2023年10月5日木曜日

カップルセラピー その3

 「精神療法と夫婦の関係とはどこが違うのか?」のエッセイから何が引き出せるのか

カップルセラピーは結局それを継続する意思があるかどうかというところから逆算すべきであるというのが私の一つの結論だ。つまりカップルはそれが維持される前提で、そのためにはどうすべきかを考えるのが、本来の在り方だ。

 しかしカップルの中には、お互いに分かれる、という覚悟が出来ていない場合もあろう。その場合は少なくとも二人の関係がより心地よいものとなるための話し合いが必要であろう。そのひとつとして私が考えるのが「お互いに感謝する。」「お互いを他者と認識する」という原則である。これをどこまで守れているかを検討することである。それらが守られるならば、夫婦は円満に(あるいは少なくとも争いごとがなく)やれるだろう。しかし普通の人間ははこの原則を完全には守れないから、二者関係は円満にはいかないことにある。

私の立場は少なくともどのような関係であれ、この原則がどの理由で、或いはどのレベルで守られていないかについて認知的に知ることが重要であるという立場だ。なぜならそれを理解することは、その人が将来持つべきあらゆる関係についても当てはまるからだ。私達が他者を許せないと思う時、たいていは他人は自分とは異なる存在、という事を受け入れていないのだ。

まず相手に対して腹が立つこと、許せないことを取り出して考える。ひとつの例として、帰宅したら「ただいま」「お帰りなさい」というあいさつを交わす、ということが出来ない、という簡単な例を考えよう。夫が例えば挨拶に対して無視する態度を常に示す、という事に妻は許せなさを覚える。「どうしてそんな基本的なことも出来ないの?」 ところが妻は挨拶をすることが出来ないという困難さを夫が抱えるとした場合に、それを理解することが非常に難しいのであろう。「どうしてこんな基本的なことができないの?彼は朝出勤したら同僚や上司に挨拶が出来ているでしょう。私に対してだけは出来ないというのは考えられない。」妻はこうして夫は自分を馬鹿にしているのだ、人として見ていないのだ、だから挨拶を返そうとしないのだ、と考え、更に憤慨する。

私もこれを書いていて、挨拶を返さないなんてありえないよね、と思っている。でもこれがとても難しい人も中にはいるだろう、とも思っている。それほど他者は想像を超えた存在だ。こんな人もいるのだと思うことでしか社会で共存できない場合も少なくない。実際この「夫は挨拶を返さない」という訴えは実際にネットを読んでいて出会ったある実在する女性の悩みである。

もちろん妻の方は挨拶を返さない夫の態度を絶対に許せず、その為には離婚も辞さないというのであれば、そのような選択は十分にありうる。お互いに相手に欠けているところを受け入れるという原則は、それにより関係を維持するという事を前提としている。受け入れないから離婚もやむを得ない、と一方が決めたとしたら、それは選択の問題なのだ。恐らく挨拶を返さないという事以外にも、それに関連した様々な点について妻は我慢が出来ないと感じているのだろう。しかし夫のそれ以外の点は許せるとしたら、つまりただ一つ、「挨拶を返してくれない」という事が許せないことで別れるという選択をするという事は、あまりに非合理的というべきであろう。「この人は挨拶を返すことが出来ない、という病気にかかった、でもそれ以外は健康な人だ」と考えれば済むことだからだ。そして当然ながら、妻自身の欠点や問題点を夫の方が許容しているという可能性も同時に理解するべきであろう。



2023年10月4日水曜日

連載エッセイ 9 その4

 快に関する共通経路説に対する反論

さて、この共通経路説はこの後反論に遭うことになる。それはある実験によるものだった。ケンブリッジ大学のウォルフラム・シュルツ Wolfram Schultz が驚くべき実験を発表した。それはこんな実験である。サルの脳の報酬系に電極をさして、その部分の興奮の状態を経時的に記録できるようにして、一連の実験を行った。そしてサルに赤と緑の光の信号を見せた。緑の信号を付けた後には甘いシロップという報酬を与えるようにした。すると驚くべきことが起きた。最初はシロップが与えられたときに報酬系が興奮していたが、そのうち緑の光を見た時に興奮するようになった。これは分かる。「よし、これからシロップがもらえるぞ」と喜びを先取りするからだ。ところが問題は、実際のシロップが与えられた瞬間には報酬系の興奮が見られなかったのである。

 この実験結果に基づき、シュルツはドーパミン系に関する新しい理論を打ち立てた。ドーパミンは報酬に反応して出されるのではない。予測した報酬が実際にどの程度得られたか、という予測誤差 reward prediction error に反応するのだ、としたのである。シュルツはこんな説明をしたのだ。私達は世界が自分に与えてくれるであろう満足体験を予測する。ある期待を持つとそれに向かって進むことが出来る。しかしそれが実際にかなうかどうかは分からない。そして満足体験は、将来それが確実に得られるとわかった時点で体験されるのだ。だからネズミは緑の光が点灯した時点で満足するが、その予想にたがわずシロップが得られたときは、予測通りであった(予測誤差がゼロであった)ためにドーパミンの興奮は起きなかったのである。

 しかしこの実験結果は多くの人を悩ませることになった。考えてもみよう。あと数時間でビールが飲める、と想像するのは快感であり、そこではドーパミンが出る。しかしそれが実際にビールを口にする際には微動なりしないのはなぜだろうか? 「ああ、ビールね。先にそれを思い浮かべて楽しんだから、実際にビールを飲んでももう特に気持ちよくないよ。」となるだろうか?絶対そうはならないだろう。ビールを実際に飲んだ時も快感なはずなのにドーパミンが関係しないとはどういうことか? つまりドーパミンの最終共通経路説は正しくないことになるのだろうか?

ここにもうひとつこの説に反する事実も確かめられた。シュルツの提唱するように報酬の予測の際にドーパミンが関与するのなら、脳にドーパミンが枯渇している場合には、数時間後のビールのことを考えても、「よし!あと数時間の仕事を頑張ろう!」というモティベーションは恐らく生まれないのではないか。そしてこれはネズミなどによる実験で明らかになった。しかし問題はドーパミンなしでも、ビールを口にした時の「おいしい」は問題なく体験できるということが分かった。そう、ドーパミンが作動しなくても私たちは快感を覚えるという事実が最終共通経路説に対する反証となっているのである。

このような問題に関してベリッジ Terry Robinson and Kent Berridge が提唱したのが、いわゆる incentive sensitization model (ISM)であった。このISMは、簡単に言えば、私達の体験する報酬には二種類ある事を示したのである。緑の光を見た時の「やった!」とシロップを口にした時の「やった!」は脳科学的には別物だという事である。


2023年10月3日火曜日

カップルセラピー その2

 授業の参考文献として、私ががつて書いた「自然流精神療法入門」の第7章「精神療法と夫婦の関係とはどこが違うのか?」を用いる。今から読み返してもあまり異論はない。


精神療法と夫婦の関係とはどこが違うのか?「自然流精神療法の勧め」第7章から。


本章のテーマは終始私の頭にあるものの、取り上げるべきかどうかいろいろ迷ったものです。それは私が属している精神分析の世界ではこの種のテーマはあまり扱われない傾向にあるからです。しかし精神療法と夫婦関係は、同じ二者関係という意味で多くの点で照合可能であり、またテーマに沿って深めることが、両者は類似しているという結論が出ようと、その相違点がより明らかにされようと、それぞれの関係を理解するうえでの助けとなるものと考えます。

先日私と精神分析を続けている独身女性の患者さんAさんが、次のように言いました。「私はここに週4回も来てあなたと会って二年になるんですね。これじゃ会話のない夫婦よりもっと長く話し合っていることになるんじゃないんですか?」

私は「確かにそうかもしれませんね。」とうなずきました。すると彼女は、「でもきっと私も結婚して、本当の関係に入らなくてはならないんだわ。」と続けました。

私はこのAさんとの会話がその後も長く頭に残っていました。確かに週4時間も、彼女自身の人生について深刻な対話をするということは彼女にとってもおそらく例外的な体験でしょう。彼女が過去に持った短い結婚生活でも、夫と満足な会話が交わされたことは非常に少なかったといいます。

しかしまた私はAさんの、「精神分析ではない『本当の関係』」という言い方にも引っ掛かったままでした。彼女の言葉はある種の前提、すなわち「療法家と患者さんの関係はいわば仮の関係であり、夫婦関係は本当の関係である」という一見もっともな前提を含んでいるわけですが、それに対して「果たしてその通りなのだろうか?」という疑問がわいたのです。

確かに治療関係は人工的で、契約に基づくものであり、料金のやり取りを含みます。他方では夫婦関係は両者の間の打算を含まない純粋な愛情を前提としたものが理想といえます。しかし実際にはこのような区別が必ずしも成り立たないことも事実です。結婚生活が多くの計算や欺瞞に基づくこともあるでしょう。また同時に治療関係が夫婦関係とは異なる意味で純粋さを含んだ「本当の関係」としての側面を持つことも可能ではないかと思うのです。


夫婦は、その関係が壊れないことを最終的な目標としている


夫婦関係の基本的な力動について、私は次のような考え方を持っています。それは二人が互いに別れないということを最終的な目的としているということです。そして夫婦がその体をなしている限りは、「自分達は一生添い遂げるのだ」という一種の幻想を守ることに最大のエネルギーが注がれるものです。

私のこの主張はあまりにも当たり前に聞こえるかもしれません。ただしこういう風にいえばこの主張の狙いがもう少し伝わるでしょう。「結婚生活においては、その関係の維持を脅かすような要素は極力排除されるものだ。そしてその要素には互いの率直さや正直さも含まれうる。」

ところがこの率直さや正直さこそ、精神療法において療法家と患者さんとの間で最大限発揮されなくてはならないものなのです。すなわち治療的な関係の持つ性質と婚姻関係の持つ性質とは、時には矛盾する関係にあるのだ、ということを主張したいわけです。(だからといって婚姻関係を脱価値化するつもりはないということは、後に述べるとおりです。)

もちろん結婚生活がその継続を前提としているからといって、離婚が決して起きないというわけではありません。離婚率が5割を超えるアメリカなどでは、将来破局する運命にない婚姻関係のほうが少数派なわけです。先述の通り結婚は一種の幻想に基づいているのですから、婚姻が一種の契約や何らかの必然性に基づいたものである場合を除けば、この幻想が消失すれば婚姻関係も簡単に崩れてしまいます。しかしその様な場合に人は、「自分は間違った相手を選んでしまっただけだ」と自分に言い聞かせて次の相手を捜し求めるだけです。幻想の内容自体が間違っていたのではなく、それを誰と分かち合うか、という判断が間違っていたと自分に言い聞かせるのです。


精神(分析)療法とは、その関係が終わることを最終目的としている


さてこの夫婦関係との比較で言えば、精神療法や精神分析においてはちょうど逆の事情が見られることになります。つまり療法家と患者さんの関係は、それが終結することが最終的な目標になっています。治療は患者さんが治療体験を通して学んだことを身につけたり、療法家のイメージを内在化したりすることにより、もう実際の療法家を必要としなくなる日を目指しているのです。

「別れることが前提となっている関係で、果たして深い人間的な交流が可能なのか?」と疑問に思われるかもしれませんが、これはたとえば子育てにおいて私達が通常体験していることと通じているのです。私達は自分のまだ幼い子供との親密な関係がやがては終わってしまうことを知っています。もちろんそれは永久の別れではなく、巣立ちという形をとるのであり、たとえ物理的に離れていても、多くの場合親子の深い関係は一生続いて行くものです。しかし共に暮らし、互いの存在を世界で最も大切に思うような関係は、少なくとも子供の側からは破られていくということを、親の側は知っています。しかしだからといって子供に対する愛情に変わりはありません。

この「将来は別れていく」という前提は、私達の子供に対するかかわり方に大きな影響を与えます。たとえば私は息子に対して言う必要のあることは、疎ましがられ嫌われるかもしれないからといって控えることはあまりありません。「将来は彼は離れていくんだ」と自分に言い聞かせることで、見捨てられ不安が最初から防衛されているからです。私との意見が決定的に食い違い、そのために彼が家を出て行くという姿をイメージして、どこかで「ウン、ウン、それもあるだろうな。それも一つの自立の仕方だろう。」ぐらいに思っています。そうでも思わなければやり切れません。

以上の事情は治療関係にもおおむね当てはまります。私は精神療法においては患者さんが率直に連想するのと同様に、療法家も患者さんに対して率直であるべきだと思います。それはもちろん療法家が思っていることや感じていることをすべて口にすることとは異なりますが、療法家の立場からしか言えないことを、機を逃さずに患者さんに伝えることは、療法家の一つの義務だと考えます。私は治療関係で、「ここで必要な直面化をすれば患者さんが自分を嫌ったり、治療をやめたりするのではないか?」という恐れを持つようなことがあったら、それは治療のプロセスを大きく障害しかねないと考えます。療法家は、患者さんがいつでも自分のもとを離れて行ってもいいような心の準備が出来ていなければなりません。

もちろん療法家は患者さんに安全な環境と心地よさを与えることに心を砕かなくてはならないでしょう。療法家の率直さを受け入れる用意の出来ていない患者さんには、そのための準備期間も必要になり、そこでは厳しい直面化やフィードバックは当面は禁物になるかもしれません。また長い目で見て患者さんが治療に留まることがその人のためになると考えれば、「もう治療をやめます!」と治療室を飛び出しそうな患者さんをとりあえずは引き止める努力をすることもあるでしょうし、厳しい現実からいったんは目をそらすことを促すかもしれないでしょう。でもそれらの特別の配慮に基づいた介入は患者さんから去られたり見捨てられたりすることへの恐れとは無縁でなくてはなりません。

さて随分理想論を言いましたから、もう少し現実的な話をいたします。実は療法家が患者さんから去られることを恐れる現実的な理由はいくらでもあるのです。「自分が療法家として未熟だったり無能だったりするから患者さんは去っていくのではないか?」という不安を少しも抱かない療法家はいないでしょうし、また患者さんに対して愛着やそれ以上の感情を持ってしまうことがあったら、その度合いに応じて患者さんに去られることはつらく、悲しいものとなります。さらに療法家が患者さんの支払う治療費により何とか生計を立てているような場合、患者さんに去られることを恐れないということの方が無理な話かもしれません。あるいは精神分析のトレーニングなどで、患者さんが一定の期間治療を続けないと、扱ったケースとして勘定に入れてもらえない、などという場合もあります。(私も実はそれを身をもって体験したことがあります。)

結局このような現実を考えに入れた場合、私がここで主張できるのは次のようなことです。「実際には療法家は患者さんが自分のもとを去ることを恐れることもあるだろう。そしてその分だけ、率直であろうとする療法家としての機能がそこなわれる可能性がある。」

もちろんこの私の主張はある単純な前提に立っていることになります。それは率直であることそれ自体は相手を傷つけ、あるいは憎しみを買う可能性があるということです。そしてこれに対しては当然ながら「二人の人間の率直なコミュニケーションは、両者の絆を深めることもあるではないか!」という反論を招くことになります。私はその主張をもちろん可能性としては認めます。しかし率直なコミュニケーションが二人の絆を深めるとしたら、それは率直さそのものというよりは、その背後にある「それが相手のためになるのなら、嫌われても率直であろう」という、ある種の愛他感情によるものであろうと私は考えます。相手への愛情や思いやりを欠いた率直さは、単なる批判や辛らつさと区別出来なくなってしまいます。

ではその場合の愛他感情が夫婦の間柄でも発揮されるかといえば、必ずしもそうではないのです。夫婦の間柄では、率直さにより表現される愛情とは別の種類の愛情が優先されるでしょう。この点について以下にもう少し私の考えを述べます。


夫婦間で「治療的な率直さ」に優先されるべきものは?


ここまでで私は、「別れることへの恐れや防衛を伴った関係は望ましくない」というニュアンスを与えたかもしれません。しかし私はむしろそれとは逆の事を主張したいのです。現実的な人間関係において深い愛着や生きている喜びが体験されている分だけ、それを失うことに対する恐れも存在します。失うことを恐れるような関係が持てない人は、本当の意味での親密な人間関係を体験していないと言えるのかもしれません。そしてその親密な関係の代表が、夫婦の関係なのです。

それは先ほど触れた親子関係に関しても当てはまります。「子供は将来出て行くものだ」という諦めは、親の側の防衛の上に成り立つものです。いくら諦めているといっても、やはり親は子供が去って行く際には深刻な寂しさを体験するものでしょう。ただそれが子供にとっての人生の旅立ちであることへの喜びが寂しさを軽減してくれるわけです。

そこで夫婦の関係において、お互いの率直さ以上に優先されるものは何か?ということになりますが、正直言って私にはそれを言葉でうまく表現できる自信がありません。でも私自身の経験をお話しして、出来るだけそのニュアンスを伝えたいと思います。

私は晩婚の方でしたから、療法家になって精神分析的な精神療法の経験を積むことが結婚生活にかなり先行していました。そして妻との係わり合いを精神分析的な観点からも眺めてみるということも試みました。しかしその結果として、少なくとも従来の精神分析的な考えは夫婦の関係にはあまり役に立たないと感じることがしばしばありました。もちろん二人の間で起きていることを冷静に反省しようとする、自分の中に起きている気持ちを振り返るという営みは、夫婦関係においても大切であり、それについては精神療法のトレーニングにより身についたものが役立ったでしょう。そしてそれらの反省をもとに私たちは互いに出来るだけ率直に自分の気持ちを伝え、お互いを理解しあう努力をしました。しかしそうすることで得た二人の関係に関する洞察や理解は、二人の間で起きている問題の解決のほんの切っ掛けを与えてくれるに過ぎなかったのです。


ではそれ以上に何が必要かといえば、それは私達二人の関係を維持するために必要な「行動」を取ることでした。この「行動」には様々なものが含まれます。相手の話を黙って聞くこと、こちらの言い分を率直に話すこと、相手に謝ること、相手に対して怒ること、相手に何かを与えること、相手に何かを要求すること、自分からゴミを出すこと、仕事場からの帰りに花を買うこと、相手に甘えることなど実に様々です。それはその時々の二人の関係性により異なるのであり、その関係が少しでも快適になり、長続きするために必要だと直観的に感じられるものなのです。(もちろんその直観が結果的に「間違って」いる場合もあり、関係は悪化するかもしれません。しかしそれによる学習効果があれば、関係をさらに豊かにすることが出来るでしょう。)

この「行動」には一つの特徴があります。それは多くの場合「自分はなぜそうするのか?」とか「こんなことをする義務があるのか?」とか、あるいは「こんなことをする権利があるのか?」等の答えを見つけることが難しく、また見つける必要もないということです。たとえその「行動」を取ることが理不尽に感じられるようなことがあっても、二人の関係を維持するために必要なことなら実行されるのです。

そして自分がどのような「行動」を選んで実行に移すかは、その個人個人の問題です。ですからそのプロセスを相手に事細かに伝える必要はありません。伝えようとしても、その多くは言葉に出来るような内容を含んでいるわけではありませんし、人間はどのような「行動」を取ろうと、取るまいと、いくらでもそれに理屈をつけることが出来るのです。そしてそのその「行動」の理屈ではなく、結果のみが二人の関係にとって意味を持つのです。

以上のことを逆のほうから言えば、相手との関係を維持するための「行動」をどこまで取れるかが、自分が夫婦の関係に執着しているかを結果的に示しているといえるのです。


私はこの感覚を得てから、傍目から見るとどうして配偶者にそこまでしなくてはならないのか、と思えるような夫婦の行動が少しわかるようになったと思います。アル中で常に暴力を振るう夫にそれでも従う妻、精神病院に入退院を繰り返し、挙句の果ては入院中の男性患者さんと出来てしまうような妻のもとに、それでも毎週面会に訪れる夫、などなど。通常なら見限るべき相手に手を差し伸べるという行為は、もう理屈では説明できません。彼らにとっては、相手と別れ(られ)ないという前提がまずあって、そのために取るべき「行動」が決まってくるのです。

二人の関係が維持されていく一方で、率直な言語的交流は驚くほど意味を失っていることも少なくありません。それこそほとんど言葉を交わさないけれども、しっかりと維持されていくような関係も存在するのです。先に述べたように、言葉が理由付けとして以上の意味を持たない場合は、余計な言葉を交すことは二人の関係を逆に空虚なものにするだけかもしれません。ただし無論、言葉を交すことが選ばれた「行動」であるならば、話は別です。

ところでこの「行動」には通常はある程度のエネルギーが必要となります。時にはその「行動」の後に、自分が予想もしていなかったほどのエネルギーを発揮していたことに気がつくこともあります。しかし逆の場合もあります。つまりそのエネルギーがどこからも湧いてこないために二人の関係にとって必要と思える「行動」を取ることが出来ず、これが相手に対する自分の気持ちの限界だったのか、ここまで自分は薄情だったのかと知ることもあります。そしてこの関係の維持のために自分が使うことの出来るエネルギーの量が、「相手に対する愛情の深さ」という極めて漠然とした呼び方をされているものの、具体的な指標となるのです。「愛情とは選択である」という理解の仕方をする方の多くは、私の考えのここの部分に賛成していただけるでしょう。


最後に ― 治療とは非現実的な関係である


治療的な関係と結婚関係を比較して改めて思うのは、治療は婚姻生活のもつ「一生別れない」という前提とはかなり異なった、ある意味では正反対の「前提」をもった営みであるということです。それはお互いに率直であるということの代償として、決して互いを束縛しないという前提です。(もちろんこれは相手を束縛したいという願望を持つこととは別物です。)そしてそのためには決まった構造(決まった治療時間、決まった場所、そして限定された治療期間)以外には療法家と患者さんが日常的な接触をしないということがかなり重要なのです。日常レベルで接触しないことは、互いを束縛しない第一歩であり、これはお互いをかなりの程度に束縛しあう運命にある結婚生活とは相反するものです。

治療関係は、時間がくれば別々の世界に帰っていく運命にある二人により作り上げられる架空の世界です。そこでは患者さんは療法家がいかなる努力も惜しまずに、自分の考えや感性を提供してくれるという幻想を持ちます。療法家も限られた時間だからこそ全力疾走してその患者さんの期待に応えようとすることが可能です。

このような治療構造に守られて、患者さんは理解され、洞察が深まり、ある程度は満ち足りた気分で治療室を出て仕事場や学校に戻ります。でも考えても見てください。家に帰るとその療法家が同時に同居人であり、一足先に帰宅してステテコ姿で寝転がってビールを飲みながらプロ野球中継を見ているということが想像しうるでしょうか? そのようなことが倫理的に許されるかどうかという問題は別にしても、療法家はその様な形で患者さんの日常に入り込むことで、すぐにその影響力の大きな部分を失ってしまうのです。

療法家が自らの私生活をあまり語らず、患者さんもそれに興味を持ちつつ触れようとしない一つの理由は、この治療関係の非現実性を守ろうとする相互の意図がそこで合致しているからです。この非現実性がお互いの率直さや正直さにより互いの心的な現実の交換を保障するというのはつくづく逆説的なことといえるでしょう。

2023年10月2日月曜日

カップルセラピー その1

12月の講義の準備である。 

 私はこの問題について発表したことがないが、何しろ「当事者」である。恐らく臨床のケースについて考えるのに費やした時間と同じくらいこの問題についても考えてきた。だからそれなりの持論がある。

1.まず夫婦間の問題はいくつかの類型に分かれると思う。一つは互いに親密さを感じなくなっている(そして互いへの関心を失っている)が、生活の都合上結婚生活を続けている場合。

2.お互いに(あるいは一方が)相手に相当な不満を持ちながら、関係を維持ている場合である。

 このうちセラピストは2番の問題を扱うことが圧倒的に多いと言えるだろう。しかし1.の場合にも、夫婦の間柄が冷え切っていながら別れずにいるということになり、これも非常に不幸な問題と言える。この両者について私はそれなりに意見を持っているが、まずその前に述べておきたいことがある。それは婚姻関係の自然史である。カップルはどのように成立し、結婚し、生活を継続し、最期を迎えるか、である。

婚姻関係のナチュラルヒストリー

 私にとって結婚生活は謎に満ちているが、もっとも不思議なことは何かと言えば、配偶者はこれほど身近な存在でありながら、ほとんどのケースでお互いに関心を持たず、またお互いの言葉は響かなくなっているという事である。しかしそれでも身体的には(性的な意味ではないとしても)親密であり、寝室を共にしていたり互いの前で着替えをしたりということが普通になっている。このパラドクスは非常に興味深い話である。

 どうしてこのようなことが生じるのか。その最大の問題は、与えられているものの有り難さが分からなくなるということである。この性質がある限り、人は決して幸せになれない。これを第一の原則としよう。

① 配偶者により与えられるものの多くは早晩相手にとっては「定数」化する。

 例えばあるカップルが知り合い、関係を深め、ついに結婚したとしよう。夫の方は温厚で女性に暴力を振るうことのない穏やかな性格。奥さんの方はきれい好きでとても料理が上手いとしよう。そしてそれらの長所はお互いにとても大きな意味を持つ。夫の方は、家の中がいつもピカピカで、美味しい手料理が食卓に並ぶことにとても満足をしている。彼の実家では母親があまりキレイ付きでなく、家の中はいつも散らかっており、また共働きの両親は不在がちで、食事を自分で調達するということはざらだったために、彼女のきれい好きで、料理が上手だという長所を非常にありがたく感じていた。また夫の男性の温厚さは、妻にとっては家の環境をとても安全で心地よいものにしてくれる為に、とてもありがたかった。というのも妻の方はその実家では酒に酔った父親が常に暴力を振るい、とても安全な環境と言えなかったからだ。

 夫の方は思う。いつも身ぎれいでしかもお金を無駄使いしない奥さんについて、こんなに素晴らしい配偶者はいないだろう、くらいに思う。しかし徐々にそれらの性質は定数になる。夫にとっては奥さんがいつも部屋の整理整頓をしてくれるのは当たり前になる。また妻にとっては、夫が暴力を振るわないのは当たり前のことになる。

 この原則に従わない人間は少数派だろう。それは相手にしてもらうことが「定数」にならず、毎回感謝の念を抱くような場合である。

 たとえば部屋をきれいにしてくれる妻に毎回感謝する夫は、常に自分の子供時代に過ごした家の乱雑さが思い出され、「何と自分は幸せだろう」と実感する場合だ。つまりそれが一種のトラウマとして思い出されるために、妻のきれい好きのありがたさを常に感じるという場合。あるいは職場の同僚が「うちのカミさんはいつも家の中が散らかり放題だ」という話を聞いて、「何と自分はラッキーだ」と思う場合であろう。また夫の穏やかな性格を有り難いと思う妻は、例えば家に帰ることが安全地帯に帰ることだという体験を持てずにいた妻が、毎回その昔の体験を思い出しては穏やかな夫を思いやる。


もう一つの原則

② 結婚後にお互いに及ぼし合う影響力は徐々に低減し「いくら言っても変わらない」部分だけがお互いに残る。そしてそれは「相手は決して自分を曲げない、過ちを認めない」という確信となる。(人の意見で変わると、「自分のことを軽視しているからだ!」と被害的に受け取ることが多い。)


2023年10月1日日曜日

心理臨床学会 自主シンポ DIDの心理療法 「交代人格の調和的共存に向けて」

 「交代人格の調和的共存」に向けて

 私達が毎年行っているDIDについての自主シンポの今年のテーマは、交代人格の調和的共存という事についてです。

私は常々思っているのですが、解離性同一性障害というのは病気というよりは一つの特殊能力だと思っているのです。いくつかの人が基本的には他者通しで共存する、そして人生のそれぞれの部分を担当するという特殊能力なのです。ただしその際に交代人格の間でいろいろな問題が生じる可能性があります。それを説明する上で、私はよくマイクロバスのたとえを用います。DIDはいわば一つのバスに複数の同居人が住んでいて、誰がハンドルを握り、どの方向に行くかに関しての問題がしばしば生じている状態なのです。

 このたとえでは主たるドライバーが主人格さんに相当します。そして時々運転手を交代する交代人格さんがいるわけですが、一つの問題はお互いにお互いが運転している様子を見ている場合と見ていない場合があるという事です。さらには同居人の中には、主人格の運転する方向とは逆の方に行きたがったり、そもそも子供で運転ができない人格もいます。さらにはわざと車を事故らせたりする人格さんもいたりします。それが患者さんの人生を送る上での障害となる場合があるのです。

 そこでDIDの方々に治療者としてどう関わるかという事が問題になりますが、、一昔前は、全ての人格を統合して一人にしましょう、という考え方が主流でした。しかし今では、まずそれぞれの人格さんの主張を聞いて、そして人格さんたちがお互いを知るという事のお手伝いをしましょう、という風に変わりつつあります。つまりまずは交代人格の「調和的共存」を目指しましょうという考え方に移ってきており、それが今回のサブタイトル「交代人格の調和的共存」となっているわけです。

ただし調和的共存がゴールとは言えないかも知れません。その先に統合が起きなくてはならないと考える臨床家もいます。しかしまずは共存する、その為にお互いを知り合う必要があります。それが第一ステップなわけです。そしてその為には治療者が一人一人と個別にラポールを形成する必要があるわけですが、ケースごとに特徴があり、その連絡の取り方に工夫が必要な場合もあるわけです。

私は今回交代人格の間の調和がとれない典型的なケースを4つ考えてみました。

  • 子ども人格が甘えてくる、仕事の邪魔をするパターン(子ども人格タイプ)

  • 異性の人格が服装やライフスタイルを嫌悪する。(異なる性自認のタイプ)

  • 別の同性の人格が別の恋愛対象を持つ。(異なる恋愛対象のタイプ)(ここには主人格と利害が不一致で、それを力づくで押し通そうとする人も含まれます。)

  • 黒幕人格が何かと破壊的になる。(黒幕人格タイプ)

  • (連絡が取れない人格のタイプ)

2023年9月30日土曜日

テクニックとしての自己開示 その4

 H. Bacal の最適な応答性 optimal responsiveness の概念

 自己開示との関連で私がここで紹介したいのが、バカルという分析家の「最適な応答性」という概念である。バカルはカナダ人のコフート派である。(カナダ人ということもあって彼の名前 Bacal は英語読みの「ベイカル」ではなく、フランス語読みの「バキャル」という事らしい。

 この「最適な応答性」という用語は、フロイトの「最適な欲求不満足 optimal frustration」と対をなしている。コフートは1977年の「自己の修復」で「最適な欲求不満足」がその治癒プロセスで重要であると説いたが、その際同時に「最適」とは何かについてのことかも問題にしている。最適な、という限りは欲求を満たすことにもそれがあり、最適な欲求不満足も最適な欲求充足 optimal gratification も患者にとってよりよいものであればいい、という事になる。ただ 欲求充足 gratification という概念はあまりに禁欲的なフロイトの精神分析にはそぐわないう事もあり、応答性 responsiveness という用語をバカルが用いたという事であろう。

Bacal,H (1985) Optimal Responsiveness and the Therapeutic Process. Progress of  Self Psychology. (1):202-227

 いうまでもなく、応答性とはそこに居て答える、反応するという意味である。精神分析においては分析家が無反応であることが様々な問題を引き起こすので、少なくとも反応性は保っていましょう、というメッセージが込められている。これに自己開示の問題と重ね合わせると、治療者の自己開示は治療の文脈で必要に応じて、多くは患者からのリクエストにより行われるものであるということが出来よう。

「来週のセッションは、学会出席の為にお休みします」という治療者からの自己開示は、セッションの中止を伝えた際に患者から「どちらかに行かれるのですか?」と問われて答えた場合と、自分から積極的に伝えた場合とではニュワンスは非常に異なるのである。そして学会出席のことを特に伝えない場合にも、最初からそのことに触れない場合と、患者から「来週は何か先生は御用があるのですか?」と問われて「・・・・・・・」と無応答である場合とでは全く意味が異なってくるのだ。

このバカルの論文で有用なのは、患者の求めに対して自己開示をしない場合に生じる欲求不充足を、最適な欲求不充足 optimal frustration と、外傷的な欲求不充足 traumatic frustration に分けているという事である。この分類も興味深い。


2023年9月29日金曜日

テクニックとしての自己開示 コラム

 自己開示:コラム)受付時の表情がすべてある  ―第一印象のそのまた表層、「第一表層」について―


 昨日自宅近くにある耳鼻科を受診した。喉の調子が悪いので、喉頭鏡で調べてもらったのだ。それにしても最近の喉頭鏡は実によくできてる。すごくフレキシブルで、吐き気もほとんどなく・・・・・・・という話ではなく、医師の第一印象の話だ。私はその耳鼻科の女医さん(40代女性)がとてもいい先生だと思ったし、これからも時々通おうと思った。診察はほんの10分足らずで、その大半は四苦八苦しながら喉頭鏡を鼻から入れる作業に終わったので、ほんの一瞬、しかもマスク越しの会話をしただけだが、その先生は感じがよかった。最近おなじ耳鼻科にかかったカミさんの印象も同じだったというので間違いない。

 第一印象で私達は「この人は親身になって話を聞いてくれるか」という事に関心を払うわけだが、もちろん一瞬でその人の価値などわかるはずもない。入試の際の口頭試問や就職の際のなど、それこそ30分ほどかけて色々質問をしてその答え方を見るわけだが、それが結果的に大外れだったりもする。私自身もどうしてこんな一瞬の印象でその耳鼻科のお医者さんを信用するようになるのか、とおかしくなる。しかしそれはまさに私たち医師がに期待することを反映しているのだ。例えばグーグルの星を貰う時に、患者さんたちが持つ印象と同じなのだ。間違いなく医師は何かを発し、或いは何かを捉え損ね、それが患者に伝わり、それが好印象や悪印象を与える。しかしその一瞬の印象は正しいのか?

 私のよく知る精神科医で、私はとても好きなのだが、グーグルではあまりいい星を貰っていない人もいる。その医師に低いポイントを付ける患者はその医師のいい点を拾っていないのではないかと思う。もったいない話だ。しかし彼(女)は患者に対しては全く別の側面を見せるかもしれない。患者の側からすれば、とても大切なプロセスなのだ。

 もとより動物としての人間は、この人を信用できるかどうかをまさに一瞬で判断する必要がある。ちょうど散歩中のワンちゃんどうしが道で初めて出会った時に、おしりを嗅ぎ合うのと同じだ。何しろワンちゃんたちは、相手の見てくれよりは、おしりの匂いが決定的なのだ。そちらからくる嗅感覚がはるかに頼りになるのだろう。

 もちろん第一印象がすべてではない。第一印象がかなり悪かったにも関わらず関係を持ち続ける内にゴールインしてしまったというカップルも時々聞く。それとは反対に、最初の瞬間でビビッと来て意気投合しても、結婚して半年でお互いに我慢が出来なくなってしまうという場合もある。ただ恐らく相対的には、第一印象の持つ意味はやはり大きいのだろう。第一印象がお互いにいい相手となら、悪い相手とよりもより長く良好な関係を持つことが統計的には言えるだろう。(実はその様な統計の存在を知らないが。)

では私たちはその一瞬の間に何を見ているのか。

この議論は自己開示の問題と間接的につながっているはずだ。しかし自己開示というよりは、self-presence というくくりの方がより正確だろう。何と訳すのか。「自己呈示」だろうか? しかし最近よく聞く tele-presence という言葉に提示は合わない気がする。