2022年7月13日水曜日

不安の精神病理学 再考 3

 不安に関する森田の考え方は、この短いまとめには表されてはいないものの、死生観に通底している。以前に書いたもの(2014年「死生学と森田療法」)から該当部分を抜き出すことにする。これはそもそも心理療法をする側は、自分なりの死生観を持つべきだという立場から発している。

まず森田療法の根本的な姿勢は「とらわれを捨てよ」、ではなく「とらわれに対するとらわれを捨てよ」だったのだと考えることで、森田療法と精神分析の逆転移の概念はつながるのではないかと思う。とらわれるな、とは分析的には、逆転移を捨てよ、ということだが、それは治療者が人間として生きている限りは無理な注文であろう。そしてこの自分のあり方に対して同時に別の視線を持つということが、後に述べる実存的な二重意識ということにつながるのだ。

そこでとらわれや受容の問題を考える時、やはり最終的に残ることは死の問題だ。とらわれの究極は、やはり生へのとらわれや死の回避に関するものだろうと思う。そして森田にとっても、死の恐怖をいかに克服するかというテーマが重要なテーマだった。森田療法を編み出すことにより、森田先生は死を克服できたのだろうか? 

ある論文から引用する。
「森田正馬は,死をひかえた自分自身の赤裸々な姿を,生身の教材として患者や弟子たちに見せることによって,今日言うところのデス・エジュケーションをおこなった人である。彼は1938年に肺結核で世を去ったが,死期が近づくと,死の恐怖に苛まれ「死にたくない,死にたくない」と言ってさめざめと泣いた。そして病床に付き添った弟子たちに「死ぬのはこわい。だから私はこわがったり,泣いたりしながら死んでいく。名僧のようには死なない」と言った。いまわの際には弟子たちに「凡人の死をよく見ておきなさい」と言って「心細い」と泣きながら逝ったと伝えられている。

弟子のひとり長谷川は,次のような追悼の文をしるしている。「先生は命旦夕に迫られることを知られつつも,尚生きんとする努力に燃え,苦るしい息づかひで僕は必死ぢゃ,一生懸命ぢゃ,駄目と見て治療してくれるな』と悲痛な叫びを発せられた。『平素から如何に生に執着してひざまづくか,僕の臨終を見て貰いたい』と仰せられる先生であった」。虚偽,虚飾なく,生の欲望と死の恐怖を,最後まで実証しつつ死んでいったのである。(岡本重慶)

これを読む限り、森田先生は最後まで死への恐れと対面しながらこの世を去ったようである。ところで森田先生は、「死への恐れは、生に対する欲望の裏返しである」という表現をしている。生への欲望があるからこそ死を恐れることになる。しかし森田のこの考えにはある疑問が生まれる。「では生への欲望を抑えることが死への恐怖の克服につながるのか?」 もしそれに対してクリアーな回答をしていないとしたら(そして私が知る限り森田はしていないようだが)それが彼が至った疑問であるのだろうと思う。

 精神分析の分野では、米国の分析家アーウィン・ホフマン Irwin Hoffman が、他に類を見ないほどにこの死生観の問題について透徹した議論を展開している。彼の死生学はその著書 “Ritual and Spontaneity(儀式と自発性)” の第2章で主として論じられている。ホフマンはフロイトの1916年の「無常ということ」という論文を取り上げている。そしてこの論文は、死についてのフロイトの考えが、実はある重要な地点にまで到達していたとしているのだ。この無常についての英語の原題は On Transience つまり「移ろいやすさ」ということだが、フロイトはこの論文の中でこんなことを言っている。「移ろいやすさの価値は、時間の中で希少であることの価値である」。そして美しいものは、それが消えていくことで、「喪の前触れ」を感じさせ、そうすることでその美しさを増すと主張し、これが詩人や芸術家の美に関する考え方と異なる点であることを強調している。いかに永遠の美をそこに凝縮するかを彼らは常に考えているのだ。そしてフロイトの論じる美とは、それとは異なるものとして論じられているのだ。

2022年7月12日火曜日

不安の精神病理学 再考 3

  ところで不安と言えば、森田療法だ。彼こそが、脳科学的な知識がほとんど得られない状態で、彼なりに不安の理論を打ち立てた人なのだ。「不安又は恐怖関連症状に対する森田療法」(中村敬先生)を読んでみよう。「森田は神経質の多様な症状の背後に比較的共通の性格傾向が認められることに着目し、神経質性格と呼んだ。神経質性格とは、内向的、自己内省的、小心、過敏、心配性、完全主義、理想主義、負けず嫌いなどを特徴とする性格素質をさす。この様な神経質性格を基盤にして『捉われの機制』と呼ばれる特有の心理的メカニズムによって不安や恐怖症状が発展すると考えられる。」

いや、改めて森田先生、すごいなあ。本当に自分をよく観察して、まさに自分のことを書いているのだ。ただしこれは不安という現象だけでなく不安を常に持つような性格全体を「神経質性格」といういわば構造として理解するという試みだ。

不安とは何か。「将棋の渡辺くん」は私の愛読書(ただし漫画)だが、彼は行ったことのない場所で仕事がある時は、前日に下見に行くという(もちろんそのような余裕がある場合だが)。それほど万が一たどり着けないのが不安なのだ。行きつけないならタクシーを使ったり、主催者に電話をしたりなどできるだろうに。しかし彼は藤井聡太君との将棋のタイトル戦などで三連敗してもそれほど意に介しているようには見えない。「このまま永遠に負け続けて恥をかいたらどうなるのか?」などは考えないようである。要するに迷子になるという状況は彼の心及び身体を不安な状況に陥れる何かの事情があるのか。ここで禅問答のようになってくる。人は身体が不安状態になるからそのことが不安になるのか。その逆か。
 野生の環境に置かれたことのない子供のサルは蛇を見ても恐れないという。ところが蛇を見たら大騒ぎをする野生の猿の映像を見せると、人の手で育ったサルたちも蛇を恐れるようになるという。おそらくそこで起きているのは、野生の猿が蛇を見た時に陥る闘争逃避反応をそのまま写し取っているからだ。ということはやはり体の反応が最初なのだろうか。
 体の具合と言えば、例えば鬱に伴う不安などはまさにそうではないか。あれはもう生物学的と言ってもいい、わけのわからない不安。わけもなく救急を受診したくなるのだ。

2022年7月11日月曜日

不安の精神病理学 再考 2

 ところでここでもう一冊、とても力強い底本を確保。たまたま一章を書いたことで出版社から献本されていたものだ。講座精神疾患の臨床 3 松下正明、神庭重信監修 不安又は恐怖関連症群、強迫症、ストレス関連症群、パーソナリティ症 の第4章「パーソナリティ症及び関連特性群 総説」高価でとても手が出ない。17600円。なぜこんなに高いかと言うと、たいてい全国の精神科の医局で全巻揃えて購入されるからだ。個人で買える人は少ない。
 そこで不安又は恐怖関連症群 総説(大川翔、清水永司先生著)を拝読すると、こんなことが書いてある。「不安という概念は古く、・・・現在の様な病名としては出てこなかった。・・・アメリカの神経学者であるGeorge Beard により提唱された神経衰弱neuroasthenia の概念が広く浸透し、不安に関連する疾患はほとんどこのカテゴリーに属していた。(p.4) そしてフロイトもこの神経衰弱という概念から不安に基づく概念を取り上げ、不安神経症と名付けた、とある。そうか。不安神経症はフロイトの言葉か。面白い。フランス留学当時(1986~7年)やはりパリで「プシカステニー」つまり神経衰弱という言葉をよく聞いた。不安に駆られて日常の生活がままならず、怯えて抑うつ的になっているような人々を、「神経衰弱」という便利な言葉でくくることが出来ていた。つまりそこにあるのはある種のエネルギーの欠乏であり、不安はその症状の一つと言うニュアンスがある。たしかに不安症状を抱えている人はそれ以外の様々な身体症状や気分障害を抱えている。もちろんそのような複合的な症状を呈している人が臨床家のもとを訪れるのであるが。
 ともかくも不安症の概念に大きく貢献した。不安神経症、神経衰弱、心気神経症を現実神経症に、そしてヒステリー、強迫神経症、恐怖症、自己愛神経症は例の精神神経症に含まれる、としたのだ。そうか、彼の分類がその後の精神医学における分類の下書きになっているのか。ところで現実神経症とはどういう意味かご存じだろうか。要するにフロイトによれば現在の性生活上の問題が影響しているということを意味するのだ。

2022年7月10日日曜日

不安の精神病理学 再考  1

 また注文が入ってしまった。「不安の精神病理学再考」という依頼論文。こうこれ以上は無理、これで最後、ということでいちおうはお引き受けした。しかし不安だけでも大変なのに、それを「再考」など大それたことができるのだろうか? これははっきり言ってむちゃブリではないか、と思いつつ何かを考え始めている。私が今回底本とするのは「DSM-5を読み解く 4 不安症群、強迫症及び関連症群(神庭重信、三村将総編集 中山書店」の一章「診断と概念の変遷(塩入俊樹著)」である。とにかく不安症群が再考を迫られるようになっているのは、不安症群に対するある種の格下げが起きているからだ。一昔前なら、神経症=不安症 という見方があった。要するに神経症とは不安の病という観念は、フロイト以来あったのである。フロイトの言ったことが何もかも正しい、というわけではないが、彼の定式化はやはり長い間準拠枠になっていたのである。

ともかくもこれまではいわゆる神経症群≒不安症群にあらゆるものが入っていたが、DSM-5(2013)に強迫神経症、PTSD,急性ストレス障害が不安性障害から「旅立って」いったのだ(塩入、p.2 中山書店 2014)ただしそれだけでは不安性障害はパニック障害、全般性不安障害、社交不安障害くらいだけになってしまうので、外部から補強がなされた。それが分離不安障害と場面緘黙だったのである。うん、ここまでは少しわかりやすくかけた。
 ちなみにフロイトは不安を、外界の危険を適切に処理できない時に誰もが抱く現実不安(正常不安)と、精神内界に生じた興奮を鎮めることが出来ない時に病的に生じる神経症不安の二つに分けた。これは彼独特のリビドー論に裏打ちされたものだが一定の支持を得、神経症概念の一つとして重視されていた。

2022年7月9日土曜日

パーソナリティ概論 9

  DSM-Ⅳまでのカテゴリカルモデルに対する批判には疫学的な問題も多く絡んでいた。つまりカテゴリー的なPDはそれぞれの概念は直感的に理解できるものの、実際にどのように分布してどれだけ多く存在するかといった疫学的な視点は希薄であった。そのため、例えばⅡ軸に記載されるPDと1軸の精神障害の合併が高率であったことによる多軸評定の撤廃、NOSの存在が多くなったこと(同じく赤119)診断閾値に基づく現代医学的なアプローチと矛盾していること(9つのうち5つを満たせばOK、といういわゆるポリセティックな診断方式では、あまりにもそれに該当するケースの異質性が目立つ)

またDSM-5において第Ⅲ部においても選定された6つのPD(境界性、反社会性、回避性、自己愛性、強迫性、統合失調型)は、「選に漏れた」4つ(猜疑性、シゾイド、演技性、依存性)に比べて有病率も高く、トラウマの既往も高く、物質依存なども多かった。つまり概念としては分かるが、あまり実際の患者の数に反映されなかったということだ。

2022年7月7日木曜日

パーソナリティ概論 8

 病態論の最初の部分。30年以上前に買ったアッカークネヒトの「小精神医学史」をここで引用することになろうとは思わなかった。PDFにしておいてよかった。

1 概念と病態

パーソナリティ症〈パーソナリティ障害〉(personality disorder)についてDSM-5は以下のように定義している。「その人が所属する文化から期待されるものから著しく偏り、広汎でかつ柔軟性がなく、青年期又は成人期早期に始まり、長期にわたり変わることなく、苦痛又は障害を引き起こす内的体験及び行動の持続的様式である(DSM-5)」。そしてそれは認知(ものの捉え方や考え方)、感情のコントロール、対人関係といった種々の精神機能の偏りから生じるものである。パーソナリティ障害は、基本的には生来の気質に様々な環境因が及ぼされることで形成されると考える。このようなとらえ方はPDの本質についての議論を概ねを網羅していると考えられるが、この概念の辿った歴史は長く、紆余曲折が見られた。

 19世紀にはフランスのBenedict A Morel (1852-1853) やその弟子Valentin Magnan (1886)などによって,心的変質論 dégénérescences mentales)が展開された。それは広い範囲の精神障害や病的状態と関わる遺伝的特質や体質的異常のためであるとし、一部の人々の示す異常な行動を親から子に遺伝しながら障害としてとらえた。これは解剖学的には変化のみられない精神疾患を病因論的に分類するという試みであり、当時全盛だったダーウィンの進化論と深く結びついていた(アッカークネヒト、p65)。その考えは J-M Charcot に至るまでフランスの精神医学界を席巻した。ここはH. Ellenberger (1980) を引用する。

Ellenberger, H. (1980) Discovery of Unconscious「無意識の派遣―力動精神医学発達史 上 木村敏・中井久夫監訳 弘文堂 1980年

 

パーソナリティ障害 概論 7

 3.診断 こんな感じで始まる

現在の精神医学におけるパーソナリティ障害の分類及び診断をめぐる議論の趨勢は、従来のいわゆるカテゴリカルモデルから、ディメンショナルモデルに向かいつつある。カテゴリカルモデルとは、正常とは画然と区別されるべきいくつかの典型的なパーソナリティ障害を同定して列挙するモデルである。ボーダーラインパーソナリティ、反社会性パーソナリティなど、いわばPDのプロトタイプを列挙するものであり、直感的にイメージが浮かびやすい。それに対してディメンショナルモデルとは、パーソナリティ障害における特性ごとにその度合いを数量的に捉え、その組み合わせにより示すという方針である。離脱の要素は3ポイント、制縛性は2ポイント、などより現実を踏まえつつも直感的には割りにくい。このどちらを選ぶかにより、診断の仕方は大きく異なることになる。本稿ではその両方についての主要な論点を紹介する。

カテゴリカルモデルに基づく診断

2013年に発表されたDSM-52)では、予想に反してこれまで通りのカテゴリカルモデルが前面に示され、準備されていたディメンショナルモデル寄りのモデル(より正確には「ハイブリッドモデル」)は、「III. 新しい尺度とモデル」の中に「パーソナリティ障害群の代替モデル」として掲載されるにとどまった。

他方では2018年に原案が示され、現在世界的に使用が開始される予定のICD-11においては、ディメンショナルモデルが全面的に採用された。このDSMとICDの明確に異なる方針は、PDをめぐる現在の識者たちの意見の相違をそのまま表しているともいえる3)。ただしこのことはこれまで十分なエビデンスの支えもなく論じられてきたPDの概念が、より現代的な姿に生まれ変わるために必要なプロセスとも考えられよう。さらには最近極めて頻繁に論じられる発達障害とPDとの関係性をめぐる問題も今後絡んでくる可能性も

まずDSM-5の概要を示そう。(以下略)