ネットで昨日拾ったある記事。
東日本大震災の巨大津波に襲われた宮城県の沿岸地域の園児たちが、津波や地震の「ごっこ遊び」に興じている。「津波がきた」「地震がきた」の合図で子供たちが一斉に机や椅子に上ったり、机の下に隠れる。また、子供には不釣り合いな「支援物資」「仮設住宅」といった言葉も聞かれるという。「将来役立つ」「不謹慎だ」と評価は分かれそうだが、児童心理の専門家によると、子供たちが地震と津波の衝撃を遊びを通じて克服しようと格闘しているのだという。「徐々に回数は減ってきましたが、震災直後は『津波がきた。逃げろ』と叫ぶとみんなが一斉に少しでも高い椅子や机に上がる津波ごっこ、『地震だ』と叫ぶと机の下に競って潜り込む地震ごっこを子供たちはやっていましたね」
心理学を専門にしている人間にとっては最も妥当な理解ということであろう。フロイトの「快楽原則の彼岸」での糸巻きの例で、ある意味でお墨付きがついている。私は常識については必ず疑うので、この妥当な説明にも、「本当だろうか?」と考えている部分がある。(大体わかったような説明は嫌いだ。)
それでも確かに多くの子供たちにとってはこの種の遊びは結果的に適応的だということくらいは言えるだろうか。そしてそれにも多くの個人差があるはずだ。おそらく「津波遊び」にはいろいろな子供が加わっているはずだ。津波に遭ってかろうじて生き残り、そのトラウマを克服しようとしている子供、津波に遭わず、それがひとごとだった子供。そして忘れてはいけないのは、クラスメートの「津波遊び」を見てフラッシュバックを起こしてうずくまる子供もいるはずだということである。
大多数にとって適応的なことも、少数の人々には不適応的であったり、外傷的にすらなりうるのである。
2011年5月29日日曜日
2011年5月28日土曜日
表面的なこと
「ほぼ毎日ブログ」をいったん中止してみると、今度は「やっと月一」という以前のモードに戻りそうだから不思議である。
短期間にテレビとラジオに出てみた(たまたまそういう機会があっただけ)わけであるが、テレビはもうたくさんだ(誘いも別にない)が、ラジオは別という印象を持った。声だけだからリラックスできるし、それだけ話す内容に集中できる。視覚情報を介するテレビは、出る側も観る側も、あまりにも表面的なことにとらわれてしまう。
けさ私はNHKのテレビを見ていて、女性のキャスターの首の長さに気をとられて、何を報道しているのか聞き逃した。続いて枝野官房長官が映ったが、彼の耳たぶが外側に反り返っているのに気をとられて、また内容を聞き逃した。そんなものである。そして視覚的なメディアに登場する人間はそのような表面的なことに対する視聴者の反応に気をつけなくてはならなくなってしまう。私がテレビというメディアを胡散臭く思うのは、そういう側面もある。
短期間にテレビとラジオに出てみた(たまたまそういう機会があっただけ)わけであるが、テレビはもうたくさんだ(誘いも別にない)が、ラジオは別という印象を持った。声だけだからリラックスできるし、それだけ話す内容に集中できる。視覚情報を介するテレビは、出る側も観る側も、あまりにも表面的なことにとらわれてしまう。
けさ私はNHKのテレビを見ていて、女性のキャスターの首の長さに気をとられて、何を報道しているのか聞き逃した。続いて枝野官房長官が映ったが、彼の耳たぶが外側に反り返っているのに気をとられて、また内容を聞き逃した。そんなものである。そして視覚的なメディアに登場する人間はそのような表面的なことに対する視聴者の反応に気をつけなくてはならなくなってしまう。私がテレビというメディアを胡散臭く思うのは、そういう側面もある。
2011年5月23日月曜日
斑目さんと菅さん、うーんよくわからない
斑目さんと菅さんの間に「温度差」(よくわからないが、最近よく使われる表現)があるようだ。要するに斑目さんは「ワシは、海水注入がイカンとは言っとらん!」菅さんは最初は「斑目さんに聞いたら、海水注入でメルトダウンを起こすかも、といわれたので止めた!」しかしなにやらそれについても「私は言った覚えはない」といっているとか?斑目さんは最終的には「メルトダウンが起きる可能性はゼロではない」といったということまでには譲歩しているらしいが・・・・。でも大事なのは「ゼロではない」という言葉のニュアンスである。「メルトダウンの可能性がゼロではない、だから海水注入はやめたらどうでしょうか?」と菅さんに伝わったとしたらそれは「メルトダウンを起こすかも」というメッセージと同じになるのだから。斑目さんは菅さんに対するアドバイザーとして、彼にどのような伝わり方をされたかを確かめないと、役割を果たしていないことになるだろう。その意味ではこの二人が一緒に責任を追及されるのも仕方がないのであろう。しかしそれにしても・・・本質を外れた水掛け論という気がする。
2011年5月21日土曜日
今日は午後にお台場のホテルグランパシフィックで日本精神神経学会の総会に出席した。いろいろ目を見開かされた思いだった。日本精神神経学会は14000人の規模と言うが、日本に精神科医がそれだけいる(あるいは退会した人も合わせるともっといる?)というのも改めて驚きである。と言っても国民一万人あまりに一人、ということになるが。聖路加の同僚(そして医学部時代のクラスメート)の池田先生と一緒にずっと聞き、その後喫茶店でおしゃべり。
ところでこのところブログの更新を余りしないが、実はいろいろ不自由を感じて、英語のブログを開いた。しばらく私のテーマについて一年ほどかけて書いてみようと思っている。その分日本語のブログは片手間になるとおもう。英語のサイトは→ http://dissociationstudy.blogspot.com/ こちらはそのうち挫折する可能性が大きい。
ところでこのところブログの更新を余りしないが、実はいろいろ不自由を感じて、英語のブログを開いた。しばらく私のテーマについて一年ほどかけて書いてみようと思っている。その分日本語のブログは片手間になるとおもう。英語のサイトは→ http://dissociationstudy.blogspot.com/ こちらはそのうち挫折する可能性が大きい。
2011年5月18日水曜日
福島原発の問題。失敗学的に言えば…
福島原発の問題を見ていて思うこと。少なくともメンタルヘルスの専門家としては、人がこのような時に犯人探しをする傾向に注意したい。いつものように、みのもんたの「朝ズバ」は私たちが陥りやすいメンタリティを知る上でいい判断材料になるが、最近番組で問題になっているのは東電の出した行程表の不備、そもそもの安全管理の手ぬるさ、政府の初期対応のまずさ、などなどである。ある不都合な事態が生じると、過ちを犯したのはだれかということを追求する。過ちを許していたのは私たち自身であるという方向には向かわない。誰が正しくて誰か誤っているか、という単純な二分法に走りやすい。(というか、みのもんたがそれだけ単純なのかもしれないが。)例えば東電もまた災害の被害者でもありうる、という論調は出てもすぐに抹殺されてしまうだろう。私は東電の会長も社長も、避難所暮らしをしてそこから出社してみればどうか、報酬は全額返上して生活保護で生活すればどうか、と一方では思っている。そのくらいしないと「あんたたちにはこの苦しみはわからないだろう」という声には対処できない。しかし福島原発の放射能漏れが100%彼らのミスによる人災とは思わない。あの大震災がなければ、福島原発はほかの数十の原発と同じように安全に機能していただろう。
失敗学的に言えば、福島原発の事故は一つの失敗のプロセスであり、私たちが将来放射性物質を安全に扱う上でどのようなことが必要かを、失敗を経つつ学んでいる最中であるということを教えてくれたにすぎないのである。
牛肉のユッケによる食中毒の問題も同類である。不完全な人間が、手間を省き、同時に利潤を追求する上で安全管理の手抜きをするのはある意味では自然のことだ。それがとてつもない失敗や事故を引き起こすことから様々な安全策がとられるようになる。事故が起きてはじめて、正しい扱い方を学ぶのである。私たちが獲得した様々なノーハウは、そのような順番で蓄積されてきているのである。残念ながら福島原発も食中毒も、その例に過ぎない。なぜなら事情を詳しく、あるいはある程度知っている人が大勢いて、その問題を何とか解決しようという動きが出なかったからである。
失敗学的に言えば、福島原発の事故は一つの失敗のプロセスであり、私たちが将来放射性物質を安全に扱う上でどのようなことが必要かを、失敗を経つつ学んでいる最中であるということを教えてくれたにすぎないのである。
牛肉のユッケによる食中毒の問題も同類である。不完全な人間が、手間を省き、同時に利潤を追求する上で安全管理の手抜きをするのはある意味では自然のことだ。それがとてつもない失敗や事故を引き起こすことから様々な安全策がとられるようになる。事故が起きてはじめて、正しい扱い方を学ぶのである。私たちが獲得した様々なノーハウは、そのような順番で蓄積されてきているのである。残念ながら福島原発も食中毒も、その例に過ぎない。なぜなら事情を詳しく、あるいはある程度知っている人が大勢いて、その問題を何とか解決しようという動きが出なかったからである。
2011年5月16日月曜日
やっぱり男はどうしようもない
日本の報道ではあまり扱われていないが、ニューヨークタイムス等では一面トップの記事で扱われたのが、国際通貨基金会長ドミニック・ストロースカーン氏のスキャンダル。来年のフランスの大統領選でサルコジ氏にとって代わる候補とされていた有力者だが、ニューヨークで女性に対する強要で逮捕されてしまった。これに呼応していたのが、スケールはいささか小さいが、ロック界の大御所内田裕也氏のスキャンダル。二人ともこれまで築いた業績や名声を一夜にして失ったばかりでなく、周囲に多大な迷惑や混乱を招いた。彼らの社会的生命のメルトダウンと言ったら大げさか?これらを目にして思うこと。やはり男はどうしようもない。しかし同じ男としてこれは同情が混じっている。
私が「男はどうしようもない」という時、「彼らがどうして身辺をきれいにし、思慮深いふるまいをしなかったか、アーどうしようもない」と言っているわけではないのだ。男性がある意味で本能に振り回されて常軌を逸してしまう部分をギリギリの線でコントロールして社会生活を送らざるを得ないという性(サガ)に対する憐れみも含めてこう言っているのである。政治の世界で、芸術の世界で力を発揮する人間が、下半身の問題でスキャンダルを起こすということはあまりに多く、政治、芸術、スポーツなどの世界における実力と性的な問題とは別物と切り離して考えるしかないように思う。米国にいた時散々聞かされたクリントン大統領(当時)のスキャンダルのことを思い出しても同様の感想を持つ。その種のスキャンダルはなかった代わりにどんでもない問題(イラク戦争のこと)を起こしたブッシュ大統領と比べると、クリントン氏は、大統領としての職務を立派にこなしたと言ってもいいが、彼ほど最悪なスキャンダルにまみれた人間もいなかったのである。
ただしこんなことばかり書いていると、これらの男たちが女性たちに行ったふるまいを許容していのか、と言われかねない。もちろんそんなことはない。社会的な地位を得た人間は、自分を狂わすものは何か、自分にとって命取りになるものは何かを十分知っておかなくてはならないということだ。
唐突だが原発事故を思い起こさせる。現代は男性はこれまでの粗暴で勝手で、彼らにとっては野生に近いふるまいを慎まない限りは人生のメルトダウンを起こしてしまう。それを防ぐためには何重もの防護策が必要である。女性とは一切一対一では会わないとか。自分自身に監視カメラを付けてしまうとか。SSRIを服用するとか(副作用を利用する)、カミさんに常に付き添ってもらうとか・・・・。
私が「男はどうしようもない」という時、「彼らがどうして身辺をきれいにし、思慮深いふるまいをしなかったか、アーどうしようもない」と言っているわけではないのだ。男性がある意味で本能に振り回されて常軌を逸してしまう部分をギリギリの線でコントロールして社会生活を送らざるを得ないという性(サガ)に対する憐れみも含めてこう言っているのである。政治の世界で、芸術の世界で力を発揮する人間が、下半身の問題でスキャンダルを起こすということはあまりに多く、政治、芸術、スポーツなどの世界における実力と性的な問題とは別物と切り離して考えるしかないように思う。米国にいた時散々聞かされたクリントン大統領(当時)のスキャンダルのことを思い出しても同様の感想を持つ。その種のスキャンダルはなかった代わりにどんでもない問題(イラク戦争のこと)を起こしたブッシュ大統領と比べると、クリントン氏は、大統領としての職務を立派にこなしたと言ってもいいが、彼ほど最悪なスキャンダルにまみれた人間もいなかったのである。
ただしこんなことばかり書いていると、これらの男たちが女性たちに行ったふるまいを許容していのか、と言われかねない。もちろんそんなことはない。社会的な地位を得た人間は、自分を狂わすものは何か、自分にとって命取りになるものは何かを十分知っておかなくてはならないということだ。
唐突だが原発事故を思い起こさせる。現代は男性はこれまでの粗暴で勝手で、彼らにとっては野生に近いふるまいを慎まない限りは人生のメルトダウンを起こしてしまう。それを防ぐためには何重もの防護策が必要である。女性とは一切一対一では会わないとか。自分自身に監視カメラを付けてしまうとか。SSRIを服用するとか(副作用を利用する)、カミさんに常に付き添ってもらうとか・・・・。
2011年5月15日日曜日
治療論 その8. (改訂版) 「治療者はセッション中にノートを取るべきか?」
治療者はセッション中に記録をとるべきか?これもあまりに色々なファクターが絡んでいるために、白黒を付けられない問題だが、よく学生やバイジーさんに問われる。精神療法に関しては、この種の問題が多い。「いちがいにどちらともいえない」という答えはどの問いに対してもほぼ同様に用意されているのであるが、その理屈が曖昧で、しばしば問われるのである。それに誰に指導を受けているかで大きく変わってくる場合がある。「セッション中にノートをとるべきでしょうか?」という問いは実は、「先生(バイザーのこと)は、バイジーにセッション中のノートの取り方についてはどのようにおっしゃっていますか?私もそのようにいたします(あるいはそうしていることにします)」ということだったりするのだ。ただしいかなる形でもこの種の問題は問われること自体に意味があることが少なくない。この問題について考える機会を与えてくれる、という意味では決して悪いことではないことだからだ。
本当はセッション中にノートをとるべきかどうかなどは、精神分析的な精神療法以外の治療法においてはあまり問題とされない。認知行動療法で「ノートをとるべきか?」を問うならば、もちろんイエス、となるだろう。セッション中に書き入れるフォームもあるくらいだ。ところが精神分析ではそうは行かない。フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということを言ったことから問題が始まった。フロイトの言葉としてしばしば引用される、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういう意味であった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派である。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それが「平等に」ではなく、まさに一つのことに注意を払うことになってしまうからだ。
フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。うーん、わかったような、わからないような。しかしフロイトと違って凡人の私たちは、ボーっと聞いていると何も思い出せなくなってしまうのだ。ところがそれに対してフロイトだったら、「いや、そういう意味での『ボーっと』じゃないのだ。どこにも注意しないで、でも一生懸命聞くのだ。全体を見渡すようにして聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」というだろう。
実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後に夜遅くまで再現してノートにつけたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり関係がないというのが私の印象である。
もちろんフロイト流に自由に心をめぐらせながら患者の話を聞いても、大体のあらすじなら十分に頭に入ってくるだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者の話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。ノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのにあまり時間はかからなかったよ。」これには少し安心した。
ただしここでの話は、セッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
セッションのノートのとり方について現実的な考え方を示しておく。人にはそれぞれ異なる認知パターンがあるし、記憶力の差もある。その個人にとってもっとも適当と思われる方法をとればいい。一番無難なのはセッション中はキーワードのみをノートに書き込み、後はセッション後にその間を必要に応じた詳しさで埋めるという方法だ。これは多くの治療者が実践しているであろう。ただし一セッションが終わってからほぼ再現してノートに起こせる人は、必ずしもトレーニングを積んでいない人の中にも現実にいるのであるから、それらの人たちはセッション中はキーワードさえも書かずに終了後に思い起こして要点を書き残せばいいことになる。
以上の話には例外がある。私たちは時にはバイザーへの報告や症例検討会での報告のために、セッションのほぼ全体を詳しく再現する必要に迫られることがある。その場合記憶力に自信のない人はかなり一生懸命ノートをとることになるだろう。そうなるとノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルなメッセージを逃したり、ということがおきるだろう。いつもと違ってある日急にペンを動かす治療者を見て、患者の側も不思議に思うかもしれない。これは一時的にではあれ患者治療者関係にとって決してよろしくないだろう。でもそれにより再現されたセッションが多くの情報を持つことになり、スーパービジョンや症例検討会にとって役に立つ場合もあるから、一長一短ということになる。
ちなみに症例報告で見事なセッションの記録が報告されたとき、助言者が「ところでこれほど詳しい記録をどうやってとったんですか?」ということを聞くのに出会ったためしがない。ここら辺はビミョーなのだろう。いっそのこと思い切って事情を患者に伝える? 別に隠すことでもないし、間接的に患者のためになることだから?ウーン・・・・
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。セッション中にノートをとることは少なくともタブーではない。しかしやはり考慮すべき点は次のことだ。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください!」 これもウーン・・・・・。
本当はセッション中にノートをとるべきかどうかなどは、精神分析的な精神療法以外の治療法においてはあまり問題とされない。認知行動療法で「ノートをとるべきか?」を問うならば、もちろんイエス、となるだろう。セッション中に書き入れるフォームもあるくらいだ。ところが精神分析ではそうは行かない。フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということを言ったことから問題が始まった。フロイトの言葉としてしばしば引用される、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういう意味であった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派である。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それが「平等に」ではなく、まさに一つのことに注意を払うことになってしまうからだ。
フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。うーん、わかったような、わからないような。しかしフロイトと違って凡人の私たちは、ボーっと聞いていると何も思い出せなくなってしまうのだ。ところがそれに対してフロイトだったら、「いや、そういう意味での『ボーっと』じゃないのだ。どこにも注意しないで、でも一生懸命聞くのだ。全体を見渡すようにして聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」というだろう。
実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後に夜遅くまで再現してノートにつけたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり関係がないというのが私の印象である。
もちろんフロイト流に自由に心をめぐらせながら患者の話を聞いても、大体のあらすじなら十分に頭に入ってくるだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者の話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。ノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのにあまり時間はかからなかったよ。」これには少し安心した。
ただしここでの話は、セッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
セッションのノートのとり方について現実的な考え方を示しておく。人にはそれぞれ異なる認知パターンがあるし、記憶力の差もある。その個人にとってもっとも適当と思われる方法をとればいい。一番無難なのはセッション中はキーワードのみをノートに書き込み、後はセッション後にその間を必要に応じた詳しさで埋めるという方法だ。これは多くの治療者が実践しているであろう。ただし一セッションが終わってからほぼ再現してノートに起こせる人は、必ずしもトレーニングを積んでいない人の中にも現実にいるのであるから、それらの人たちはセッション中はキーワードさえも書かずに終了後に思い起こして要点を書き残せばいいことになる。
以上の話には例外がある。私たちは時にはバイザーへの報告や症例検討会での報告のために、セッションのほぼ全体を詳しく再現する必要に迫られることがある。その場合記憶力に自信のない人はかなり一生懸命ノートをとることになるだろう。そうなるとノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルなメッセージを逃したり、ということがおきるだろう。いつもと違ってある日急にペンを動かす治療者を見て、患者の側も不思議に思うかもしれない。これは一時的にではあれ患者治療者関係にとって決してよろしくないだろう。でもそれにより再現されたセッションが多くの情報を持つことになり、スーパービジョンや症例検討会にとって役に立つ場合もあるから、一長一短ということになる。
ちなみに症例報告で見事なセッションの記録が報告されたとき、助言者が「ところでこれほど詳しい記録をどうやってとったんですか?」ということを聞くのに出会ったためしがない。ここら辺はビミョーなのだろう。いっそのこと思い切って事情を患者に伝える? 別に隠すことでもないし、間接的に患者のためになることだから?ウーン・・・・
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。セッション中にノートをとることは少なくともタブーではない。しかしやはり考慮すべき点は次のことだ。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください!」 これもウーン・・・・・。
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