肢拘束(両手足を紐でベッドにくくりつけられた状態)を施されて保護室に入る。はじめは怒り狂い、大声で悪態をつき、もがいて手足を振りほどこうとしていた少年が、やがて落ち着きを取り戻し、憑き物が取れたような表情になり、場合によっては神妙な顔つきになり謝罪の言葉を漏らすといった一連の流れを毎日繰り返して観察することになった。
もちろん私は警備員や四肢拘束などの強制力を加えることなく少年たちの怒りを静めようと、あらゆる手段を試みた。患者達に対して言葉でかかわり、その怒りを鎮めようとしても、ほとんど効果を発揮できないという失望体験を何回も持った。結局薬物の投与や四肢拘束の使用といった方法以外に彼等の暴発を止める有効な手段はあまりないことが多く、これは当時精神分析家になるためのトレーニング中であった私にとっては大きな失望であった。
しかしただし一つ患者達の話が一致しており、非常に納得した事がある。それが「自己愛トラウマ」の理論にもつながったわけであるが、それらは彼等の暴力が始まる際には、まず彼ら自身が傷ついていると感じていることだ。彼等が異口同音に語るのは、「自分たちは最初に攻撃されていた、自分たちが被害者なのだ」ということであった。スタッフに生活上の注意を受けたり、同じ病棟に入院している患者に馬鹿にされ、からかわれたりという一見些細な体験が彼らのプライドを深く傷つけ、それが彼らの怒りの暴発の引き金となっていたのである。破壊衝動を示す人の多くが、実は自分たちが被害者だと考えているという事実が問題を非常に複雑なものにしていることを知ったことは非常に有益だった。どれほど凶悪で破壊性に満ちた雰囲気を持つ少年でも、その内側に敏感な部分、自らのプライドに関わる部分を抱えている。怒りはその部分に触れた際に爆発的に生成されるのである。
この自己愛の傷つきが怒りを生むという仕組みが、怒りの「自己愛トラウマ」モデルというわけだが、実はこの部分を説明しようにも、少年たちはこのプライドの傷つき部分についてはあまり認めようとしない。それを認めることは自分たちの弱さを受け入れることだと感じているせいなのだろうか? 彼らは自分の怒りの正当性を声高に主張する一方では、心の中で傷付いている弱い自分には容易に目を向けようとしなかった。彼らの中には自分たちが本来暴力的な人間であるということを信じたがっている人々も多かったのである。


「怒りは抑圧され、暴発する」という常識

本来怒りは人の心の中核部分に存在するという考えも、実は根強く存在している。それはより古典的なモデルであり、「怒りの暴発モデル」とでも名付けるべきものだ。こちらの方が「自己愛モデル」よりもっと素朴に、おそらく大部分の人々にとってなじみ深いものだろう。
 従来日本語には「堪忍袋の緒が切れる」という表現がある。また昨今は「キレる」という言葉が流行っている。これらは奇しくも「きれる」という表現を共有するが、そこには「はりつめる」「解き放たれる」「爆発する」といった運動のニュアンスが伴う。
しかし「きれる」にも二つの異なる状況があるといわれる(1)。すなわち常に「ムカツいて」いる状態で生じる常態的な怒りと、怒りをほとんど示さない子供が突然見せる突発的怒りであるが、これらはある意味では正反対の性質を有していると見ていい。このように「きれる」という私たちの体験に近い表現さえも二種類に分類されてしまうほどに、人間の怒りという問題は多様であり、その性質は時には互いに矛盾した性質を示すのである。
ともかくも怒りの「自己愛トラウマ」説と、「怒りの暴発モデル」はどちらが正しいのだろうか? 
ここで読者の問題意識を喚起する意味で、ある理屈を提示したい。
いわゆる「ガス抜き」ということが言われる。抑えられていた怒りが爆発することを防ぐためには、何らかの刺激を加えることで「ガス抜き」を図り、発散させる必要がある、という論法は時々耳にする。いかにも「怒りの暴発モデル」に沿った発想だ。新聞の見出しなどで、アジアの近隣の某大国に関して、「農民の反政府的な感情が非常に高まっているので、時々政府主導の小さな暴動を起こさせ、ガス抜きをすることで大事に至らぬようにしている」というような解説を読んだ方も多いだろう。
しかし果たしてこの「ガス抜き」の方法はうまくいくのだろうか? 農民の暴動の対応に苦慮している為政者としては、このモデルの信憑性は、それだけ切実な課題であろう。そしてもちろん同様の問題意識は、私たち自身が持っておかしくない。常に怒りの発露を求めているような青少年への対処を迫られる立場の人たちは、どこまで判断を「怒りの暴発モデル」に基づいて行うことができるかは重要な問題である。先に述べた某大国でも、中央政府の指導者の動きを見る限り、意図的で計画されたガス抜きを行っているようには思えない。徹底した弾圧を行うかと思えば、その時々の国際情勢により恣意的としか思えない方針の変換を図っているように見受けられる。
要するに「ガス抜き」に見られる「怒りの暴発モデル」は常には正しくはないことを人は経験的にすでに知っているのである。それは場合によっては非常にうまく行き、別の場合には逆効果を生む。つまり状況次第で正反対のアプローチが必要となるのである。とすれば青少年の怒りを目の当たりにする私たちはこのモデル以外にも別のものを必要としているのであろうか? まさにそれがこの詳論でも問われることになる。

「怒りの暴発モデル」は精神分析が起源である

少し脇道にそれるが、「怒りの暴発モデル」は、精神分析にその起源があることについて触れておきたい。それは分セ的な言葉では「抑圧―発散モデル」と言い換えることが出来る。100年前にフロイトが、リビドー論というのを考えた。心とはある種のエネルギーの流れであると考えたわけだ。そしてリビドーが何らかの形で貯まると、苦しくなって発散されると考えたのである(3)。
ただしフロイトが最初にこの精神エネルギーとして想定していたのは、性的なエネルギー、すなわちリビドーであった。攻撃性については、考えていないわけではなかったが、あまり注意は払っていなかったのである。ところが第一次世界大戦における人の攻撃性の猛威を目の当たりにして、フロイトはこの問題により注目するようになる。そして最終的には死の本能の一部として攻撃性を受け入れるようになっていった。
このフロイトの「抑圧―発散モデル」に従えば、怒りの理解は比較的単純明快なものとなる。しかしでは抑圧を取り去り怒りが解放されれば問題は解決するのかといえば、それほど単純ではない。フロイトの心の理解に従えば、怒りの発散それ自体は、むしろ治療の失敗を意味することにもなるのだ。それは防衛としての抑圧の破綻を意味し、行動化や症状形成と同類のものとも考えられるのである。
この「抑圧-発散モデル」で重要なのは、人は性的ないしは攻撃的なエネルギーは罪悪感や羞恥心を生むために、それを自覚出来ずに無意識に押し込む(抑圧する)というプロセスである。抑圧された怒りが解放されるためには、それを意識化し、理解する必要がある。それによりその感情は抑圧され続ける必要がなくなり、したがって後に暴力のような形で急激に発散される必要もなくなるわけだ。そしてそのために無意識内容を探る精神分析が考案され、実践されたわけである。ただしこの無意識内容の探索というプロセスがいかに多くの困難を伴うものだったかは、フロイト以降半世紀にわたる精神分析的な臨床研究の歴史が物語っているのである。
ではなぜフロイトの発想以来100年も経っているのに、この「抑圧―発散モデル」は健在なのだろうか? その間に脳科学は長足の進歩を遂げたはずなのに、この「水圧モデル」的な考え方がいまだに多くの支持を得ているのはなぜなのであろうか? それはこれが私たちの日常体験に合致している部分があるためだ。それを以下に見てみよう。
 

2014年2月7日金曜日

日本人のトラウマ(2)

毎日寒い日が続いている。幸い風邪も治って、咳も落ち着いた。やはり先週のはインフルだったのだろうか?


いわゆる「自意識的感情」の議論

怒りついて再考しようという動きは、最近では一般心理学の分野でも見られている。そこでは怒りは恥や罪悪感その他の「自意識的感情self-conscious emotion」との関連で捉えなおされることとなった。この分野の先駆者の一人であるタングニー (6) は、怒りは恥の感情に対して二次的に生じてくるものという見方を示した。つまり恥の感情を体験するフェーズ (相) があり、その直後に反応性に怒りが生じる、というわけである。
怒りに関するこの種の新しい捉え方は、米国の臨床場面ではすでに広く受け入れられているという印象を受ける。米国ではさまざまな治療施設で「怒りの統御anger management」と名づけられた認知療法的な治療プログラムが行われている。アルコール中毒のグループでも、DVの加害者のグループでも、「アンガーコントロール」がテーマとして挙げられ、心理士が特製のボードを用意して怒りの生じるプロセスをグループに説明していたものだ。そしてそれらのマニュアル等を参照しても、怒りに対する同様の理解に基づいていることが多い。すなわち「自らの怒りをコントロールするためには、その際に自分の心におきている恥などのさまざまな内的感情に耳を傾けよ」という方針である。
さらにタングニーらは、恥の感情を強く持つ傾向のある人がどのように怒りの感情を処理するかについての調査を行っている。それによれば「恥に陥りやすい人ほど、怒りを破壊的な形で表現する傾向にある」という結果が示されている、というのだ。

健全な自己愛、病的な自己愛

さて以上で怒りの防衛的な意味合いについては一応強調出来たつもりである。私たちは怒りの背後にはある自己愛の傷つきがあるのだ、ということを自覚することで、自分が他人に向けている感情の正当性に疑いを差し挟むことが出来、結果的に怒りを鎮めることができる場合もあろう。「俺って、なんでこんなに怒っているんだろう?よほど自分が傷つけられたのだ」という反省が生まれるからである。そしてその怒りが表現されてしまい、他人の自己愛を傷つけ、それだけでなく精神的に見でも「処刑」してしまい、さらなる怒りの連鎖を招くといった事態もある程度は防げるかもしれない。
 しかしこの種の自覚を深めることで人は最終的には怒ることがなくなり、社会は平和になるのだろうか? おそらくそう簡単には行かないだろう。多くの防衛機制について言えることだが、それには何らかの本質的な存在理由が伴うことが多い。怒りの必然性や正当性についても検討しておかなければならない。恥の反転としての怒りにも、その人自身のプライドや社会的生命を守るという役割は消えてはいないというわけだ。 
自己愛を正常範囲まで含めて考えるのは現代の趨勢でもある。一つの連続体として自己愛を考え、そこには中心に健全な部分を持ち、周囲に病的に肥大した部分を持つというイメージを考えればよい(図1)。ここで健全な自己愛とはわが身を危険から守るという一種の自己保存本能と同根だと考えればよい。そしてその具体的な構成要素としては、自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安全な環境といったものが挙げられよう。
 
また周囲の病的に肥大した部分には、偉い、強い、優れた、ないしは常に人に注意を向けられて当然であるという自分のイメージが相当することになる。
この自己愛の連続体を考えた場合、怒りとは、そのどの部分が侵害されてトラウマが生じた時も発生することになろう。病的に肥大した自己イメージの部分が侵害された場合についてはすでに論じたが、正常の自己愛が侵害された場合には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生じる。その際は恥よりもさらに未分化な、一種の反射ないしは衝動が怒りに転化するのだ。そしてこちらは一次的な感情としての怒り、と考えるべきなのである。
ただしここに問題が生じる。自己愛が連続体である以上、それが侵害を受けたと感じたのが健全な部分が病的な部分かは、しばしば当人にさえも区別がつかないことがあるのだ。
混んでいる電車で足を踏みつけられた時の怒りという例を再び取り上げよう。その人が自分の存在を無視されたと感じ、大して痛くもないのに踏まれた相手に大げさに咬みつくとしたら、これは病的といえるだろう。しかし実際に足の甲に鋭いヒールが食い込んだ際の耐え難い痛みのために、反射的に声を上げて相手を突き飛ばしてしまう場合もあるだろう。こちらは誰の目にも明らかなトラウマであり、それに対して生じた怒りは正当なものとして映るはずだ。以上の例は両極端でわかりやすいが、大概の場合、足を踏まれて腹を立てた際の私たちの怒りはどちらの要素も伴った複雑な存在であることが多い。

一次的な感情としての怒り

そこでこの「一時的な感情」としての怒りの由来を考えてみる。それは自己保存本能と同根である以上、進化の過程のいずれかの時点で生物に与えられたそれが、そのまま継承されたはずである。
かつてポール・マクリーン(7)は、脳の三層構造説を唱えた。彼によれば、攻撃性は最古層の「爬虫類脳」にすでに備わった、自らのテリトリー(縄張り)を守る本能に根ざしたものであるとした。マクリーンのいう爬虫類脳は脳幹と小脳を含み、心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担うとともに、自分のテリトリーを防衛するという役割を果たす。たとえばワニは卵を産んだ後にはしばらくその近辺に残り、侵入者に対して攻撃を仕掛ける。しかしその時にワニが「怒って」いるかといえば、そうではない。そう見えるだけである。感情をつかさどる大脳辺縁系は、ひとつ上の層である「旧哺乳類脳」のレベルまで進まないと備わらないからだ。そしてここでいうテリトリーを象徴的な意味も含めて用いるなら、それを守る本能は、上述した人間の健全な自己愛の原型と考えることが出来るだろう。それは自分や子孫を守る上でぎりぎりに切り詰めた「領分」を維持するためのものなのだ。
ウォルター・キャノン (8) という学者が1929年に、動物が危険にさらされた時の二つの反応パターンとして「闘争逃避反応」を見出した際、この大脳辺縁系をも含めた自律神経の活発な動きに注目したのである。カモシカは身近に迫ったハイエナやライオンを目にすることで、大脳辺縁系に属する扁桃核や中脳の青斑核といった部位が刺激され、交感神経系が興奮し、闘争や逃避の態勢に入る。この時カモシカなら怒りや恐怖に近い感情を体験しているはずである。その怒りはあくまでもテリトリーを守るための正当なものである。そしてこの部分をそのまま引き継いだのが、私達の怒りのうち「一次的感情」に属する部分というわけである。しかしカモシカは恥の感情を介した怒りには無縁である。恥とは人間に特権的に備わっている「自意識的感情」だからである。
自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一時的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。


「怒りの自己愛モデル」にもとづいて 怒りをどのように処理すべきか

本章のこれまでの話から、このような怒りについての理解の仕方を「怒りの自己愛トラウマ」モデルと呼ぶことには納得していただけるだろう。そこで最後に、このモデルと臨床との接点ともいうべき問題に立ち返りたい。それは「私達は自己愛的な怒り、つまり二次的な感情としての怒りを昇華することができるだろうか?」である。この問題は私達が他人と良好な関係を損なわず、しかも余計なフラストレーションを抱えずに生きていくためにきわめて重要なことである。
しかしこれに対する明快な回答などおそらくない。正当な怒りも、恥に基づく怒りも、いったんそれが生じてしまった段階では同じ怒りなのだ。自己愛の連続体はそのどこに傷がついても痛みを生じる。おそらくその怒りの性質の違いがわかるのは、そばにいて眺めている他人なのだろう。他人が「これは当然の反応だ。自分だって怒るだろう。」と思えるか、「あんなことで怒るなんて、余程プライドが高いのだろう。」と感じるか、である。とすれば先の問題に対する解答とは、「最初から自分の自己愛が肥大しないように心がけること」ぐらいしかないのだろう。しかしそうは言っても人は自分の自己愛がどの程度肥大しているかを、常にチェックすることなどできない。それどころか自己愛が肥大すればするほど、その種のチェック能力が損なわれてしまうのが通例なのだ。とすれば日常生活で体験する自分の怒りを一つ一つチェックすることくらいしかできないのだろう。そして毎回ムカッとしたときに自分に尋ねてみるのだ。「今自分は何に傷ついたのだろう?」おそらくそう出来た時点で、二次的な怒りのかなりの部分はその破壊力を失っているはずであろう。

参考文献

(1) 宮城音弥 (編) : 心理学小辞典. 岩波書店,  1979.
(2) 岡野憲一郎:気弱な精神科医のアメリカ奮闘記. 紀伊国屋書店, 2004.
(3) Morrison , A.P.: Shame : The Underside of Narcissism. The Analytic Press, 1997.
(4) Nathanson, D.L.: Shame and Pride: Affect, Sex, and the Birth of the Self. W. W. Norton & Company, 1994.
(5) Goldberg, C.: Understanding Shame. Jason Aronson, 1992.
(6) Tangney, J.P., Fischer, K.W.: Self-Conscious Emotions. The Psychology of Shame, Guilt, Embarrassment, and Pride. Guilford Press, 1995.
(7) Maclean, P.: The Triune Brain in Evolution : Role in Paleocerebral Functions Springer, 1990.
(8) Canon, W.: The Wisdom of the Body. W. W. Norton & Company, New York, 1932.


2014年2月6日木曜日

日本人のトラウマ(1)

「日本人のトラウマ」とかいう本を書こうと思う。実は内容はもう出来上がっている。これまでに雑誌に発表した13の論文があるからだ。もちろんこれから必要に応じでリライトしていくのでが、それぞれは一応れっきとした心理関係の雑誌である。「こころの科学」だとか、「児童心理」とか。そういうちゃんとしたところに発表した論文を集めた本が企画として認められないわけはない、と思うとしたら全然甘い。この企画はいくつかの出版社ですでにリジェクトされている。「最近この種の企画はあまりぱっとしないんですよ・・」という感じだ。確かに近年の出版事情は、ワンテーマで簡単に読めるものが売れる、と相場が決まっている。精神科医が社会の様々な層について書いた論文集がそのまま向け入れられるわけでは決してない。しかし出版社が企画として受け入れないからと言って売れないという保証も、これがまた全然ないんだな。だから今度この企画を受け入れてくれた●●●●出版社の名誉のためにもいい本にする覚悟なのだ。

第1部 自己愛トラウマと現代人の怒り 
 第1章 怒りと「自己愛トラウマ」 
(初出:「怒りについて考える-精神分析の立場から」児童心理. (847:1181-1185)9月号、2006年)
              
この最初の章では、現代人の怒りについて自己愛の傷つきとの関連からとらえる。最初に昨年末、私たちを震撼させたニュースを取り上げよう。

【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。
 (2013年12月21日10時41分
  読売新聞)

私は北朝鮮の政情についてコメントするつもりはない。ただこれほどの怒りの表現の背後にあるのは自己愛トラウマだということである。「張成沢部長に報告する」と部下に即答を避けられた金正恩の自己愛的な傷つきがこのような決断に至らせたのであろう。自己愛トラウマはそれだけに恐ろしく、またパワフルである。特に誰にとって何が自己愛トラウマにつながるかが読めない場合が多いことも事態を複雑にする。それだけに私たちはこのトラウマと怒りの関係を十分に理解しておかなくてはならないのである。


精神科医もまた普通に日常生活のいろいろな場面で怒りを覚える。さすがに患者さんの一言にムカッとすることは少ないが(現代の私たち精神科医は、不用意な一言が患者さんの怒りを買ってしまわないかということに、むしろ関心があるのだ。)そしてそれを精神医学的にどのように理解するかについての知識を多少人より多く持っていることも確かであろう。さらに私は精神分析家なので、精神分析的な理解も加わる。(精神医学と精神分析学の違いは、一般の方にはわかりにくいかもしれないが、前者はより脳という視点に立つのに対して、後者はより人間の心の動きに注目するという違いがある。)
さて従来の怒りについての心理学的な理解は単純でわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribotの説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している(1)。この種の単純明快な理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来、怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。本能というからには、それは最初から人の心にポテンシャルとしてポン、と存在していることになる。
しかし近年になって見られるのは、怒りをその背後にある恥や罪悪感との関連から捉えるという方針である。つまり「ああ恥ずかしい」、とか「自分はなんと罪深いんだ」、という感情の直後に、それへの反応として怒りが発生すると考えるのである。その意味で怒りを「二次的感情」として理解するというこの方針は、最近ますます一般化しつつある。もちろんこの考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりは、はるかに深みが増し、臨床的に価値があるものとなるのだ。

基本的な視点
精神分析家としての私は、怒りについてかなり前から特別の関心を持ってきた。その経緯についてはすでに別の機会に論じたことがあるので、少し長くなるがここに引用しておく。本章における考察は、ここから先ということになる。

人の怒る仕組み - 怒りの二重構造
まず怒りが起きるメカニズムに関する私の説明はこうである。人が腹を立てる際には、一連の典型的な心理プロセスがある。それはまず私が本書で「自己愛トラウマ」と呼んでいる事態、つまり自分のプライドが傷ついたことによる心の痛みから始まる。そして次の瞬間に、自分のプライドを傷つけた(と思われる)人に向かう激しい怒りへと変わる。このプロセスはあまりにすばやく起きるために、怒っている当人も、それ以外の人もこの二重構造がほとんど見えない。
このプライドを傷つけられた痛みは急激で鮮烈なものである。そしてそれこそ物心つく前の子供にはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさら出来ない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。
それこそレジで並んでいて誰かに横入りされた時の怒りも、満員電車で足を踏みつけられたときの怒りも、結局はこのプライドの傷つきにさかのぼることが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められたことがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。
ましてや誰かとの言葉のやり取りの中から湧き上がってきた怒りなどは、ほとんど常にこのプライドの傷つきを伴っていると言ってよい。他人のちょっとした言葉に密かに傷つけられ、次の瞬間には怒りにより相手を傷つけ返す。するとその相手がそれに傷つき、反撃してくる。こうしてお互いに相手をいつどのような言葉で傷つけたか、どちらが先に相手を傷つけたかがわからいまま、限りない怒りの応酬に発展する可能性があるのだ。(「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」(2) より)。

以上の論旨を一言でいえば「怒りには、自己愛が傷つけられたことによる苦痛、すなわち恥が先立っている」ということになる。ちなみにここでは引用の中のプライドという表現を、もう少し一般的な「自己愛」と言い換えてある。

これまでは攻撃性や男性性と関連付けられる傾向にあった怒りが、実は恥や弱さへの防衛という意味合いを持っているというこの議論は、従来の精神分析理論からのかなりの逸脱を意味する。引用文中にもあるように、この視点は精神分析家H. Kohutにより端緒がつけられたが、そこにはA. Morrison (3),D.L. Nathanson (4), C. Goldberg (5) 等1980,1990年代の多くの分析家の貢献があった。特にMorrisonは「Kohutの理論は、恥の言語でつづられている。」とし、Kohutの「自己愛的憤怒narcissistic rage」についての理論を恥の文脈に導入するうえで大きな貢献をしたのである。

2014年2月5日水曜日

職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(8)


職場恐怖への対処
まず一つ言えるのは、「職場恐怖」(職場に対するフォビアのことを、これからこう呼ぶことにする。)は甘えでない以上、そのフォビアが悪化するような対処、すなわちもとの職場に戻るといった対処はすべきではないということである。極力もとの職場ではなく、異なる部署に移すべきである。当人に厳しく当たった上司の姿が見えない職場と火曜日がいい。そうでないと恐怖症は簡単に再燃する。
 と言ってももちろん職場によっては零細企業などでその様な余裕がない場合もあるであろうから、「可能な限り」ということになる。私の印象では日本の職場ではしばしば押しが強く、威圧的な同僚が、上司でもないのに幅を利かせることがある。クリニックだと受付の事務さんが強大な力を振るい、雇い主や医者やその他の職員を精神的に威圧、圧迫しているということがある。その様な人こそ解雇するべき道はないのか?その様な同僚に恐れをなして、直接対決をせず、気が弱いが有能なスタッフが次々と職場恐怖に追いやられるという状況はとても多い気がする。
私のある患者さんへの対処として、勤め先の会社の関係者にこのような話をしたところ、ある人事担当の方は、「そんなことを言ったら、みな自分の部署に不満を持って、他の部署に行きたがってしまいます。彼だけを例外にするわけにはいかないのです。」このような立場をとる人の大半は、「職場のうつイコール甘え」という立場であり、職場に行けなくなった人たちに対しては手厳しい態度を取る傾向にある。その人のサディズムの表れの可能性すらあるのだ。しかしむしろ私はそれらの人こそ「例外」扱いをするべきではないかと思う。アスペルガー障害などで職場で不適応を起こしている人々が一番職場でサバイブできる方法は、彼らを「障害者雇用」の枠として雇用し、「例外扱い」する。就業中に外出しようがマンガを読もうが放っておく。その代わり仕事はきちんとその日の終わりまでにやってもらうのだ。職員をいちいち細かい就業規則で縛ることは得策でない場合が多い。
 さて以上の対処は如何にも甘いわけだが、それと矛盾するようなことも私は言いたい。それは職場恐怖に陥った職員はしばしば解雇もやむなし、ということだ。あらゆる手を尽くしても職場に来れない人をどうして解雇しないのかと私はいつも不思議に思うことが多い。アメリカに住んでいた時、同様の問題はほとんど聞いたことがなかった。職場に行けなくなったらその人は職を失う。それは理由がどうであれある意味当然のことだと思う。ただしそれが職場でのハラスメントにより起きたことであれば、堂々と法廷で争えばいいことである。
私は同様のことをたとえば登校拒否や学校恐怖に陥っている生徒たちについても考える。構造は似ている気がする。自宅学習をするという形でもいいから、史観を受けさせ、合格したのであれば高校を卒業したことにすればいい。アメリカではホームスクーリングは日常的に見かけるのだ。