Stern と Bromberg の理論は現代的な分析家の多くにアピールすることとなった。多くの分析家たちは一見DIDの症状を示す患者を扱い、精神分析的な理論やテクニックがどの様に応用できるかについて思案している。ある精神分析の学会におけるラウンドテーブルの企画で、S. Itzkowitz,
R. Chefetz, M. Hainer, K. Hopenwasser, and E. Howell (2015) という5人のエキスパートたちが考えを交換しているが、その中でもHowell と Itzkowitzという二人の分析家がこの件について積極的に意見を交わしている。Howell は Ferenczi の理論に従い、理論を展開するのだが、彼女の扱っている患者は概ね、van der Hart の言うタイプ(2)に該当する。Itzkowitz は「解離的転回 dissociative
turn」という概念を打ち出し、私たち臨床家が解離を扱う際は、分析的な考え方を展開させる必要があると説いている。
ワーキングスルーの過程の目的は、自己の状態を一つの統合された個人に固定することを必ずしも意味しはしない。精神分析の目的は、自分を守るための手段として解離を必要としたりそれに頼ったりするという問題を解決することであり、以前は知らないでいた自己のパーツとの有意義な形での関係性の意味を知り、それを構築するのを助けることである。
これはHowell も述べているように、精神分析において何が必須なのかについての私たちの考えの推移ともかかわってくるであろう。つまり無意識の探求から、自己の創造と自己実現への推移である。
2021年8月21日土曜日
他者性の問題 14
2021年8月20日金曜日
他者性の問題 13
Bromberg による解離に関連したエナクトメントの概念
Stern の考え方に沿って、Bromberg はトラウマの問題は人の心にとって決定的な重要性を持ち、そこでは解離は極めて重要な役割を持つ。Bromberg によれば、トラウマは発達段階のどの段階でも常に生じている。彼はSullivan の教えに大きな影響を受けつつ次のように言う。「解離は極めて共存不可能な感情や知覚が同じ関係の中で認知的に処理されなくてはならない時に生じる。」(Bromberg, 1994, p. 520).
Bromberg が明言しているのは、葛藤という概念は神経症的な人にとっては重要な概念であるが、解離的な患者は、それを持つことがないことが問題なのだということだ。しかし彼は解離が抑圧のないところで起きるとは考えていない。彼によれば、トラウマにより、Sullivan のいうnot me の部分が大きくなり、「安全であっても安全であり過ぎないような環境」(2012, p. 17),において、私でないパートはシステムに統合されるというのだ。Bromberg の業績は、エナクトメントを解離の文脈に持ち込んだことであり、それにより精神分析的な分野における解離の理解の幅が広がった。
エナクトメントを通して、解離されたものは体験されて自己に統合される。治療関係において、治療者は患者によりエナクトされた部分を体験すると同時に、治療者により解離されてエナクトされたものは患者により体験される。基本的にBromberg は解離を対人関係的な現象であるととらえる(Bromberg, 1996)。
しかしこの理論が依然として前提としているのは、解離されたものはその人の心の中のどこかに存在するということだ。解離された部分は「象徴化されていないその人の自己の部分」が投影のようなメカニズムにより他者に伝わるというのだ。別言するならば、Bromberg の解離の対人モデルは、van der Hart のタイプ(1)ということになる。
しかし Bromberg はそれぞれのパーソナリティの独自性を尊重し、「解離された声に対して、それを時期尚早に統合を勧めるのではなく、非連続的であっても自己の個人的に真正な表現としてかかわること」(Bromberg, 1998, p.199)という態度を促進する。この提言は van der Hart’s type (2)に相当するのである。このようにBromberg の態度は文脈によってはタイプ(1)と(2)に該当し、これもまたスペクトラム的な見方を進めることになる。
2021年8月19日木曜日
他者性の問題 12
ここに相違点は明らかである。なぜならStern は解離を防衛機制としてとらえる一方では、Freud は解離ではなく抑圧が第一の防衛機制であると考えたからである。上に見たように、Breuer が類催眠状態という概念を提案したとき、それは大雑把に言えば解離と同義であったわけだが、Freud はそれを「力動的でない」と言って拒絶した。つまり抑圧こそが、危機的な状況で不快な心的素材を心の隅に追いやるメカニズムだと彼は言ったからである。
ここにはStern の解離の概念とFreudの抑圧の類似性が見て取れる。Stern は解離を防衛と考え、それはBreuer が考えたものとは違っていた。Breuer はそれはトラウマが起きた時は自動的に起きると考えた。Stern とFreud のモデルの類似性については、大事なので後にもう少し論じる。
Stern とBromberg により提案されている解離の概念は何が無意識なのかについての独創的な考えにより特徴づけられる。Stern は言う。
Freud が躊躇なしに受け入れたのは、心が、そして無意識が十分に形作られた内容により構成されているという事である(Stern, 2009, p.655.)。
この考慮されない思考 unconsidered belief は古く、広い文化にまたがる前提であり、Freud により明瞭に受け入れられたものであり、それは知覚は感覚的な所与であり、体験はすなわちすでに十分に構成された形で私たちに訪れる心的要素に根差すという考えであった。この前提は、無意識の中には、十分に形を成しているが認識されないものがあり、分析プロセスによりそのベールが取り払われるというものである。Stern は述べているのは、抑圧モデルは客観的な現実に対応した一つの真実があるというものであるという事だ。彼はそれを「対応理論」と呼ぶ。伝統的には、精神分析はこの概念を厳密に守ってきた。彼はこれを「対応」的な真実の見方と称したのだ。
このように Stern の考える無意識は極めて Freud のそれと異なる。彼によれば意味は意識化される際に構成されるというのだ。実はこの考えはWinnicottの解離の概念とも通じるという。というのもWinnicott も「解離されているものはその人には経験されていない」と言っているのだ。“what is dissociated is not
experienced yet by the individual” (Winnicott, 1963, p. 91). これってすごくないだろうか?
2021年8月18日水曜日
●●学会の特別講演に向けて 3
ここでブロイアーの「類催眠状態」を説明します。ある種のトラウマが起きると、そこで意識が二つに分かれてしまう。フロイトはこのように意識が分離して異なる人格が存在した例を自分も体験したと言っているわけです。でもフロイトが一番反対したのは、トラウマと同時に自動的に意識が分かれる、あるいは出来上がるという現象についてです。フロイトはそれは心があたかも自動的に二つに分かれるようで、とても大事な点を見逃していると言いました。それはその意識が防衛的に切り離されたというプロセスです。
ここで一つのたとえを用いましょう。ある優しい女性の人格が荒々しい男性の人格を持っているとします。そしてブロイアーによれば、それが何らかの外傷、例えば性的外傷によって生まれたという説です。ところがフロイトは、その男性人格は、そのもとの女性人格が自分から切り離したい、例えば男性的な部分を徐々に作り上げていたのだ、というわけです。心というのは常に自分が排除したいものを抑圧したり、心の奥底に閉じ込めたりするものであり、多重人格もそのような能動的な心の働きの結果だというわけです。
2021年8月17日火曜日
●●学会の特別講演にむけて 2
この交代人格といかに会うかという事について、実は実際の臨床現場ではある驚くべきことが起きているという事は以前から話には聞いていました。しかしおそらくそれは非常に例外的な現象であろうと思っていたのです。ところがどうやらそうではないのではないかと思うようになりました。
それは日本の精神医学会で、とりわけトラウマ関連で非常に強い発信力を持っておられる杉山登志郎先生の著書にある一文を見たときに明らかになりました。
それがこの文章です。
一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない。
(杉山登志郎 (2020) 発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療 p.105)
これは私がもしかしたら起きているかもしれないと危惧していたことが文章になったものとして私がはじめてであったものです。母親が交代した時の息子の反応を目の当たりにしたことがあります。おびえた子供のように、息子の目をのぞき込む母親に対して、こわごわと母親を見つめ、そして手を握ってあげていました。またDIDを持ったご主人にもたくさん会いました。もちろん少ないながら男性のDIDの患者さんもいらして、そのような方をご主人として持つ奥様の姿もたくさん見てきました。そして一つ思うのは、おそらく別人格が別人であるということを本当に理解しているのは彼ら、彼女らではないかということです。彼らは配偶者や親が人格の交代を起こすのを日常的に体験しています。彼らはそのようにすることでしか彼らに対処することが出来ないという事情が分かっています。というのも多くの場合人格ごとに記憶が異なり、一人の人格とは通じた話が別の人格とは通じない、ということを日常的に体験しているからです。DIDの母親を持った子供は小さいころは、お母さんが二人いると思っていたという話を聞きます。子供にとって母親を識別することは極めて重要になります。あるシーンで、母親の一卵性双生児の妹が訪ねてきたとき、最初は母親と思って抱き着こうとして気配の違いを察した赤ちゃんが、恐怖におののいて泣き出す姿を見たことがあります。いわゆる不気味の谷を赤ちゃんが体験していたわけですが、自分にとっての母親は一人であり、別人格になると他人だということを、幼児の段階で理解するということはとても重要です。交代人格は他者であるという私の主張を支持してくれるのではないかと思うのです。またこれは語弊があるかとは思うのですが、人格が違うと、ペットのワンちゃんがすぐにわかって近づいてこなかったりするということも起きているのです。家で昔飼っていた犬のチビは、妻が呼ぶとしっぽを振ってすぐ来るのに、私が呼ぶと見事に無視していました。犬もまた他者を識別する力を、交代人格に対しても発揮していたのです。
2021年8月16日月曜日
他者性の問題 11
Sullivan や対人関係学派の理論家は解離を主としてトラウマ理論の文脈で論じる。Sullivan の「good me」、「bad me」、「not me」の関係が特に興味深い。これらの中でnot me は深刻な悪夢や解離状態でしか見られないという(Sullivan, 1953)。この体験は痛みを伴うために、原初的な状態(ないしはサリバンが言うところの「プロトタキシック」「パラタキシック」なレベル)でしか体験されない。私たちはサリバンの言う解離は主体(not-me)は主たる主体(”me”)からは独立したものであり、おそらく van der Hart の言うタイプ(2)の域に達しているのではないかと考えられよう。
「解離を曖昧さから救い出そう」と望む分析家たちの唱和が聞こえるという(Goldman, p. 338)。精神分析家であるKluft や Howell や Itzkowitz 達は精神分析的な議論の中にトラウマや解離を導入したが、これらは本来は精神分析のコミュニティの外部で議論されていたことであった。Kluft Putnam は分析的な論文を書いたが、その影響力は限られたものであった(Putnam, 1992, Kluft, 2000)。しかし彼らのリーダーシップは分析の外の世界では違法字大きいものであった。Howell と Itzkowitz (2016)は現代の精神分析における解離の理解をまとめている。
スターンの定式化されていない unformulated 体験と解離
スターンの基本的な姿勢は、解離を第一義的に防衛としてとらえるというものである。「解離はトラウマに関する文献で様々に概念化されているが、解離についての理論は人生における出来事が耐えがたい時の自己防衛のプロセスという概念をめぐっている (Stern, 2009, p. 653)。」彼の言うように、いろいろな個人差はあるとしても、解離の理論は防衛モデルとして描くことが出来る。このモデルを「ヒステリー研究」におけるフロイトの理論と比較した場合、類似性と相違が際立つ。
2021年8月15日日曜日
●●学会の特別公演に向けて 1
現在秋に頼まれているいくつかの講演の準備をしているが、特に大きなチャレンジとなっているのが、パワーポイントに声と画像を吹き込んで動画にするというプロセスである。これまでやったことがない作業なので、少しずつ要領が分かりつつあるが、まだ分からないことばかりだ。大体パワーポイントを拡張子ppt. ではなく、pptx. で保存せよ、等と誰が教えてくれただろうか。(後者で保存しないと、音声データをせっかく埋め込んだのに消えてしまう。)ただこの体験のいいところは、発表をある意味では事前に済ませてしまうというニュアンスがあるのだ。例えばスライドの一枚目に、以下の音声情報を埋め込んだので、もうこれで発表の50分の一くらいは終えたことになる。不思議な体験だ。
今回は●●学会の特別講演という事でお呼びいただき、誠に光栄に存じております。何についてお話しようかと考えましたが、私が日ごろから解離性障害を持つ方々との臨床を行い、また解離性障害についての論文や著書を書いているという事もあり、テーマは解離についてという事でご準備いたしました。そしてタイトルとしては、他者としての交代人格と出会うこと、とすることにいたしました。
恐らくこの学会に属していらっしゃる先生方の多くが、トラウマを抱えた方々、そして解離性の症状をお持ちの方を扱っていらっしゃると思います。解離性障害、特に解離性同一性障害の臨床を行う上で議論しておかなくてはならない様々な問題点が沢山ありますが、その中でもいわゆる交代人格の存在をどのように理解して、どのように出会っていくかという事は、極めて基本的であり、かつとても重要な問題です。そして驚くべきことにこの点について識者の中で意見が大きく分かれているという不思議な現象が起きているわけです。そこでこのテーマについてお話していきたいのですが、これはあくまでも私が持った臨床経験からのお話ですので、臨床家によってはこの問題について全く異なる考えを持っていることもありうるという事を最初にお断りしたいと思います。
