2023年10月12日木曜日

連載エッセイ 9 その9

  さてこれまで私はDの話ばかりしていたが、Lはどうなのか。Lは想像上ではない、純粋な楽しさだ。パチンコだったら最初に楽しさを味わった時の喜び。である。これはDが増えていく一方ではどうなるのだろう? これはかなりケースバイケースという事になるだろう。しかし低減していく場合が多い。もちろん最初はL=Dという感じだったはずだ。その瞬間いい気持ち(L)だったからまたやりたくなる(思い出した時の0.1D、実際に再体験することになった瞬間のD)。しかしDが大きくなるにしたがって、Lはどちらかと言えば小さくなっていくはずだ。

 例えば過食を考える。最初はお腹いっぱいスイーツを食べて満足する(L=D)。しかしDが大きくなるにしたがって食べる量が増えて行っても、それが心地よいという保証はない。そもそも最初のLでちょうどよかったのである。だから食べている途中から苦しくなるだろう。Lどころではない。マイナスLだ。そして多くの場合過食は収まるのだ。しかしそれでも過食が止まらない場合がある。なぜだろう?

 同様のことをパチンコ中毒の場合について考えてみよう。何時間も椅子に座っているとおしりも痛くなり、腕も指も疲れるし、目もかすんでくる。そもそも仕事を休んで馬鹿なことをやって‥‥という後ろめたさは相当なもんだろう。マイナス3Lくらいか。だからパチンコ中毒の人は決して楽しんでやっていないはずだ。そこで彼に聞いてみよう。「こんなに何時間もやっていて、しかも食事もせずに、軍資金もかなり減っているのに、何が楽しくてやっているんですか?そろそろやめて帰りましょうよ。」

しかし筋金入りのギャンブル依存の方なら、きっとこう言うはずだ。「私だってやめたいですよ。でも止められないんです‥‥。」彼の言いたいことを私たちなりに翻訳するとこうだ。「ここでやめようとすると、猛烈なマイナス10Dが襲ってくるんです。だからここから動けないんですよ。」このように真正の依存症の人は、それをやっていようといまいと、マイナスXDに襲われているのだ。(ただしやっている最中はこれがXマイナス1くらいに少し軽くなるので、やらないよりはましなのである。) 

 もっともっとシンプルな比喩を考えることが出来る。痛みと鎮痛剤の例だ。あなたはいつも慢性的な頭痛がする。大した痛みではないが、うっとうしい。市販の薬である程度は軽くなるが、切れるとまた同じ痛みが襲ってくる。

 そこに頭痛の特効薬が発売になる。さっそく飲んでみると、何とピッタリおさまった。これまであなたの頭痛はこれまでどの薬を飲んでも完全に取れたことはなかったのだ。そこであなたは驚いて、これからその薬を使うことに決め,3、4瓶くらいを買い占める。ただし薬屋の店員さんは、「気を付けて、ほどほどにお使いください。」と謎めいたアドバイスをしてくれたのが気になる。

さてあなたはその薬でぴったり頭痛がやむので、毎日使うことにした。最初の何日かは大変快適だ。こんな素晴らしい薬があるなんて。ところがある日いつもの量(一錠)を使っていても、少し痛みが残る気がする。そこで2錠にしてみると、殆どピッタリ痛みが治まった。そこで次の日からは2錠飲むことにした。そして同じように数日間は頭痛から解放される。しかし恐れていたことが起き始めたようだ。そのうちその薬が体から抜けることには、最初の痛みよりも強い痛みが襲ってくる。あなたは急いで3錠、いや4錠を口に放り込む・・・。これはおなじみの依存症の成立のパターンだ。そして最後には、常時大量の薬を使っても、最初とは比べ物にならないほどの頭痛に悩まされることになる。

 この鎮痛薬の例では、先ほどのLがどうなったかというのは明白だ。最初からあった頭痛による苦痛をHとすると、特効薬を一錠飲んだ時に感じた安らぎであるマイナスH(頭痛がすっかり消えたことの心地よさ。こちらはマイナスが付くが快楽である)は、頭痛そのものが結局は消えないので、どれだけの錠数を飲んでも決して味わえないことにある。彼が薬を飲み続けるのは、痛みをほんの少しでも和らげたい、それだけだ。Dが肥大する一方で最初のLは失われてしまっているのである。


2023年10月11日水曜日

連載エッセイ 9 その8

  さてここであらためて嗜癖モデルを考えよう。もしあなたの脳に誤作動が起きて、他人の一万円札をちらっと見た途端、それを実際にもらったという想像があまりに強烈で、妄想に近いレベルにまで達したらどうだろう?例えばスーパーで買い物をしてレジに並んでいて、前の客が財布から一万円札を取り出すのを見た瞬間にこれが起きて、「やった!」となってしまう。単なる想像なら0.1Dで済むのに、いきなりDが来てしまう。そして次の瞬間その妄想から覚めて、実際にはそれが起きないことを知る。(ここら辺が精神病と違うところだ)。恐らく実際に一万円を突然誰かに取られたか、どこかに落としてしまったかのような失望を体験するはずだ。そんなバカなことは実際に起きないだろうとお考えだろうか。しかしそれが嗜癖による体験と非常に近いのである。

  例えば筋金入りのパチンコ中毒の人は、パチンコ屋の存在しないどこかの離島で長年暮して、すっかりパチンコのことを忘れ去ったつもりでも、久しぶりに都会に出て来てパチンコ屋を通り過ぎて「チン、ジャラジャラ」という音を聞いた瞬間に猛烈にパチンコをやりたくなるかもしれない。強烈なDが突然襲ってくるのだ。するとマイナスDの苦痛を回避するためには、もうパチンコ屋の扉を押すしかない。

  ところで改めて考えよう。マイナスDが解消されるためにはどうしたらいいのだろうか? 単にパチンコ屋で数時間過ごすだけでいいのだろうか? 多分多くの人にとってはそれでいいのだろう。もちろんそこで賭けた金をすべてスッてしまったら、マイナスDは恐らく完全には回収されないであろうが。でもそれほど楽しい思いもしないだろう。初回の楽しさLはおそらくLのままだ。ところがここに罠がある。しばらくぶりで入ったパチンコ屋であなたはこれまでにない勝ち方をするのだ。数時間で数万円分という途方もない「景品」を貰う。そんなことを繰り返すと、またパチンコ屋の近くを通り過ぎた時のあなたに襲ってくるのは、たとえばマイナス2Dだったり、マイナス3Dだったりするのだ。そしてそれを回避するためにはパチンコ台に向かうしかない。こうしてあなたのパチンコ中毒は深刻になっていく。

 ちなみにこのDの上昇は、パチンコに大勝すること意外にも起きるのがミソである。それはいわゆるニアミスだ。例えば最初の3時間で数万円を稼ぎ、パチンコ屋の閉店までのあと一時間でさらにひと稼ぎをしようと考えるとする。これだったら、最後の一時間でさらに稼ぐ場合に比べて、かなりの頻度で起きうるはずだ。ところが大抵は、あなたは稼いだ分の半分を、あるいは全部を失ってしまう。あなたはもうパチンコはこりごりだと思い、二度とお店に近づかないだろうか。一部の人にとってはそうであろう。ところがこのニアミスもまたあなたのDを2Dや3Dに膨らましてしまう可能性がある。よくある例は、最後の瞬間に賭け事に負けると、さらにアツくなり、「絶対にこれを取り戻すぞ!」と仕事を休んでも翌朝パチンコ屋の前の列に並ぶのである。「もう少しでうまく行った。あとひといきだった。」という体験もまたDを2Dに、3Dに押し上げてしまうのである。


2023年10月10日火曜日

連載エッセイ 9 その7

  昨日の続きである。自分が書いた「報酬系の働き」を読んでみたが、まとめると次のような内容だ。報酬系でドーパミンが放出されると私たちは快感を覚える。しかしそれは不思議な性質を有する。それはいわば快を頭の中で先取りしたことによる快なのだ。つまり快そのものではなく、その約束手形のようなものなのだ。ネズミはシロップを味わう前にすでに、その権利を獲得したことを喜ぶ。それはシロップの美味しさそのものからくる快とは異なるのだ。そしてこの種の快はそれが不在であることの苦しみを引き起こす。これが渇望である。

 思考実験のやり直しだ。ネズミはある日初めてノズルから滴り落ちた甘いシロップを味わう。「美味しい!」しかしその時の嬉しさは甘さだけによるものではない。「なんだ、こんなことが起きるのか!」という驚きを伴った嬉しさ。こちらがドーパミンの関与する嬉しさだ。そしてそれは本来の美味しさからくる快とは遊離していく・・・・・。

 とここまでが、昨日書いた内容だ。でもどうもしっくりこない。少し考えなおしてみたくなった。というのも「美味しい」という嬉しさはその時はただ一つの純粋なものだったように思うからだ。それ自体は二種類の快から構成されているというのはどうも嘘っぽい気がする。しかしそれが記憶され、のちに想像されることで二重帳簿化するのではないだろうか。美味しさの体験は思い出としても残り、それがDの正体なのだ。ネズミは後になって「あのシロップ、おいしかったなあ」と思い出して幸せな顔になる。心地よさを思い浮かべることも一種の快感だろう。実際のネズミはこのようにして思い出すことは出来ないかもしれないが、まあ少し擬人化してこう考えよう。ところが次の瞬間にネズミは気が付く。「これって現実に起きてはいないよね。だって実際にはシロップなんて舐めていないんだから。」これはちょっとした失望だ。つまり快を想像できるということは、小さなD、例えば0.1Ðを味わい、次の瞬間に現実に返って-0.1Dを味わうという事なのである。人間ならもっと記憶力がいいからこんなことをいつも繰り返すのだろう。そのうちにシロップの記憶そのものが薄れ、Dも量としては少なくなるのだろう。要するに一回だけのシロップの体験はやがて忘れられていくのだ。

 しかしそれにしてもなぜこんな面倒くさい仕組みが出来ているのだろう? 一つの仮説は生命体はこの一度味わった快を追い求めるための装置としてこのドーパミンシステムが備わっているのではないだろうか。それが生存の可能性を高めるのだ。ところがこのシステムにはバグが生じることが知られている。そしてそのためにネズミの生活はこれほど穏やかではないかもしれない。


  まずシロップの出てきたノズルは紛らわしいことをするからだ。ある時ネズミはノズルから粘稠そうな液体が出てくるのを見る。ネズミは思わう「シロップだ!」と急いで舌で舐めとる。しかしただの水だった。この場合は期待度は0・9Dくらいまで行っていたので、シロップではないことを知った時の失望も大きい。マイナス0.9Dだから相当なものだ。つまりシロップの甘さを忘れさせてくれないような刺激がある限り、ネズミは悩ましい体験を繰り返すことになるだろう。そしてこのシロップの甘い記憶は容易に忘れらせてもらえない可能性があるのだ。

 ところでネズミは緑信号が付いたときにノズルからシロップが出てくることを学習していく。すると実際にネズミがシロップを味わうことが出来た時も、きっと第一回目のようにおいしいはずだ。ところがこのおいしさは初回とは少し異なる脳の働きに反映される。少なくともドーパミンニューロンの興奮はシロップをなめた瞬間には伴わない。ドーパミンは空想上の快であって現実のそれに同期するわけではないからだ。

 実際に快が与えられてもドーパミンは反応しない、ということを別の例で説明しよう。あなたはある日「これをあげます」と一万円札を渡される。その人は時々あなたにお小遣いをくれるやさしい隣人だ。あなたの脳の中では「やった!」というドーパミンの興奮がみられるだろう。そして翌日その叔父さんから、「今日もあとで一万円差し上げます」と告げられる。その瞬間に再びやった!となるだろう。それだけその叔父さんをあなたは信用しているのだ。実際にあとで一万円札を渡されたとしたら、「よかった、ちゃんと約束を守ってくれたのね」と安心するだろうが、その言葉を100%信じていたとしたら、お札を渡された瞬間はドーパミンニューロンの興奮は伴わないだろう。

 先ほどの例と事態はあまり異ならないことはお分かりだろう。(ネズミか人間かは別として。)そしてあなたが実際にお札を渡された時にもはやドーパミンの興奮が伴わないことはごく当たり前に思えないだろうか。それは一万円札を貰えるという約束をしてもらった時点で起きていたことだったのだ。もちろんシロップをなめるのと一万円札を渡されるのでは違いがある。一万円札は少なくとも五感では味わえないからだ。しかしシロップをなめた時のおいしさは、ドーパミンとは別の伝達物質が担当するのだ。


2023年10月9日月曜日

連載エッセイ 9 その6

 昨日の続きである。自分が書いた「報酬系の働き」を読んでみたが、まとめると次のような内容だ。報酬系でドーパミンが放出されると私たちは快感を覚える。しかしそれは不思議な性質を有する。それはいわば快を頭の中で先取りした快なのだ。つまり快そのものではなく、その約束手形のようなものなのだ。ネズミはシロップを味わう前に、味わう権利を獲得したことを喜ぶ。それはシロップの美味しさそのものからくる快とは異なるのだ。そしてこの種の快はそれが不在であることの苦しみを引き起こす。これが渇望である。

 もう一度整理しよう。シロップは甘く美味しい。ネズミはある日初めてそのシロップを味わう。「美味しい!」しかしその時の嬉しさは甘さだけによるものではない。「なんだ、こんなことが起きるのか!」という驚きを伴った嬉しさ。こちらがドーパミンの関与する嬉しさだ。そしてそれは本来の美味しさからくる快とは遊離していく。

 ここで思考実験だ。ネズミはシロップが美味しいという。そこでそれを数値化して、Lとしよう。そして意外性からくる喜びをDとする。すると初日の快は、L+Dという事になる。そしてネズミはそれを数日間続けて、午後3時の時計が鳴ると、おやつとして運ばれてくるのを体験する。期待という事を学ぶのだ。するとネズミは3時の時計の音を聞いて、すでにDという喜びを味わうことになる。シロップ自体は変わらないのでLという喜びを得る。しかしD自体はシロップを実際になめる時には体験しない。なぜなら時計が鳴った時点ですでに体験したからだ。

 もう少し進める。ネズミがこの体験を十分に積んだところで、ある日シロップが運ばれてこない。「どうして?」とネズミは苦しむ。お預けをくらったことがつらいのだ。その苦しみはどこから来るのか。Lを体験できないからだろうか? いや決してそうではない。Dという期待が裏切られたからだ。このことは自然界で暮らすネズミを比較して考えれば分かる。ネズミは人間様の家の中をごそごそと動き回り、パンの欠片を見つける。まあこれをシロップと同じようなものと考えよう。「やった」、というDと「おいしい」というL。でもいつ同じような幸運に恵まれるかはわからない。ネズミは再びパンの欠片を見つけないことで苦しむだろうか?そんなことはない。もともと期待していないからだ。飼いならされたネズミだけが期待という事を学び、その結果として3時の時計の後お預けをくらった場合に苦しいのだ。ではその苦しさはどこから来ているのか。

 ここで秘密を明かさなくてはならない。実は脳内ではDは一定の量で常に与えられている。報酬系は弱いDつまり d を常に体験させてくれているのだ。そしてその上で期待をした時には大きなDを味わう。ところがお預けをくらった時は、それでも普通なら体験出来ていた d がゼロになってしまう。これには耐えられないのだ。つまり期待という形でLから遊離したDは、それが得られなくなった途端マイナス d という苦しみとなって帰ってくるのだ。

  さてここで嗜癖に関する一つのモデルが成り立つことになる。ネズミがいつものようにシロップを味わっていたが、ある時からさほど美味しくないとする。Lのつもりがその半分くらい(L/2) に減っている。実際は2滴貰っているのになぜか美味しさはいつもの半分になっているのだ。するとネズミは不当にも d/2 の苦しみ(幻のお預け)を体験することになる。もし脳の中でそのようなことが起きるとしたら、報酬であったはずのシロップは苦痛を生むことになる。そしてこれが嗜癖モデルとして完成するためには、もう一つの条件が必要になる。Lが半分に目減りしたのに期待がDのままであった場合だ。するとこの苦しみは慢性化することになる。実際の嗜癖がこのモデルに従うかどうかは明日もう一度検討しよう。


2023年10月8日日曜日

連載エッセイ 9 その5

 報酬の二重帳簿問題

 このISM説、実は快に関する非常に悩ましい問題を説明する手段として案出されたという経緯がある。私たちは快を求め、不快を回避する。これは生存を続ける上での大原則だ。そして幸いなことに通常は、快は無限に得られるわけではない。ネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとってのチョコレートを例にあげよう。私達はチョコレートを永遠に貪るわけにはいかない。はるか以前の、例えば文明開化の頃なら、舶来のお菓子であるチョコレートは極めて高価で、簡単に手に入れることなどできなかっただろう。それから安価になりコンビニでどこでも手に入るようになった。でも私たちは「ダイエットしなきゃ」とか「甘いものを食べ飽きて頭が痛くなってきた。今度はしょっぱいものが欲しくなったな。」等とつぶやいて別のものに関心を向ける。このように快の源は一定の範囲でしか私たちを惹きつけないのが普通だ。

 ところが私達はハマるとか中毒になるという状態を時々経験する。体は「もう嫌だ!」と言いながらそれを求めるという事が起きる。好きなものにはそのうち飽きるという原則が当てはまらない現象に私たちは頭を抱えるようになった。なぜ辟易していて、それが体や心を蝕むとわかっていることをわたしたちは止められないという現象が生じるのか?

ここから科学者たちは私たちの報酬には二種類あると理解することが合理的であると学んだ。報酬はいわば二重帳簿なのだ。つまり一つの気持ち良さには二つの性質が伴っている。一つは心地よいと思う感覚。もう一つはそれを止められないという感覚。先ほどの例だと前者はαという物質がXという部位で働いていることを示し、後者はどうやら報酬系でドーパミンが働いていることに対応するようだ。前者はチョコレートを美味しいという感覚、後者はチョコレートが特に美味しくなくても欲しい(やめられない)という感覚。そして特に美味しくないのにそれを強烈に欲しいという状態が嗜癖と呼ばれ、極めて重要な問題として注目されることになった。なぜなら美味しくなくても止められないもの、例えばヘロインやコカインや覚せい剤、お酒、ギャンブル、などはその人の健康や社会生活を容易に蝕むという結果を生むからだ。そしてこの文脈から生まれた事実が、私達の報酬は好き like なものと、止められない want ものであり、両者は別物であるという理解なのだ。

みなさんは思うはずだ。神様はどうして脳にそのような仕組みを与えたのだろう?体に必要なものだったり目新しいものだったらそこから報酬を得られるのは恐らく合理的だろう。そしてそのうち飽きて、それ以上いらなくなることがとても大事なのだ。つまり好きと必要はおおむね一致していることが重要なのだ。大概は一つものを摂取したり一つのことをやり過ぎたりすると弊害が出てくるものである。ところがどうして特定の物質や行動だけこの両者が途方もなく大きく分かれるのか。

 一つの問題はドーパミンシステムの本来的な性質だ。ドーパミンシステムは、軽い快感ならその度合いに応じたドーパミンが出て快を感じさせる。ところがそれが一定以上の大きさの場合に、ドーパミンシステムは報酬系が焼け焦げ、結果的にその物質を用いないことが強烈な不快を生むことになるのだ。それをかつてある論文で以下のように表現した。上手くアレンジできるだろうか?


報酬系の働き

ここで報酬系について、改めてその働きを見てみよう。それを単純化すれば、報酬刺激を与えられることで興奮し、私たちに快感を与えてくれることである。報酬系は先に述べた中脳の側坐核や中核野の周辺に広がる領域である。そこで特に重要なのが内側前脳束(medial forebrain bundle)という部位で、特に腹側被蓋野(ventral tegmentum area, 以下VTA)から側坐核(Nucleus accumbens 以下 NAcc)に向かって投射しているドーパミンニューロンである。VTAにはそのドーパミンニューロンの本体部分である細胞体があり、それはNAccに向かって軸索を伸ばしている。その興奮によりNAccにドーパミンが放出される。私たちが身体的に得られる快、精神的に得られる快がすべて、この内側前脳束におけるドーパミンニューロンの興奮に関わっていることが知られている。

ところでこの報酬系にはもちろんドーパミン以外にもアセチルコリンやGABAその他の神経伝達物質も複雑に関与している。また報酬系は快感のみではなく、嫌悪刺激とも関係している複雑なシステムであることも分かっている。そして嫌悪刺激の場合の主役はアセチルコリンである。苦痛の際にはNAccにおいてアセチルコリンが放出されるのだ。ただし嫌悪刺激でもドーパミンがある程度は放出されることが分かっている。そして結局はNAccにおいて放出されるトーパミンとアセチルコリンの比(D/A比)が大きいと快感に、小さいと苦痛を生むという事が知られている。

このように報酬系は、報酬刺激や嫌悪刺激が軽度~中等度の場合は、きわめて合目的的に働いていることになる。適度に心地よい刺激ではドーパミンが放出され、嫌悪刺激では主としてアセチルコリンが働き、私たちは主観的な快や苦痛を覚える。すると体はそれらをさらに求めたり、回避、軽減したりするという衝動に従うのである。そしてそうすることは私たちの生存の可能性をより高めるのだ。

また嫌悪刺激については、私たちの脳はさらに周到な用意をしている。ドーパミンやアセチルコリン以外の物質も関与して、それを軽減しようと試みるのだ。例えば脳内では鎮痛剤に似たような物質が分泌され、みずから痛みを和らげようとすることが知られている。それがいわゆる内因性オピオイドであり、それ自身が報酬系に働きかけることで痛みを軽減する効果を発揮する。そうすることで尋常ではない痛みに対処する力を私たちの脳は備えているのだ。例えば極度の苦痛に襲われた際、むしろ至福に近い体験が生じるという現象が知られている。溺死寸前で救出された人などの語る臨死体験の多くがDMTなどの脳内麻薬の類似物質と関連しているという研究もなされている(星名、2009)。


過剰な快と報酬系


では報酬刺激が過剰な場合にはどうなるのか? その場合にこそ問題が生じるのだ。すでに述べたように私たち祖先は過剰な快楽を体験する機会を通常は持ちえなかった。そして報酬系はそれに対する対応能力を持っていなかったのである。その結果として快感が一定限度を超えた場合、報酬系は暴走し、私たちに快楽を体験させてくれるのではなく、逆に極度の苦痛を与えることになるのだ。

私たちの報酬系は、快の程度が一定限度内であれば、穏やかな快感を保証してくれるのであった。それは自分にとって癒しとなり、また生きる喜びにもなるだろう。たとえば毎日仕事があるものの、決まった時間にブレークタイムがあり、ある心地よさを体験出来るとしよう。それはケーキやグラス一杯のワインなどの嗜好品かもしれないし、好きな読書やゲームで過ごすひと時かもしれない。それが終わるとあなたは満ち足りた気持ちで再び業務に戻るのである。あなたは明日もその時間を楽しみにし、自分に対するご褒美と考え、それにより仕事へのモティベーションも上がるかもしれない。

ところがそのブレークタイムに、あなたはヘロインのパイプを提供されるとしよう。あるいはあぶって吸入する純度の高いコカイン(いわゆる「クラック」)でもいい。今日からはこの新しいメニューが続くと告げられる。あなたが興味本位でそれを吸ってみると、たちまち強烈な多幸感に襲われる。「性的オーガズムの数万倍の快感を全身の隅々の細胞で行っているような」と形容される快感を初めて味わった時、おそらくあなたは通常の仕事にはすぐには戻れない。戻ったとしてもボーっとして、先ほどのブレークタイムで自分の身に起きたことを考えて過ごすかもしれない。そして翌日の同じ時間にもヘロインパイプが出されて、また雲に乗ったようなあの強烈な快感を味わう。

こうして何日かを過ごすうちに、あなたは自分の心や体に重大な異変が生じていることに気が付く。まずあなたはブレークタイムのことが頭にこびりついて離れなくなるだろう。そしてその時間を心待ちにするため、他のことが考えられず、仕事に戻ることが難しくなっている。そうしてさらに不幸なことが起き始めていることを知る。それはヘロインやコカインによる快感が過ぎ去った後、不思議な苦しさが訪れるようになることだ。特にヘロインの影響が体から抜けた後の苦しさは耐えがたい。身体中に起こる関節痛、とてつもない倦怠感や吐き気。体がバラバラになるようである。しかも時と共にそれが増していくのである。そしてその苦しさは、次の日に再びヘロインを使用する時まで続くのだ。さらにもう一つの問題が起きる。それは同じ量のヘロインやコカインで得られる快感は明らかに前回よりは減っていくことだ。そこで仕方なく量を増やしていくしかない。しかしそれでも苦しさを一時軽減してくれるだけで、もはや心地よさとしてすら体験されなくなっていく。

こうして報酬系は最初の甚大な快感をそっくりそのまま苦痛へと変質させてしまうのである。報酬系は私たちに奉仕するどころか、私たちを裏切り、最悪の事態を引き起こすのだ。どうやら私たちの報酬系という器官は途方もない欠陥を有していることになる。あたかも一定以上の電圧をかけると途方もない誤作動を起こす機械のようなものだ。それはある程度以上の快の刺激で、私たちを廃人のようにしてしまうのだ。

ここで私たちの心にひとつ疑問が生じるだろう。過剰な快に対する報酬系の狂った振る舞いは、神がそう設計した結果だろうか。人(実は動物も同じである)は一定以上の快を味わった際には神の怒りに触れ、処罰を下されるのだろうか?その人を廃人にするべく設計されたものだろうか?それとも単に自然は本来そのような途方もない快の源泉を想定していなかったのだろうか? たしかに生命体がこのようなバグを有する報酬系を抱えながら生き延びてきたのは、単に自然界がそのような強烈な報酬刺激を提供してこなかったからだろう。例えばケシの実からとれる白い汁に含まれるモルヒネの濃度が極めて高かったとしたら、動物の多くはケシ畑を離れられなくなり、食べ物を探したり繁殖をしたりせずにケシの実を齧り続けてあっという間に滅んでしまうだろう。(ところで自然界で精神変容作用を起こす植物に動物が翻弄される例は、実際には数多く知られている。)

このように考えると、生命体に備わっていたバグを責めるよりは、私たちの文明が、自然界ではほとんどありえないような報酬刺激を作ってしまった私たち文明のせいだともいえるだろう。ただしこのバグの本体は少しずつ解明されつつある。そしてそれに従い、薬物依存をいかに治療するかについてのヒントも与えられつつあるのだ。


報酬系が暴走するプロセス


快についてはVTAからNAccに投射されるドーパミンニューロンが関与していることについてはすでに述べたが、依存症の形成にはそれらの部位で、いわゆる長期増強、長期抑圧という現象が関係していることが知られる。長期増強とは二つの神経細胞を同時に刺激することにより両者の間の信号伝達が持続的に高まるという現象である。その際神経細胞内のエンドソームから次々とリセプター蛋白が生産されてシナプスを強化する。わかりやすく言えば、報酬系の中枢の部分の回路がより太く、強力になるのだ。この長期増強は、例えば一回のコカインの使用ですでに最大限にまで達するという。そしてこの長期増強が薬物依存に関係していることは、その長期増強を抑える薬物、たとえばMK-801という物質で前処理されたラットではこの依存症が起きないことにより証明されている。ただしこの長期増強はアルコールやニコチンでも一回で生じるというのだ。ところが依存症はたった一度の使用で起きるわけではない。

そこで強烈な依存症の成立には別の仕組みが関与していることになるが、それがGABAによる長期抑制という仕組みである。GABAニューロンは報酬系を抑制する働きがある。それの抑制、すなわち抑制の抑制による増強という現象が、薬物の使用回数が上がるにしたがって高まっていくという。これが依存症の成立に絡んでいるという。

依存症による脳の変化はさらにドーパミンの投射先であるNAccや背側線条体、前頭前皮質のシナプスにも変化が生まれる。NAccの中型有刺ニューロンの棘の数は格段に増えて刺激をよりキャッチしやすくなるが、この変化は永続的であるという。また海馬、前頭前皮質、扁桃体から側坐核に情報を届けるグルタミン酸システムの長期抑制が起きる。これらの変化は全体として、とてつもない快感を再び期待して報酬系が悪魔的な学習diabolical learning (Stahl, 2012)を起こしてしまい、これが初期の耐性と依存性のもととなっている可能性があるという。しかもこの脳の変化はほぼ不可逆的であり、薬物依存者は再び正常の脳を取り戻すことは出来ないのだ。

このように通常は適度の快や嫌悪刺激に応じて適応的に反応していた報酬系は、強烈な快に触れ続けるといわば焦げ付いて変質してしまい、もとには戻らない。そしてこれが嫌悪の病理の背景となる脳内の変化の一つなのである。


2023年10月7日土曜日

カップルセラピー その5

エッセイ「夫婦はなぜ喧嘩をするのか?」の後半である。


 私達の作ったパターン

 結婚生活も何ヶ月かになると、被っていた猫もどこかに行ってしまう。そうしてお互いの本性が次第に明らかになってくるし、それにつれて夫婦の関係性が変わってくる。それは私達夫婦の場合も同じだった。だいたい、こだわりのない人間と、こだわる人間が一緒に暮すと、結果は目に見えているようなものだ。妻は目一杯こだわれる一方、私は妻のこだわりに一方的に影響され、感化された。しかし感化されたといっても、私が妻のこだわりを引き継いだというわけではない。もともとどうでもいいことについて、その場は妻の流儀に従っているだけだ。そこに大きな苦労を伴ったわけではない。だから私が本来持っていてなかなか治らない癖は自然と残ってしまい、それが結果的に妻をイライラさせるのだ。

この妻のイライラはわかる。何しろ私は前にも書いたとおり、特に配偶者でもなくても、人をイラつかせてきたからだ。ところが妻のそのイライラにこんどは私がイライラさせられる。というのも私は「どうせ一緒にいるんだから、楽しくやろうや。」という主義である。一緒に暮らしたり、仕事をしたりする以上は、相手に対してイライラするべきではない、というこだわりだけは人一倍あるのだ。だから私は妻にイライラされることだけは無性に悲しいし、悔しくもなる。その結果として自分自身がイライラしてしまう。ここで私がイライラしてしまえば、全く意味がなくなってしまうのだが、そうとわかっていても感情がついていかないのが、こだわりというものである。

こうなるとお互いに日常的に交わすメッセージは決まってくる。彼女は「何度言ったらわかるの?いい加減にしてよ、もう。」であり、私の方は「頼むからそんな細かいことでカリカリするのはやめてくれよ、もう。」これで平行線になってしまうのだ。

ただし中には少し工夫するだけで、この種の衝突を防ぐ方法が見つかることもあった。例えばこんなことである。結婚して数年間は、家族との外出時は私が車を運転していた。運転は男がするもの、という意識があった。しかし私の運転のし方が、妻からするとかなりでたらめで、イライラするのだという。たとえば私には、片側が二車線の道路で路肩からの距離を空けすぎる傾向があるらしい。そして車が中央により過ぎ、センターラインを踏んで走る癖があるらしい。「らしい」、というのも妻が指摘するまで全くどうでもいいことだったからである。

もちろん横に別の車が並行して走っている場合には、やたら接近しないように気をつけるが、前後に車がいなくなると注意も緩み、いつの間にか二車線の中央に車が近づいてくるのだ。もちろん自分におかしなことをしているという気はない。安全でありさえすれば、後は気楽に運転したいからだ。

ところが妻がこれを感覚的に受け容れられないのだ。「ねえ、頼むからセンターラインを踏んで走るのは止めてくれない?キモチ悪くってしょうがないのよ。」ときつく睨むのだ。(ちなみに彼女の行動を決定するのは、この「キモチ悪い」か、「かわいい」か、ということらしい。ただし私にはいまだに彼女にとって何が「キモチ悪」くて、何が「かわいい」のかが読めていない。)

あるいはこの先に車が曲がる方向をわかっていて、そのために早めに必要な車線に入っておく、ということも私は得意ではない。「その時でいいじゃん。」という調子なのだが、これがまた彼女をイライラさせる。「ほらほら、速く車線変えて。それからウインカー、ウインカー。ちゃんと教習所に行ったの?」何しろ彼女は日本では電車に乗る時には、目的の駅で下りた際に階段に一番近いのは何両目の何番目のドアだか、ということを常に考えて乗るということを励行していた人である。そういうことが何より得意なのだ。これでは私はかなわない。

そこで家族で久しぶりにドライブに出よう、という時などに、やっと高速に乗りスムーズに車を走らせ始め、家族どうしが他愛のない会話を楽しんでいる時に、妻が「ギャ、また踏んでいるじゃない!」と私を責め、それで私が一気に不機嫌になる、ということがよくあった。彼女にすれば、「どうして楽しいドライブを台無しにするの?アタシが嫌なのを知っていて、ワザとセンターラインを踏んでいるんじゃない?」と、こうなる。実に不思議なのだが、彼女は私が本当に駄目人間だということを信じない。「あなたに私に対する優しさがないから、私が言ったことをすぐ忘れるんでしょう。」と解釈する。もしそれが本当なら、ある意味では安心するのだが、実際は頭のどこかのネジが二、三本ゆるくなっているからであり、時々このままボケたらどうしようかと心配しているのが現状なのだ。

ある時、私たちはこう決めた。外出の時は、彼女が常に運転することにするのだ。何しろ明らかに彼女の運転の方がうまく、しかもこだわりが多いのだから、私はいつも助手席でおとなしくしていればいい。「運転は、一家の主人が・・・」などというプライドを捨てればいいのだ。妻はすぐにそのアイデアに同意した。そしてそれを実行してみると、これがまた快適なのである。車での移動時の喧嘩はこれで一挙に解消してしまったのである。

ただしこれには後日談もある。彼女は運転技術が勝っている分だけ、結構ぎりぎりの事をする。歩行者の動きを読んで、すれすれのタイミングでその横に車をすべらしていく。駐車の際も、隣の車とギリギリの距離を、結構思い切りよくターンして、一回で入れていく。すると車両感覚の乏しい私は助手席から「あっ、危ない!ぶつかる!」となる。これが妻には著しく癇に障るのだ。「何よ、びっくりするじゃない!人を轢きそうになっているかと思ったじゃない。やめてくれる?」となる。「いや、万が一そこの歩行者に気がついていないかもしれないと思ったんで・・・」「そんなの見えているに決まってるじゃないの!」

結局助手席でも私は彼女をイライラさせるのだ。そこで私は彼女に命を預けたつもりになって(大げさか?)一切口を出さないようにするのだが、それでも小声で「あっ」と出てしまう。それに10回に一回の割で彼女は、「あらゴメン、見えてなかったわ。」などとシラッと言うから、私はこれをやめられないのである。結局私は助手席で「あっ、危ない、あ、ごめんごめん、でも、あっ、危ない、あ、ごめん」とわけのわからないことをつぶやき続ける悲しい運命にあるのだ。

 

実は私にもこだわりが結構あった

 

さて、以上はみな私の言い分であるが、これで終わるわけがない。私は妻がこのエッセイをここまで読んだ場合(これまでの経過からして、まずありえないことだが)の反論がある程度予測できる。それは最近この問題について話しあう機会があってわかったことだ。

彼女の反応はこうだろう。「あなたがこだわりがないって?トンデモない! 存在そのものがこだわりの塊だってことがわからないの?」つまり私の方こそ強烈なこだわりを持っていると言うのだ。そしてそれはとても根が深くて直しようがなく、彼女ももう諦めているのだという。これはオカしいではないか?私はこだわりの少ない人間のはずである。いったいどこがこだわっているのだ?すると彼女は次のような具体例を次から次へと挙げてくるのだ。

たとえ病気でも、仕事に出ないと気がすまないこと(そういえば、今の職場に勤めて8年、風邪で休んだことは一日もない)。【注釈:明らかに米国に暮らしていた時に書いた文章。2001年くらいだろうか。】あるいは仕事を休んででも家族にサービスをしようとは絶対にしないこと。毎日書くことを止めず、いつも次のテーマのことばかり考えていること。そもそもアメリカまで来て、頑固にい続けて家族に迷惑をかけていること。古いものを捨てようとせず、ゴミばかり溜めていること。新しい服やジーンズを買っても着られずに、結局取っておいて古いものを擦り切れるまで切ること。典型的な貧乏性で、高価だが品質のいいものを決して買えないこと。人の話(特に妻の話)を真剣に聞かないこと・・・・ こうやって次から次へと出てくるのだ。

彼女によると、私と生活をしていると、私の仕事用のデスクあたりから、カオスがドンドン広がってくるのだ。そして無整理、無秩序、キタない、臭い、の波が家の他の部分にまで寄せてくるのを彼女は必死に食い止めているのである。そして同時に彼女は私のデスクや本棚の周囲を「見ない」事にしてやっと我慢しているというのだ。うっかり見てしまうと頭がおかしくなりそうだからだという。ウーン・・・・

さらに彼女の指摘は私の人格にも及ぶ。相手が権威だと見ると、すぐムキになって挑戦的になる。一度決めたら頑として、周囲の迷惑も考えずに続けようとする。徹底して自分の好きなように物事を運ぼうとする。その意味で協調性がなく、非常に自己中心的である・・・。

なるほど言われてみると、確かに彼女の主張はだいたい当たっているのである。確かに私は衣食住の表面的なものに関してはこだわらないように見えるが、仕事にしても書くことにしても、もっと自分の思う通りに出来ないか、どうしたら規則に縛られないで済むのか、嫌いな部分をもっと減らせないか、どうやったらその中で「遊べる」のか、ということばかり考えている。一見日常生活にこだわらず、妻のこだわりに寛容なのも、結局は自分の好きなようにやらせてもらっていることに対する後ろめたさが関係しているのだろう。そして妻はそんなことはとうの昔にわかりきっていたと言うのだ・・・・。実に冴えている。さすが私の選んだ妻である。

私は妻の言い分を聞いて、私達の関係性の「全体像」のようなものがちょっと見えた気がした。本当はどうしようもないこだわりを抱えているのは私の方なのだろう。しかしそれが日常生活のレベルでは見えにくい種類のこだわりであるだけなのだ。その意味では本当に耐え忍んでいるのは妻の方ということになる。

そこで私も開き直った上で、こう言うしかない。結局こだわりのない人間などいないのだ。表面にでこぼこのない、球面のような円満な人格など現実にはありえないし、もしそんな人がいたとしてものっぺら坊みたいで全然面白くないだろう。表面のでこぼこ、ゴツゴツがその人らしさなのだ。こだわり続けることは、ある意味では自分自身を守り、維持するうえで必要なのだろう。(しかし我ながら見事な開き直りっぷりだ。)

しかしこだわりを守りつづけることは必然的に、人と人との同居に大きな試練を与える。毎日の生活は、こだわりのぶつかり合い、一種の戦いの色彩を帯びる。最初はバラ色の生活を夢見て結婚した二人は、あまりの理想と現実の落差に愕然とするはずだ。だが一緒に暮らすと決めた以上、お互いのこだわりに耐えながら、それに自分をできる限り適合させながら生きていくしかない。こうして時にはうんざりし、時には自分の運命と諦めながら、こづきあい、支えあい、夫婦は人生を共に歩んでいくのである。もちろん夫婦がお互いに理解しあうことにより、より幸せな同居生活を送ることが出来るかもしれない。しかしそのための作業には絶大なエネルギーが必要だし、私達の多くがそれを捻出できないとしても無理はないことだ。かくして世の多くの夫婦は口喧嘩が絶えず、「どうしてこんな人と一緒に・・・・」と不幸な顔をして年月を重ねているのだ。(ただし彼らが本当に不幸かどうか、ということについてはこのエッセイでは触れていないことは、読者の皆さんもお分かりと思う。)

 それでもどうして人は一緒になるのか?

これまで述べたことから、人間はもともと仲良く同居することには向いていないと結論付けざるをえない。こだわりを持つことが人間の本性である以上、これも宿命と言える。ただしもちろん人間は、動物学的に見てパックアニマル、つまり群居動物であることは間違いない。だからあえて、仲良く同居することには向いていない、と断ってあるのだ。一つ屋根の下で、口喧嘩をし、小競り合いに消耗しながらも、結局は同居を選択するのもまた群居動物ならではである。

それにしてもどうして私たちは懲りずに結婚するのだろうか? 一緒に暮すようになると関係性がすっかり変わってしまうということを、両親の夫婦喧嘩を始終目にしても、実際に結婚生活を通して身をもって体験しても、どうして学習することをしないのはなぜか? それは恋愛が一種の妄想に基づいたものだからだ。恋愛とは、相手を唯一の、究極の対象と見ることだ。その相手となら奇跡が起こり、一生幸せに暮せる、という非現実的なことを信じ込む。これは一種の妄想であり、だから人は懲りずに、理想の相手との同居を目指すのだ。

アメリカでは何度も結婚と離婚を繰り返す人が少なくないが、それはこの事情を端的に物語っている。そして結婚式のたびに、「死ぬまで添い遂げます。」と本気になって誓うのである。しかし実際に添い遂げている夫婦にしても、事情はさほど変わらない。別の異性に憧れの気持ちを抱き、「あの人と結婚していたなら本当に幸せになれたかもしれないのに。」という夢想を、既婚者は一度や二度ならず持つものである。結局は人間である限り、皆この妄想を潜在的に持っている。ただし実際にそれを行動に移すかどうかとは、別のレベルの問題なのだが。

では人はどうしてそんな妄想を持つ必要があるのか?それは人がつがうためのはずみとして神様が人間に備えたものだからだからだ。恋愛も、性的交渉も、改めて考えればこれほど気恥ずかしくて、グチャグチャしていてバッチイものはない。それこそ妄想でも持たない限り、相手を見つめあったり舐め合ったり、これから一生を共にするという誓いなど立てることなど考えられない。

そして子孫を残すためには、そのようにして生まれたつがいが何より好都合となる。つがいの二人がぶつぶつ文句を言い、互いにため息を付き合っても、両親としてまともに機能してさえくれれば、とりあえず子供が無事に育つ環境が提供される。

いわば生物としての人間は、妄想に導かれて結婚して子供をもうけた時点で、その役割は半ば終わっているといってもよいのだ。その後もつがいが幸福に余生を送れるかかどうかなど、自然の神様にとっては二の次、三の次の問題なのだろう。

では本当に大方の夫婦は、決して幸福とはいえないような関係を、運命として受け入れる以外にないのか? 私は治療者であるから、そこにやはり何らかの希望を抱いてしまう。夫婦ができるだけ幸せに同居するために持つ心構えが存在するのではないかとあれこれ思案するのを止められない。たとえば次のような手段を考えてみる。

一つには、同居している相手は出会った時の相手とは違う存在であるということを十分に受け入れることだ。同居はしばしばその人の人格を変え、場合によっては一種の狂気にまで駆り立てる。夫婦間の暴力や虐待に関しても、その原因の一端はこの狂気にある。しかし同居により相手が見せている姿が相手の本性とは限らない。ただ別の人格なのだ。そう考えることで、相手に対する失望も軽減するかもしれない。また逆に好きな人でも、一緒に暮らせば豹変することが分かっているならば、縁がなかったとあきらめるより仕方ないだろう。もう一つは、同居することで相手にとっての自分自身も変わってしまうというプロセスを自覚することだ。私は患者さんに次のような言い方をよくする。「同居していると、相手があまりに近い距離にいるので、全体が視野に入らず、自分とは別個の一人の人間としてイメージできなくなるんです。時には、もののように扱うようになっちゃうんですよね。そんな場合は、ちょっと距離をおけばその姿を再び捉えることが出来るでしょう。そしてその人に対する敬意や、心遣いを再び思い出すことができるかもしれませんよ。」

ただしこれらを口で言うのはたやすく、実行は難しい。何より私がこれらを実行できているとは、とても思えない。結婚カウンセリングなどはいくら面白そうでも、到底自分にはそれを行う資格がないだろう、とため息をつく毎日のだ。


2023年10月6日金曜日

カップルセラピー その4

昔「自然流精神療法」に書いたエッセイ(結局掲載されず)「夫婦はなぜ喧嘩をするのか?」が見つかった。書いた時期は2001年ごろ。アメリカにいた頃だ。そこで二日間にわたって掲載する。今日はその前半である。

 夫婦はなぜ喧嘩をするのか? 

毎日患者さんと会っていて、いつも感じていることがある。その大多数が配偶者との生活に大きな不満を抱いているということだ。まるでみんな不幸になるために結婚しているかのようだ。それに比べて満足のいく結婚生活を送っている人のなんと少ないことか?

結婚生活の滑り出しはたいてい希望に満ちている。人生でおそらく一番輝いている時かもしれない。相手を気遣い、いたわり、愛情を表現し合う。これからずっとその生活が続くと思う。しかし徐々に何かが変わっていく。ある時ふと思う。「何でこんな人と一緒になったんだろう?」後はため息の付き合い、軽蔑のし合い、憎しみ合い。自分達が最初は相手に胸ときめかせ、幸福な共同生活を夢見ながら結婚したという事実が、まるで何か悪い冗談のように思えてしまうのだ。

私が思うに、結婚生活がしばしば不幸なものになる一番の原因は、そもそも一緒に暮していることにあるのだ。ところが夫婦は一緒に暮すものと相場が決まっている。だから「幸福な夫婦」というのは一種の形容矛盾なのだ。

とは言え、もちろん幸福な生活を送る夫婦もたくさんある。それを否定するつもりなどない。ただそれは圧倒的に少数派なのだ。大部分の夫婦は、お互いに楽しい時を持てず、相手に我慢しながら同居しているのである。それはなぜだろうか?

そんなことを考えるのが、今回の「独り言」である。

 

みんな少しずつ、「こだわり」を持っている

 

まずは話の順番として、こだわりの話から入る。少し遠回りになるが、お付き合いいただきたい。

私たちは皆、何かしら気になることを持っているものだ。それがパターン化したのが、「こだわり」ということになる。大体はくだらない、取るに足らないことだ。ただし本人以外にとっては。そしてそこが大問題なのである。

どこかの番組で、かのSMAPのキムタクが、「夜寝る時は、真っ暗にしないと眠れない。どんなに小さな明かりも、電灯の紐の蛍光でさえも気になってしまう。」というようなことを言っていた。これなどは相当なこだわりだ。

そういえば同じ芸能人では長渕剛が、「家で食事をする時は一人で蚊帳の中に閉じこもって食べないと落ち着かない」、とかいう話をしていたように記憶している。これなどは私たち精神科医が聞くと、ちょっとアブナく感じる。志穂美悦子もこれではたまらなかっただろう。

別段芸能人の例を出すまでもない。テレビで有名人のそんな話を聞くから「へぇー」と感心するだけであり、私たちは毎日こだわりを持った人間に囲まれて生活しているのだ。私もいくつも例を出すことが出来る。

たとえば昨日会ったある中年女性の患者さんは、「細かいことがすごく気になるんです。」というので、「例えばどういうことがですか?」と問うてみた。すると、「少しでも曲がっているものがあると、それが気になって直さずにいられないんです。」と言いながら、私のデスクの上に雑然と積み上げられている書類を恨めしそうな目で見た。これなどよく聞く話だ。

患者さんばかりではない。心の探求を極めたはずの精神分析家もそうだ。かつて私のスーパーバイザーだった、ある初老の分析家の事を時々思い出す。メガネの端をキラリとさせた、神経質なインテリである。ある日私がケースの報告をしている最中に、目の前の彼がいきなり立ち上がった。何事かと思って見ていると、オフィスの端まで歩いて行って、そこに掛けられていた絵の額縁の、私にはわからないぐらいのちょっとした傾きを直して、また戻ってきた。いきなり中断された私が唖然としていると、「イヤー、いったん気がつくと、気になって気になってキミの報告に集中できないんだよ。」と謝った。「まったくベテランの分析家は言い訳がうまいものだなあ」と感心したことも覚えている。

これらは非常に即物的なこだわりの例と言えるだろう。つまり実際の物体に関するこだわりだ。その物体にチョコっと手を加えれば、その場は気が済むのだ。そして「即物的な」こだわりと来たら、今度は「観念的な」ものも考えなくてはならないだろう。これも実際にあるのだ。つまりこだわっている対象が自分の頭の中にある観念やイメージの場合だ。たとえばこんな例がある。

私の知り合いの女性は推理小説のファンだというのだが、途中から犯人が誰だろうかと気になりだし、一ページずつ読んでいるのがまだるっこしくなり、とうとう最後のページから読み始めてしまうという。その彼女にトレンディドラマが10週分入ったビデオを貸したら、それを見ているうちに夜が更けても止められなくなり、明け方までかかって早送りしながら最終回まで見てしまった、と話していた。しっかり結末を見ないとキモチ悪くて床につけないというのだ。これなどは、こだわりが強いために楽しむものも楽しめず、かわいそうな気がする。

 さて、「夫婦はなぜ喧嘩をするのか?」、というテーマなのにどうしてこんなこだわりの話から入るのかよくわからない、という方もいらっしゃるかもしれない。しかし考えても見ていただきたい。こだわりを持った人間の影響をまともに受けるのが、一緒に暮すパートナーなのである。外見がどんなにカッコよく見えた彼でも、キムタクのように就寝の時間になって、「窓から漏れてくる街灯の明かりが気になるから」と言って、一人で押入れにこもられたら、同居するパートナーはシラけ切ってしまうだろう。(もちろん工藤静香には決して許してもらえなかっただろうと想像する。)

結局こだわりを持つということは、ものすごくはた迷惑なことなのである。しかし生きている限りこだわりを持たない人間などいない。そして結婚とは、まさにはた迷惑な人間が同士が生活を共にすることのだ。

 ところが「こだわらない」、というのも結構迷惑な話だ

 ただし、こだわりを持つということ以外にもはた迷惑なことがある。それはこだわりを持たない(と信じこんでいる)ことなのだ。私自身を例に取って話してみよう。私は自分は細かいこだわりとは無縁だとずっと思っていた。若いころは畑正憲や北杜夫のエッセイに出てくるような、旧制高校のバンカラや弊衣破帽の風習に憧れた。実際に下駄をカランコロン鳴らして大学に通っていた時期もある。(服装はといえば、まったくかまっている形跡がなかったそうだという話を当時の知人から聞いた。)そして細かいことにこだわらないことイコール男性的である、という観念を持っていた。これは一種の虚勢であり、反動形勢ともいえる。

そのせいか私は若いころは何人もの人(特に女性)から、「あなたは本当に着るものを気にしない人ね」と言われた。もちろん誉め言葉として受け取っていた。ところが後で気がつくことになるのだが、彼女たちは私を誉めるどころか、実はかなり迷惑していたようである。「気にしない人なのね。」というのは、「少しは気にしなさいよ、イライラするわね!」とメッセージだったらしい。私の中途半端で場にそぐわない格好が、かなり人の神経を逆なでしていたようだ。
 それでも気楽な学生生活の頃は周囲も我慢してくれていたらしいが、医学部を卒業して精神科の医局に入ると事情が違ってきた。何しろ社会人であり、お客さんを扱う仕事なので、周囲も私のいい加減な格好に黙ってはいられなくなったということもあろう。はっきり口に出して言ってくれるようになったのだ。

たとえば私は小さいころから髪の毛はいつも自分でカットしているが、その頃はもみ上げだけが不気味に長かったり、片方だけ短かったりしたらしい。ある年の忘年会で、少しアルコールが入った二年上の先輩の女医さんが、「あなたのもみ上げ、どうして長いの? いつも気になっていたのよね。」と私に告げた。考えても見なかったことだった。ちなみに彼女はまだ独身で、かなりファッションにはうるさかったように記憶している。そして私の髪を見るたびにイライラしていたようなのだ。何しろ適当にカットしているから、そのたびにビミョーな髪形になっていたらしく、彼女にとってはそれが町で見かける普通のカットとあまりに違うので、見るに堪えなかったのだろう。ちなみにその頃の写真を見つけたが、確かにもみ上げあたりが不気味である。しばらく見ていると自分でもイライラしてきた。

この頃は他にもかなり服装にもチェックを入れられた。白い綿のボタンダウンのシャツを洗ったあと、乾燥機から出したチリチリのまま着て朝の外来診療を始めようとしたら、医局のおばさんがあきれて言った。「センセ、いいかげんに結婚して、奥さんにアイロンぐらいかけてもらわなくちゃ駄目よ。」私は綿にアイロンは必要なく、むしろ皺だらけのまま着るのがファッションだろうと、一人で勝手に思い込んでいたのだ。

それ以外にも思い出すだけで、いろいろ出てくる。真冬に夏用の灰色の薄手のスラックスをはいていたり(スラックスに夏用、冬用の区別があるという概念がそもそも欠如していた)、真夏なのに分厚いコールテンのズボンをはきつづけたりしていた。(コールテンはジーンズの一種だと思い込んでいたから、夏冬全く同じ感覚ではきつづけた。そういえば確かに夏は暑苦しかった。)、セーターの肘に穴があくのはごく自然なことだと思い、少なくとも両肘に穴があくまでは着続けたりした。

その頃私にはガールフレンドがいたこともあるが、彼女は私が待ち合わせの場所に現れるたびに、私の着ているものをざっと上から下まで眺めて、何も言わずに深いため息をついたり、目をそらしたりしたことがあった。でも彼女は私を傷つけるのを恐れて、何も言わなかったのだろうと思う。彼女はとても優しい(我慢強い?)女性だったのであろう。 

結婚していよいよ大変なことになった

 先ほども言ったとおり、結婚や同棲は、こだわり同士のガチンコである。何しろ二人のこだわり人間が至近距離にいて生活するからだ。そしてこのこだわりというテーマについて多くのことを考えさせられたのも、私自身の結婚生活を通してなのである。かれこれ14年も暖め続けているテーマなのだ。

私はこだわりを持たない方だと言ったが、それは妻との生活でもある程度は確認できたように思えた。何しろこだわりの程度が全く違う。というよりも私には「どうしてもこれ!」ということが本当に少なかった。もちろんそれ以前の長い独身生活の間に、私は私なりの、それもかなり奇妙な生活パターンを身に付けていたが、それは私の着るものの例のように、私の無知さや社会常識のなさの上に成り立ったものだった。少なくとも着るもの、食べるもの、居住環境(それじゃ、衣食住のすべてではないか!)に関しては、妻は私よりはるかに常識的だったから、私のオカしさをどんどん指摘し、一から指導してくれた。私が先ほど書いたような自分の服装のちぐはぐさを知ったのも、すべてその過程で気がついたことなのである。

やがて結婚してしばらくしてみると、私は彼女の買ったものを着て、出されたものを食べ、彼女が備品を整えたトイレで用を足し、彼女の統一した水色のタオルで風呂上りの体を拭く、ということになっていた。それで私には全く問題はなかった。むしろそれまでに私の生活の中で溜まっていた垢のようなものをきれいにしてもらった気がして、清々したものである。

そのうちに気がついたのだが、衣食住にわたる妻の「常識」には、かなり細部にわたって彼女なりの「こだわり」という「スピンがかかっていた」(英語的な表現である)のだ。彼女から頻繁に受けた「指導」にも、その一部がかなり混じっていたことになる。何しろ彼女は結婚当初から、家具にしてもキッチン周りのこまごまとしたものにしても、自分が「これしかない」と確信を持てるものだけをそろえていくのである。(ちなみに彼女は店で「これしかない」という商品を目にすると、「かわいい!」と駆け寄るのだが、これは言葉では説明できない非常に感覚的なものであり、一種の出会いであるという。)

もちろん誰にとっても客観的に見て唯一「かわい」くて正解なものなどないのだから、結局そこには彼女の趣味やこだわりが反映していることになる。そして彼女が家具や備品のすべてにおいて「出会い」を体験するまで、私は長時間買い物につき合わされた。都合の悪いことに、彼女は買い物には誰かを一緒に連れて行かないと気がすまないというこだわりがあった。また私の方は、人の買い物には決して付き合わない、というこだわりも特に持ち合わせていなかった。そのために結局はため息をつきながら、妻のいつ果てるとも知れない買い物について歩き回ることになったのだ。

 

妻のこだわりとの戦い

 

このエッセイは「夫婦がなぜ喧嘩をするのか?」というテーマなのであるが、私たち夫婦は結構幸運だったかもしれない。何しろ妻のこだわりの多くは、私には「どうでもいい」ことだったので、あまり喧嘩の種にはならなかったのだ。大抵の男性は私よりはこだわりが多いだろうから、例えばバスルームのシャワーカーテンの色や、ハンドソープのフレバーをめぐって彼女と深刻な言い争いになったかもしれない。しかし私は妻のこだわりを、面白がって観察することの方が多かった。その中には、実に興味深いものもあるのである。

例えば彼女は、かかとの皮膚をそーっと指でなぞってみて、ちょっとでも指に引っかかる感じがすると、どうしてもそれが気になるという。そしてそこの部分の皮をむかずにはいられないというのだ。当然完全にスムーズになるわけがないから、次々とむいていくことになる。するとしまいには血の色の透けた薄皮一枚にまでなる。そしてそれを私に無理に見せて、「ヒエー!」という反応を確認して満足するという悪趣味を持っているのだ。私には体の一部をいじめるという趣味はないので、見ていて実に勉強になる。それに彼女が私のかかとの皮まで剥こうとするならモンダイだが、あくまで自分ので満足しているのだから、私には完全に他人事なのだ。

私の思春期の息子もこだわる方である。たとえば「何かが取れそうで取れないブラブラの状態のものがやたらに気になる」というのだが、これなどは明らかに妻から遺伝したものである。

ある時息子と妻がキッチンで何かの話で盛り上がっていた。「あの時のあれ、気になったよねー。」と話が合っている。聞いてみると、二年前に私の田舎に帰った時、私の父の腕についていたかさぶたがほとんど剥がれかけていて、何かの動作のたびにプルプルしていたという。私など気がつきもしなかったが、二人とも目ざとくそれを見つけ、思わず手を伸ばして引っ張ってはがしたい衝動を抑えるのが大変だったという。そしてそれを今まで引きずっているというのだが、いったいどういう親子なんだ???